トレセンと現役馬 ②
天道が近づいていくと、先に久瀬が気づいた。
久瀬は暢からファーストステップの手綱を受け取った。久瀬が乗っていた馬は、調教資格のない厩務員が曳いていった。
「お疲れさまです、暢さん」
「駿か。調教スタンドにいなくていいのか?」
暢がヘルメットを外し、汗ばんだ額を服の袖で拭った。太陽が昇り、気温があがってきている。人にとっても馬にとっても、厳しい季節だ。
「優秀なスタッフが揃ってますから。僕が抜けてもやることはやってくれます。暢さんは、このあとの予定は?」
「三十分後に、もうひと鞍乗るよ」
「なら、少し話しませんか?」
「いいよ。場所を移そうか」
暢は久瀬にひと言、労いの言葉をかけ、久瀬は萎縮することなく頭を下げて礼を返した。
「ファーストステップはどうでしたか」
角馬場の脇の道を通り、調教コースを見渡せる丘に足を向けた。青々と草木が生い茂る中、暢が前に立って小道の段差を登っていく。
「まだ力は衰えてない。あれなら、今度の札幌記念でも一着を狙えそうだ」
暢は、マスコミ向けにリップサービスはしても、本来自信家ではない。
「久瀬さんが手塩にかけた馬です」
「さすがだな。今日併せても思ったが、年季の入った人との方が、最近は楽だな」
「若手に気を遣われるの、苦手ですもんね」
「苦手、というか、馬だろ、気にしなきゃいけないのは。俺なんて、どうでもいいんだよ」
「まぁ、そうですね。けど、若手が委縮する気持ちもわかりますよ。生きる伝説ですから」
「俺のせいかなぁ」
「仕方ない、ってことですよ」
丘の上に建てられた東屋の、屋根の下に入った。ベンチは夜露で濡れていて、座れる状態ではなかった。
「ファーストステップだけど」
「なにか気になることでも?」
「さっきも言った通り、まだまだ優勝に絡んでいける力はあるよ。けど、もう今年か来年には、引退させてやった方がいいかもしれない」
「暢さんも、そう感じたんですか」
「も、というと」
「久瀬さんもね、そう言うもんで」
「お前、最近ファーストステップには乗ったか?」
「いえ」
古馬の飼育、調教に関しては、久瀬を中心に、古参の厩務員を中心に回していた。
天道厩舎は、開業二年目で、今年からが勝負だった。馬主から新たに任された新馬が八頭と、昨年戦績が振るわなかった三歳馬が二頭、入ってきている。
この十頭で成果を出せなければ、次につながってこない。そこは、勝てなければ次の騎乗依頼が来ない騎手と、同じである。
ただ、遠野厩舎から引き継いだ古馬の状態も、もちろん頭に入ってはいる。
「多分、乗ればお前もわかるよ。トレセンで走ることに、倦んできている、とでも言えばいいのかな」
「走ること自体に、ではないんですね」
「ああ」
「わかりました。オーナーと話してみます」
「久瀬さんとも、な」
「それは、久瀬さんも倦んでいる、と?」
「いや、余計だったな。なんとなく、そんな気がしただけだ。だからといって、お前が気を回したところで、喜ばれないだろうし」
「あの人は、最低でもあと四、五年は、うちの厩舎に必要です」
「だろうな」
遠野から厩舎を受け継いだ時に、人員が大きく入れ替わった。希望して去った者もいれば、天道から勧めて、辞めさせた者もいる。
新しいものを築くためには仕方のないことだった。だが、しっかりした建物を建てるには、相応の地盤がいる。
長年、幾多の競走馬をレースに送り出してきた経験の集積こそ、地盤であり、天道厩舎で地盤の要となっているのが、久瀬なのだ。
新しく雇った人員だけでなく、天道にしても、調教に関しての経験は久瀬のそれには遠く及ばない。
騎手はレースで勝つのが仕事だが、厩舎の人間は、レースに送り出すまでの馬のすべての面倒を見るのが仕事なのだ。
「参考までに聞いておきたいんですけど、暢さんは、馬に乗るのに飽きたりってします?」
「しないなぁ。一口に馬といっても、同じ馬はいないだろ。この世界で、一頭の馬に十何年も乗り続ける、ってこともあり得ないし」
「ですね」
「引退を考えた時期はあったけど、それもいまは吹っ切れて、やれるだけのことをやろうとしか考えてないしな」
天道が目の病を患う前年のことだ。
暢が落馬事故で怪我を負った。翌年には復帰したものの、数年は戦績が低迷し、騎乗依頼もがくんと減った時期があった。その頃には、やはり引退も考えたのだ、と天道は思った。
「こんな話、なにか参考になる?」
「ええ、おかげさまで」
とりあえず、久瀬に新馬を一頭担当させてみよう、と天道は考えていた。
馬の性格が、世話をする厩務員に似ることがある。ならば、逆に、馬の気持ちが世話をする人間にもたらす影響があっても不思議ではない。
ファーストステップに限らず、馬はトレセンでの暮らしに倦んでくる、というところがある。
トレセンはレースに向けて馬を鍛える場所で、歳月を重ねればしんどくなるのは当然だった。そのため、定期的に北海道や宮崎の牧場で放牧しているものの、擦り減っていくものは間違いなくある。
まだトレセンに馴れていない新馬を一頭、久瀬にあてがうことは、思い付きだが妙案な気がしてきた。
「さて、俺はそろそろ戻るよ」
「はい。僕も調教スタンドに戻ります」
天道は丘を降りたところで暢と別れた。
週末になり、ファーストステップを連れて北海道に渡った。
夏競馬がはじまり、函館と札幌の厩舎には、二頭ずつ、天道厩舎の馬がいる。北海道滞在中の馬の世話をするため、出張させている厩務員と会い、顔色が悪くないのを確かめた。
札幌で、暢と合流し、ファミレスに入って直前のミーティングを行った。あらためて話すことは、あまりなかった。
札幌競馬場八日目、第十一レース、札幌記念。グレードはGⅡである。
芦毛で、墨を流したような鬣をしているファーストステップは、持ち前の末脚を発揮し、札幌記念を制した。
口取り式では、ファーストステップのオーナーは、少し大袈裟に喜んで見せていた。その肚のうちに、大舞台への野心があることは、まだ天道しか知らない。
検量室に戻って来て、暢と握手を交わした。
報道陣の質問を適当にあしらい、天道は検査を受けているファーストステップのところへ行った。
「よくやった」
雲の影のような、斑の模様がある額を、掌で撫でた。
ファーストステップは、もっと撫でろ、とでも言うように、鼻先を天道の懐に押しつけてきた。




