トレセンと現役馬
厩舎の明かりがついていた。
天道が入っていくと、久瀬が、馬具を管理する用具倉庫で銜を磨いていた。
「おはよう」
「おはようございます、久瀬さん。相変わらず早いね」
「じじいは早起きが苦にならん」
久瀬が低くしゃがれた声で言った。こちらを見向きもせず、銜を磨き続けている。こういう狷介そうな雰囲気が、若い連中はこわいらしい。
「ファーストステップ、調子よさそうだね」
久瀬に任せている競走馬だ。五歳の牡馬で、馬の寿命からすれば壮年にあたるが、競馬界では古馬の扱いになる。
「うむ」
「遠野さんの、忘れ形見になった」
「葬儀、どうだったね」
「たくさんの人が集まってましたよ。半分以上は、競馬関係者でした。落合さんも来ていたな」
「ついに一人になってしまったな、あの人も。俺はよくわからんが、競馬学校の同期っていうのは、特別なもんなのか」
「人によると思いますよ。遠野さん、落合さんの期は、若い頃、よく集まって呑んでたみたいです」
「あんたのところの期は、そういうのはなさそうだな」
「ええ。あ、でも小早川と山南とは、この前三人で集まって吞みました」
「懐かしいな。あの二人は、遠野さんも気に入っていた」
「久瀬さんも葬式に行けばよかったのに。遠野さんとは、僕より長い付き合いだったんだし」
「苦手なんだ、ああいうの」
久瀬が咳払いをした。恥ずかしくなったのだろう。
「もうこの話はよそう」
久瀬が立ち上がり、壁かけに銜を戻した。磨き上げられた銜には、くすみ一つない。
馬具が少しでも汚れているのを見つけると、遠藤は担当の厩務員に容赦なく拳骨を落としたと聞く。
昔の話だが、そうして築き上げられた馬をなにより重んじる精神は、天道厩舎でも受け継いでいくつもりだ。
久瀬と馬具庫を出て、事務所に移った。ホワイトボードに、今日一日の、分刻みの調教スケジュールが張り出されている。
「今日は暢さんが来てくれるんだったな」
スケジュールを確認しながら、久瀬が言った。
「ストイックな人です。レース前の追い切り調教以外でも、こうして騎乗予定の馬に乗りに来るなんて。出走レースが少ない若手ならともかく」
西暢は、ほぼ毎日のレースをこなしながら、それ以外でもできるだけ多く、調教中の馬に乗ろうとしていた。
「今年で五十二ですか。だから、久瀬さんの三つ下か」
「俺は、近頃、二頭の調教をするのもしんどくなってきた」
「体力が?」
「それは、案外なんとかなる。衰えるのは、集中力とか、長く耐える力だな。あの人は、大して歳も違わないのに、ほんとうにすごいよ」
話していると、北本と沼倉が出勤してきた。
北本は久瀬と同じ調教助手で、沼倉は厩務員だ。
北本と沼倉は山南の紹介で天道が採用した。二人とも三十前後と、まだ若い。
「北本、遅いぞ。お前、今日一発目だろ」
「すみません。すぐ準備します」
今から準備しても十分余裕のある時間だが、北本は口ごたえせず、久瀬に頭を下げて奥の更衣室に走っていった。
北本が調教する馬を曳いてきた。
馬は、黒地に橙の文字で番号と馬名が印刷されたゼッケンをつけている。ゼッケンの色は、馬齢やレース実績で区分がなされている。
調教スタンドの横にある、広場へと出ていった。
日の出まで、まだ一時間はある。薄暗い中を、他の厩舎の人馬もぞくぞくと集まってくる。馬場開場を待った。
北本と調教内容を確認した。馬場が開かれ、北本を送り出してから、天道は調教スタンドに上った。
そこから自厩舎の馬の調教を監督する。競馬学校にある調教スタンドと、内部の設備や機能は大きく違わないが、いくつか競馬学校にはない計器もある。
北本が騎乗する馬が、馬場での準備運動を終え、周回コースに出ていった。
コースは五レーンあり、内側から障害、ダート、ウッドチップ、芝、ニューポリトラックと床材が異なり、馬の状態や調教の目的に合わせて使い分けている。
北本が芝を二周し終えると、沼倉が出てきた。
馬一頭に対して、およそ二十分程度の調教を行う。
調教助手と、沼倉のような厩務員でも調教が可能な者が、鞍を乗り替えながら全頭の調教にあたっていく。
天道が自ら乗るときもあるが、気になることがない限りは、極力調教助手たちに任せるようにしていた。
一人で面倒を見られる馬の数はたかが知れている。馬だけでなく、人を育てるということも、厩舎を預かる調教師は考えなければならなかった。
陽が昇ってきた。
午前五時を回り、ファーストステップが馬場に出てきた。鞍上には、ブルーのヘルメットを被った西暢がいる。黒のヘルメットを被った久瀬も、別の馬に跨りついてきた。
二頭でウッドチップのコースに出て行った。久瀬がリードするかたちで駈けていく。向かい正面を越えたところで、暢とファーストステップのコンビが外から前に出て、久瀬と並んだ。併走して直線を戻ってくる。
天道は双眼鏡を置き、調教スタンドを降りて暢に会いに行った。




