今春零 ⑥
下地は、スマイルの車でメルボルンのジムに向かった。
スマイルとは、前日に空港で落ちあい、その夜は他のホースマンも交えた五、六人で酒を飲んだ。
その場で、スマイルというあだ名を知った。名付けは零だった。
本人が気に入っていて、周囲にも浸透していた。
人をあだ名で呼ぶなどと、普段ならしないが、本人が楽しんでいるならそれに付き合うのはやぶさかではなかった。
「スマイル、俺は、まだ疑っているぞ」
「まだ言っているのかい、下地さん。零は、日本ではよっぽど撥ねっ返りだったのかな」
スマイルは車を右折させながら明るく笑った。屈託のない男で、零はぴったりなあだ名を考えたものだ、と下地は思った。
車を地下駐車場に入れ、ちょっと歩いた。
八階建ての建物があり、零とエマ・ウォーカーが二人でいるというジムは、そこの四階に入っていた。
エレベーターで四階に上がった。
零は、大型の機械の上に仰向けに寝そべっていた。両手足を宙に掲げ、赤ん坊のような恰好で、傍目には少し滑稽に映った。
その隣にオーストラリアを主戦とする騎手のエマがいて、時々零の手足を押したり引いたりしている。
機械の台座には円柱状の横棒があり、零が寝そべっているのは、その棒の上である。
「下地さん、あのマシンは知っていますか?」
「ああ、西が使っているのを、一度見たことがある」
「あの、西暢が。彼もあの最新のマシンをトレーニングに採用しているんだ。新しいことをするのを怖れない。そこが一流たる所以なのでしょうかね」
「頭の中が、子どものままなのさ」
自分もそうだ。好きなファッション、好きな音楽、好きな食い物。青臭いガキだった頃から変わっていない。
酒を飲むようになった。変わったことといえば、それぐらいだろう。
零は、汗にまみれていた。ただ寝そべっているように見えるが、実は台座の上の棒が複雑に微振動していて、バランスを保つのがかなり難しい。
西に誑かされ、下地が試した時は、十秒と上にいられなかった。二十年前なら、まだ二、三十秒は耐えられたのか。
エマが回り込み、先ほどとは反対の方向から零の足を押した。今度は、バランスを保てず、零は機械から転がり落ちた。
「さ、零、次はレッグプレスだ」
零がエマにしごかれている、という話は、どうやら本当のことのようだ。
「まだやるの?」
「音を上げるのは早いよ。いいかい、あたしたちは、女だ。女ってのはね、男よりいろんなことに頭が回る。それはいい。けど、その賢しさは、騎手として男たちと闘っていくには邪魔なんだ」
エマは、立とうとしない零の腕を掴んで、引きずり起こした。
エマの言っていることが、下地には理解できた。
考える時は、とことん考える。しかし、一度こうと決めたら、あとは愚直にやる。それには馬鹿になることだった。
考えるのが人間という生き物であるなら、やると決めたことをやる間は、人間である自分は捨ててしまえばいい。己を、捨てるのだ。
ほんとうに生きようとすれば、己を省みていては乗り越えられないような壁にぶち当たる時がある。一度、そこを乗り越えれば、次からは自分の意思で底力を遣えるようになる。
「騎手も調教師も、馬に楽をさせてやることはできん」
「下地さん?」
不意に日本語で喋り出した下地に、スマイルが首を傾げた。
「レース以外では、馬より過酷な場所に立つ。忘れていたつもりはないが、ちょっと目を醒まさせられた気分だ」
今度は英語で言ったが、スマイルの不思議そうな視線は変わることはなかった。
「なんの話ですか?」
「独り言だ。外で時間を潰そう。まだ当分終わりそうにない」
下地は零に気づかれる前に、ジムをあとにした。
零は、昨年は最多勝利新人騎手の記録を塗り替えたが、GⅠで勝ちを捥ぎ取るには、まだ足りない、と下地は感じていた。
明確な目的があって、オーストラリアに連れてきたわけではない。だが、連れてきたのは間違いではなかったようだ。
エマ・ウォーカーに、徹底的にうちのめされれば、零は一段か二段、成長するはずだ。
「あの二人は、どこで知り合ったんだ?」
ダイナーで昼食がてら、スマイルから、零の生活ぶりや、オーストラリア競馬界の変化の仕方などの話を聞いた。
どこの国にも、ナチュラルホースマンシップの考え方は波及している。
夕刻になり、あらためて零と合流した。エマは、これからさらに自分のトレーニングをしていく、とのことで、挨拶だけに留めた。
「帰国を二週間延期する、か」
スマイルとも別れ、下地は零とバーに入った。ダーツやビリヤード台があり、賑やかな雰囲気の店を選んだ。
「俺は構わんよ。松田は、泣くかもしれんがな。あいつは日本に残って、GⅠでお前が乗って勝てる馬を探し回っていた。かなり根気強く、馬主を訪ねたりもしていたようだ」
「知ってる。連絡があったわ。秋天だ、って松田さんは言ってた」
「馬を見つけて、人を説得したのか。優秀なのはわかっていたが、天皇賞ときたか」
松田は本気で、年内、零のGⅠ初勝利を実現させるつもりなのだ。
「だから、その日には帰るわ、絶対」
「うむ」
下地は店の奥でダーツに興じている男女のグループを眺めていた。
全員、大した腕ではなかった。下地もそこそこ腕に自信はあったが、知っている限りでああいった遊びが一番上手かったのは、死んだ遠野だ。
「残って、なにかやりたいことがあるのか?」
「コックスプレートで、エマにリベンジするの」
「ベンディゴでの借りを、ムーニーヴァレーで返す、というわけか」
コックスプレートは、メルボルンのムーニーヴァレー競馬場で行われるGⅠレースだ。
かつて日本人騎手が日本馬とともに出走した前例はある。が、乗る馬も連れずに二年目の騎手が行って、出られるとは思えない。
「乗る馬が見つかるまい」
「やるだけやって見つからなかったら、その時は仕方ないわ」
コックスプレートに出ることは、零の中で決定事項で、いまはそれに向けて行動を起こすことしか頭にないらしい。己を捨てつつある、ということだ。
「そこまでして勝ち負けにこだわるとは。変わったな」
「あの人の鼻を明かしてやりたいだけ。変わってはいないわ」
それを勝負にこだわると言うのだ。思っただけで、下地は口元に笑みを浮かべ、黙っていた。
煙草を取り出し、火をつけようとしたが、店内に灰皿がないことに気づき、懐に戻した。




