成長と継承 ③
皐月賞のレースの模様を、山南は馬郷の事務所からテレビ中継で見ていた。
注目は、やはり今春零が騎乗するプロポロスだった。
プロポロスの調教を手掛けた下地は、ベテランの調教師で、仕上がりがいい時はいい、悪い時は悪い、とはっきり言う。
その下地をして、レース前の追い切り調教のあと、記者のインタビューに仕上がりは上々だと答えていた。
実際、レース終盤までの大逃げを見る限り、状態はかなりよかった。
オッズで見れば、プロポロスは三番人気だった。
血統や前走の結果を鑑みれば、一番人気でもおかしくはなかったが、プロポロスに騎乗した零は、今回が初の中央GⅠレースだった。そこで票が割れのだろう。
裂蹄のトラブルに見舞われさえしなければ、プロポロスと零が勝っていたはずだ。
運に恵まれなかった、と山南は考えていた。
「山南さん、日本ダービーはじまりますよ」
「うん、いま行くよ」
早朝からの馬の世話がひと段落し、常ならば昼寝をしている時間帯だった。厩務員に呼ばれ、淹れたてのコーヒーを片手にキッチンを出ていった。
プロポロスは、優先出走権こそ手にできなかったが、出馬投票の抽選で日本ダービーに出てきていた。
しかし馬主の意向が働いたのか、騎手は下地厩舎の主戦ジョッキーに代わっている。
十六インチのテレビ画面の中で、ゲートが開いた。
皐月賞同様、序盤先頭に立ったプロポロスは、他の追随を許さずに駈け抜けた。
「勝つには勝ちましたけど、やっぱり今春零を降ろす必要なかったですよ。新馬戦から二戦、馬の性格も掴めている感じだったし」
「熱心に応援していたものな。デビューからの躍進ぶりを思えば、気持ちはわからなくないが。実績のある騎手に頼みたいと馬主が考えるのは、全うなことさ」
「僕は別に、ミーハーな気持ちで応援しているわけじゃないですよ。なんか、彼女、藤刀さんと重なるから。山南さんもそう思いませんか?」
「どうかな。二人で、模擬レースで勝負をする約束をしたとは、あいから送られてきた手紙にあったが」
山南は答えを濁した。背格好や立ち振る舞い、馬への接し方を見ても、二人が似ているとは思えない。
だが、二人が重なるという厩務員の言葉を、なぜか否定する気にもなれなかった。この厩務員も、山南同様に、幼少期からあいを見守ってきた。
二人はいわば、コインの裏と表のような関係なのかもしれない。
そう考えると、二人が出会ったのも必然だと思えた。
そういうめぐり合わせが、この世にはたぶんあるのだ。
「さてと、少し早いが、厩舎に戻るとするかな」
「綾ですか。あの様子だと、二、三日中には産まれそうですね」
「無事産まれて来てくれるといいな」
それから二日、山南は馬郷に泊まり、馬房の側で綾の様子を見続けた。
綾が産気づいたのは、三日目の夜だった。
立ち上がった綾の産道から、仔馬の前脚が片方だけ出てきた。そこからなかなか進まない。
「出てきませんね」
今夜から一緒に泊まりこんでいた厩務員が、時計を気にしながら言った。
「前脚が片方引っかかっていそうだ」
「引っ張り出しますか」
「あと少し、様子を見て、出産が進まないようならそうしよう」
懇意にしている獣医には、すでに出産間近な綾を何度か検診に来てもらっている。万が一の場合はすぐに電話をくれ、と言ってもらっている。
「出てきた」
産道に引っ掛かっていた片足が外れたようだった。
綾が寝藁の上に横たわる。投げ出した脚を微かに揺すりながら、浅い呼吸を繰り返している。
仔馬の頭が見えた。胎盤の膜に包まれていて、なにか別の生き物のようだ。
あとは、滑るように身体全体が出てきた。
膜を破り、産まれたばかりの仔馬の顔をタオルで拭った。出産が長引いたために、軽い酸欠状態になっている。
厩務員に言い、用意していた酸素吸入器を馬房の中に運び入れた。マスクを受け取り、仔馬の顔にあてがった。
ほどなくして、仔馬の呼吸は安定した。
厩務員と入れ替わり、羊水で濡れた馬体を軽くタオルで拭わせた。
「頑張ったな、綾」
呼びかけながら、綾の脈拍を測った。やや早いが、問題はない。体温も呼吸も落ち着いている。
綾が首をもたげ、仔馬の身体に残っていた血の混じった膜を舐めとりはじめた。
「高齢での初産だから、色々と心配でしたが、無事終えましたね」
「ああ。仔馬を拒絶する素振りもない」
産んだばかりの子を受け入れられず、見放す馬もいる。
場合によっては、その場で母子を隔離し、人の手で生育することもある。
一時間もせず綾は立ち上がった。その姿を見て、仔馬も立ちあがろうともがきはじめた。
仔馬の脚は枝のように細い。バランスが取れず、寝藁にしゃがみ込むことを何度か繰り返した。
やがて、仔馬はしっかり自分の足で立ちあがった。ふらついているが、踏み留まれてはいて、支えてやる必要はなさそうだった。
授乳が確認できてから、短い仮眠をとり、厩務員を家に帰らせた。
明け方になっていた。
馬房の隅で、仔馬は母の綾に寄り添って眠っている。
山南は事務所に戻り、引き出しから、あいへの返書のために用意しておいた便箋を出した。
書き終えた手紙を封筒に入れ、宛先に、あいが暮らす競馬学校の寮の住所を書いた。
あいは、進級試験を控えている頃だろう。それが終われば、いよいよトレーニングセンターでの研修がはじまる。
天道はあいと出会い、長い間のらりくらりと断り続けた調教師の任を引き受けた。
そして、あいが馬郷にいる間、決して牡馬を近づけようとしなかった綾も、子の母になった。
様々なことが変わっていく。
それに比べて、自分にはこの数年、なにか変化があっただろうか。
山南は居ても立っても居られず、納戸に収いっぱなしで蜘蛛の巣が張っていた鞭を持ち出した。
二、三度振り、空を割く音を鳴らした。気迫のかけた音だった。かつての鋭さを取り戻そうと、躍起になると、身体が熱くなってきた。
鞭の先が、デスクの上にあったマグカップに当たった。マグカップが落ち、けたたましい音を立てて砕けた。
これではまるで子どもではないか。山南は苦笑いした。




