成長と継承 ②
後肢の筋肉が、いいかたちに張っている。プロポロスの、調教の仕上がりは上々だった。
菊花賞、ジャパンカップを圧倒的実力で勝利し、勇名を馳せた種牡馬の産駒である。
母親は異なるが、プロポロスと同じ産駒で三冠牝馬を達成した馬も一世代前にはいる。
零が、プロポロスの騎乗依頼を受けたのは、昨年夏の札幌新馬戦だった。
続く一勝クラス、二月の共同通信杯と、一着を獲り、着実に地歩を固めてきた。
そして、今日の皐月賞への出走が決まった。
「やれるな、零」
零が所属する厩舎の調教師、下地が声をかけてきた。
彫りの深い顔立ちにオールバックの髪型が決まっていた。広い額には二本の皴が真横に刻み込まれ、鼻の下には僅かばかり髭を蓄えている。
二人の調教助手を連れた下地の登場に、遠巻きにする同業者が息を呑む。どこからか、ゴットファザーの登場だ、と囁く声がした。
「充分に勝てる状態だと思います。一週前追い切りで乗せてもらった感触もよかったですし、今日も体調のよさそうな顔をしてます」
「俺も同意見だ。オーナーは不安がっているが。オーダーは頭に入っているな」
「一着が無理でも、日本ダービーには絶対につなげろ、でしたっけ」
「うむ」
「二年目の小娘が信用できないのなら、他のベテラン騎手を起用されればよかったのに」
「生意気を言うな。不安は期待の裏返しだとでも受け止めておけ」
オーナーは当初、下地厩舎を主戦に好成績を上げている騎手に騎乗依頼を出していた。が、その主戦騎手が他所の馬を選んだ。
下地が零を推挙し、渋るオーナーを説き伏せたのだそうだ。そう零に耳打ちしてきたのは、エージェントの松田だった。
松田は、昨年までは若手を中心に複数の騎手と契約していたが、今年からは零専属のエージェントをしている。
「プロポロスは、多分私が今まで乗った馬の中で、最上だ思います。そんな馬とめぐり合わせてくれた下地センセイには、感謝してますわ」
零は、芝居がかった口調で言った。
「速い馬に乗る以上に、興奮できることって、多分この世にないですから。目の前のレースに勝てば、またいい馬に巡り合える」
仏頂面だった下地が、にやりと笑った。
「なにを考えていようと構わんよ。勝ちさえすればな」
「ありがとうございます」
「しかし、クラシック三冠もリーディングも興味はない、か。やはり頭のねじが何本か抜けているな」
「そんな私に目をかけてくれているセンセイも大概では?」
「お前の親父には恩がある。その縁がなけりゃ、お前みたいな扱いづらい小娘を、手元に置こうとは思わなかったさ」
「ほとんど覚えていない人の縁と言われても、ぴんとこないです」
「まあ、そうだろう。晩年に若い嫁さんを迎えて、お前を残しておっ死んだ。それ以外は、きわめて平凡で、堅実な騎乗をする男だった」
「そうですか」
父の顔は写真でしか知らない。それを哀しいと思ったことはなく、父について知りたいと考えたこともなかった。
ただ、父が手掛けた、引退した競走馬を乗用馬に調教しなおす事業を、叔父が引き継いで切り盛りしていた。
零が競走馬と出会い、惹かれていったのは、父が叔父に託したその事業があったからだ。
「さて、行くか」
検量を終えたプロポロスに跨り、下地の先導で地下馬道を進んだ。
パドックに出てお披露目を済ませ、走路へ出て返し馬を行った。
飼料のえり好みも少なく、走ることへの意欲も高い馬である。
坂路を取り入れた負荷の強い調教にも耐え、新馬戦の頃と較べても、強度や俊敏性は数段向上している。
歩様を確かめる程度で返し馬を終えた。
晴天にファンファーレが響く。前日に雨が降り、馬場はやや重である。
ゲートに入った。枠順は内枠三番だ。
「他の馬を気にする必要はないわ。思うさま駈けて。あなたならそれで充分よ」
横を向きかけたプロポロスの耳元で、零は言った。
ゲートが開く。零は姿勢をコンパクトにし、一息に先頭へ躍り出た。
大逃げに出たプロポロスに対抗し、スプリングステークスを制して優先出走権を得ていた馬が被せて伸びあがってくる。
急坂を含むスタート直後の直線四百メートルを、体感二十二秒で通過した。コーナーを回り、向かい正面を見据え、緩やかな下り坂を滑るように駈ける。
プロポロスの心肺は強い。煮えた血が全身に巡り、人馬の垣根をぶち破り、零の躰にまで流れ込んでくる。
零は、熱く迸る血潮に、思わず気をやりそうになった。
残り六百メートルを告げる標識が視界を掠めた。
追随してきたスプリングステークス組は振り切っている。そのほか後続とも、かなりのリードをとれている。
消耗の具合を測った。脚を半分以上使っている。それでもゴール前の急坂は越えられる。
零は冷静に見切り、プロポロスを追いまくった。
完璧なレースになった。
そう確信しかけた直後。
がくん、とプロポロスの歩様が崩れた。失速し、そのまま坂に突入した。
プロポロスの脚の残りを見誤ったとは思えなかった。なにかが起こった。わかるのはそこまでだ。
異変が生じた時点で、プロポロスを追うのは止めている。無理に追えば、皐月賞で勝てたとしても、競走馬としての生涯を潰しかねない。直感的に判断していた。
ゴール板の前を通り抜け、外ラチに避けて鞍上から飛び降りた。
「楽しい時間はもうおしまい。さ、後ろ脚を見せて。いい子だから、隠さないで」
零はプロポロスを宥めた。レース直後で、腿の筋肉は膨れ、血管がくっきりと浮き上がっている。
腿の付け根から足先へと触診していき、気づいた。
「裂蹄か」
蹄壁に、亀裂が横方向に入っていた。底に履かせた蹄鉄も外れかかっているようだった。
「他に異常はない、か」
零が足回りを隈なく確かめていると、下地が走ってやって来た。
「なにがあった」
「裂蹄です。軽度で済んでいるので、削って整えてあげれば大丈夫かと」
「そうか。念のため、あとで詳しく検査はしよう。問題は、結果だな」
下地に言われ、改めて着順に目をやった。
表示されている数字に、プロポロスが背負ったゼッケンの番号はない。
与えられていたオーダーを、今更ながら思い出した。
「トラブルがなければ、勝てた内容だった」
「でも、最終的な判断はオーナー、ですよね」
「うむ」
零はゴーグルを外し、プロポロスと見つめ合った。
「もっとあなたと走りたかったのに、残念」
一着は京成杯から上がってきた馬で、スプリングステークス上がりの馬は鼻差で二着だった。




