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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第十四話

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成長と継承

 砂が舞っていた。

 前列三馬が土煙を断ち割り、外走路を突き進んでいく。


 七頭併走でのキャンターである。ハロンタイムを体感で計りつつ、他の馬との位置取りを調整する。


 あいは後列四馬の、内ラチ沿いに構えていた。前と横に馬がいて、強風には晒されずに済んでいるが、前を行く馬が蹴りたてた砂がもろにぶつかってくる。


 いま騎乗している馬はやや敏感な性格で、メンコと呼ばれる覆面を被せてある。それでも目に砂は入るので、訓練後は水で丁寧に洗い流してやらなければならない。


 二周目に入った。

 無線で小早川の指示が届く。


 前列が横に広がり速度を落とした。後列四馬は間を抜けて前に出た。前列と後列を入れ替えて一周し、馬場で準備運動をしていた馬と乗り替えた。


 次の馬は、負けん気が強いのか、他の馬に対してかかり気味に出ようとする。


 列から抜け出そうとする騎乗馬に、体重をかけて牽制しようとするが、効かず、手綱で抑え込む。


 タイムへの意識が疎かになったところを、すかさず小早川に指摘された。


 馬場馬術一鞍、走路二鞍をこなし、その日の実技訓練を終えた。


 走路で乗った引退競走馬を、厩舎へ連れ帰った。


 厩舎前に繋ぎ、足に穴の開いたホースを結び付け、流水で熱を持った筋肉を冷やす。

 その間に、目を水で洗い流し、馬体を丁寧に拭った。アイシングのあと、蹄鉄に詰まった土をこそぎ落とした。


 餌やりは厩務員課程生に代わってもらい、騎手課程生が世話をする厩舎に馬の様子を見に行った。


 オハナが馬房の覗き穴から顔を出し、耳を振って迎えてくれた。


「ごはん一杯食べたね」


 走路へ出る前の馬術訓練ではオハナに騎乗した。

 オハナはおっとりとした性格で、砂煙もたいして気にせず障害飛越をこなした。


 馬場での騎乗のあと、手入れをし、飼料をやって走路訓練に向かった。オハナは、あいが走路に出ている間に、桶一杯分の飼料をぺろりと完食していた。


 水が減っているのに気づき、補充しようと馬房に入ると、オハナがあいの耳に鼻息を吹きかけてきた。


「わ、くすぐったいよ」

 鼻先から逃れるように身を離すと、オハナがじっと見つめてくる。


「心配してくれてるの? ありがとう。私ならもう大丈夫」

 左の掌を差し出すと、オハナはひと舐めしてから親指の付け根あたりを甘噛みした。


 志摩の退学から、半月が経った。


 心の整理をつける暇もないほど、目まぐるしく日々は過ぎていく。正士郎が言った通り、立ち止まっている余裕はなかった。


 ただ、ふとした拍子に、志摩に抱いた感情が息を吹き返す瞬間があった。しかし、その感情は水底のような場所にあって、泡沫《うたかた》すら水面に届かず消えていく。


 息を吹き返す頻度も、半月でだいぶ間遠になっていた。


「志摩先輩だけじゃないんだよね。たくさんの人が中央の騎手になろうと挑戦して、その中から選ばれて、私たちがいる」


 あいは、編み込まれたオハナの鬣に触れた。加奈恵が来て手掛けてくれたもので、何度か教わろうとしたが、あいは器用に結えなかった。


「騎手になりたい。なれなかった人たちの分まで、背筋を伸ばしてレースに出たい」


 改めて決意を固めるあいの、オハナに差し出した左手は、舐め回されてよだれでびちゃびちゃになっていた。


 

           ◆



 外走路を逆立ちで百周する、という馬鹿げた賭けの代償は、昨年のうちに完遂した。


 天道とした賭けだが、特段、報告することでもなかった。


 代償というより、教官の本分から逸脱した行為に対する、自分自身へのけじめだった。


 小早川は定時のうちに仕事を片付け、職員室を出た。

 階段を降りて玄関に向かう途中、木馬の稼働音が漏れ聞こえてきた。


 なんとなく覗くと、藤刀《ふじわき》あいが自主練習中だった。


 あいは木馬の横にキャスターのついた姿見を置き、細かく騎乗姿勢をチェックしている。


「今日の走路訓練を振り返っているのか」


「小早川先生」


「構わん、続けろ」


 木馬を止めようとするあいを制し、小早川は立ち去ろうとした。


「あの、少しだけ見ていってもらえませんか。改善した方がいい点とかあったら、教えてほしいです」


 足を止め、トレーニングルームの入口からあいの騎乗姿勢に改めて目をやった。


「騎乗姿勢に、これ、という正解はないからな。なにか自分で課題としていることはあるのか?」


「去年の夏、トレーニングのし過ぎで右足を痛めた時、医務室の先生に軸がずれているから片足に負担がかかり過ぎたんだって言われたんです。それからは、体の軸を意識して練習してて」


「ふむ」


 小早川はあいの後ろに周り、それから姿見の横に立った。


「軸の置き方はできている。左右へ馬を振るつもりで、体重を移動させてみろ」


「はい」


 あいが木馬の首を押しながら、右、左、と扶助動作をした。


「もう少し滑らかな重心移動を心がけろ」


「滑らかに」


「足首、膝、股関節を、柔らかく使う、ということだ」


 同期の男連中と比べてたら、あいは高い柔軟性を持っている。


 体幹でいえば、しなやかで折れにくい鋼のような体幹をしている。それは幼少から裸馬に乗って野山を駈け回っていたことで育まれたものなのだろう。


 入学した当初は、手足が連動していなかった印象だが、フィジカルトレーニングの積み重ねで身体操作性も向上しつつある。


「関節の柔軟性を高めるトレーニングをもっとすること。それと」


「それと?」


「いや」

 木馬を乗り込むことだ、と言いかけてやめた。


 あいの場合、オーバーワークになる懸念があった。

 特に、不安があると、それをトレーニングで晴らそうとするきらいがあるようだ。間違ってはいないが、行き過ぎれば元も子もない。


 志摩の退学があってからは、昨年の夏合宿のあとのような、入れ込み過ぎている気配を漂わせていた。


 そういう乗り手の心の機微は馬にも伝播する。


「技術を習熟させるのに近道はない。こと騎乗姿勢においては、場数を踏んで、自分なりのスタイルを作り上げていくものだ。直線的に完璧を求めようとせず、視野を広く持って、もっと馬上でできることを増やしてみろ」


「でも、私、早く一人前の騎手になりたくて」


「一人前が、どういう線引きで言っているのかは知らんが、プロの騎手でもそうそう完璧な騎乗などできんよ」


「そうなんですか?」


「競馬後のインタビューを見てみろ。ああだこうだ言っているやつが大半だ」


「先生も、そうだったんですか?」


「言い訳がましいことは、極力言わんようにはしていた。が、現役時代を通して、ミスなく理想的な騎乗ができたという自負があるのは、数回だな」


「数回」


「わかったら、ほどほどにしろ」


「はい」


 小早川は頷き返し、トレーニングルームをあとにした。


 志摩は、プロでも通用し得る素質があった。体格も含めて騎手の素質だと言ってしまえばそれまでだが、小早川には志摩の退学に対して忸怩たる思いがあった。


 あいは体格的にも、馬との折り合いの点でも、志摩以上の資質がある。騎手に不可欠な闘志も証明してみせた。


 入学当初は華奢な印象があったが、この一年間で払拭されつつある。


 外に出ると、日中吹き荒れていた春嵐は熄んでいた。


 ふと振り返って本館を見ると、トレーニングルームの部屋の明かりがついたままだった。


 呪いにも似た衝動が、あいを駆り立てているのだろう。


 自分もかつてはそうだった、と小早川はぼんやりと考えていた。

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