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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第十三話

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志摩宗介 ⑥

 中央が駄目でも、地方騎手でデビューをする。そしてやがては中央へ移籍し、日本最高峰のレースに挑戦する。


 頭では考えられるが、心が動かない。


 終わった。


 志摩の胸中は、その一念に満ちていた。


 病院のサロンスペースで、主任教官の落合と一時間ほど話し合った末、退学に関する書類を渡された。


 志摩はたとえ留年してでも継続することを希望したが、学校側の下した決断は覆らなかった。


 落合が去ると、席を外していた涼子が戻って来た。

 涼子に付き添われ、病室に戻った。


「ごめん」


 ベッドに腰をかけ、志摩は詫びた。

 カーテンを開ける手を止め、涼子が振り返る。


「私に謝る必要なんてないよ。こっちも好きでやってるんだ。宗介は、やるだけやったよ」


「そうなのかな」


 ブリーズアップセールの供覧騎乗を終えた直後から、記憶が抜け落ちていた。


 倒れたのは、騎手控室《ジョッキールーム》に戻ってからだと聞いた。そこまでは自分の足で戻ったらしいが、憶えていなかった。


 騎乗した馬のことは、よく覚えている。

 猛然と前へ進む馬だった。しかし、馬は全力では精々四百メートルほどしか駈けられない。


 最初の二百メートルは、手綱で抑えた。抑圧しすぎると、馬は走る気を失くす。手応えを探りつつ、四百メートルを切ったところで手綱を解放した。


 爆発力は十分だった。まだ若駒で、身体が出来上がってはいないが、股関節が柔らかく、伸びるように駈ける。長距離向きの馬になる、と直感的に思ったのは覚えている。


 騎乗供覧は、中山競馬場の芝コースで行われた。

 志摩は一瞬、自分がこの馬と有馬記念を駈ける姿を夢想した。


 その先のことは、おぼろげだった。


 目覚めると、病室にいて、窓の外は夜になっていた。翌日のセリの結果は、渋川から電話で聞いた。


 志摩が騎乗した若駒は、これまでも中央GⅠに所有馬を送り出してきた実績を持つ馬主に買い取られていた。


 名古屋の大学に通っている涼子が、病院に駆けつけてきたのは、それから二日後だった。学校から両親に連絡が行き、両親が涼子に知らせたらしかった。


「ありがとう、涼子」

 日が暮れ、帰ろうとする涼子に、志摩は言った。


「ここまで挑戦できたのは、死んだじいさんと君がいたからだ」


 祖父が騎手だった。

 その過酷さを見知っていた父親は、小学生だった志摩が騎手を目指すと言い出すと反対した。


 中学に上がると身長が伸びた。

 それもあり、夢を諦めようとしていた時に、背を押してくれたのが涼子だった。


「私は、ぐずぐずしてたあんたの、尻を蹴っ飛ばしただけだよ。お礼なら、おじいさんに言いに行きな」


「諸々片付いたら、墓参りに行くよ」


 両親を説得し、祖父を頼り、競馬学校を受験した。

 一年目は、駄目だった。それでも諦められず、翌年に再度受験して合格を捥ぎ取った。


 再受験するまでの一年間が、思えば一番辛かった。


 辛い時こそ馬と向き合えと、と教えてくれた祖父は、昨年他界した。


 祖父の家は遠方で、まだ墓参りにも行けていない。

 騎手としてデビューしたら、その報告も兼ねて、墓前に花を供えに行くつもりだった。


 涼子が帰っていき、長い夜を過ごした。


 翌日、志摩は退院し、競馬学校に退学同意書を提出しに行った。


「教官陣は全員、お前の退学処分には反対していた。落合教官もだ」

 小早川が、志摩から受理した書類をデスクに置いて言った。


「だが、運営サイドの連中が、退学処分と決めてしまった。今回の件で、ここの体重規定が厳しすぎるのではないかという意見が出ている。これ以上なにかあって、風当りが強くなるのが怖いのさ」


「大丈夫なんですか。退学する僕に、そんな裏の話をして」


「よくはない」


「悪い人ですね」


「お前も少し見習え。なんでも真正面から受け止める必要はない」


「覚えておきます。でも、さっき聞いた話は忘れますよ。今回の件は僕自身の問題です。どんな事情で下された判断だとしても、恨むつもりはありません」


「好きにしろ」


 志摩は小早川に一礼し、本館を出た。


 寮に寄って私物を紙袋にまとめた。


 衣類など、ほとんどのものはトレーニングセンターの研修で、向こうの宿舎に移してあった。それらの荷物は、後日実家に送り返される手筈になっている。


 足が勝手に馬場へ向いた。


 二学年が走路障害の訓練をしている最中だった。


 障害競走で使われる固定障害の生垣を、二学年の騎乗馬が腹すれすれの高さで跳び越えていく。馬の速度が出た状態で障害飛越のタイミングを合わせるには、相応の技術が要求される。


 ひと際小柄な騎手を背に乗せた馬が、生垣目がけて疾駆してきた。


「藤刀さん」


 手綱がたわんでいた。馬に走りを委ねている。しかしまったく任せきりというわけではなく、下半身をしなやかなバネのように使い、全体重で馬を追っている。


 加速。馬が、前脚で地面を送ると同時に、後脚で踏み切った。生垣が戦ぐ。鮮やかなまでの、超低空の跳躍だった。


 勢いを殺さず、そのまま駆け抜けていく。


「いけ、いけ、いけっ」


 遠ざかっていくあいの背中に、今春零の後ろ姿が重なった。

 水が砂に染み込むように、理解した。

 今春零のあとに続くのは自分ではないのだ、と。


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