志摩宗介 ⑥
中央が駄目でも、地方騎手でデビューをする。そしてやがては中央へ移籍し、日本最高峰のレースに挑戦する。
頭では考えられるが、心が動かない。
終わった。
志摩の胸中は、その一念に満ちていた。
病院のサロンスペースで、主任教官の落合と一時間ほど話し合った末、退学に関する書類を渡された。
志摩はたとえ留年してでも継続することを希望したが、学校側の下した決断は覆らなかった。
落合が去ると、席を外していた涼子が戻って来た。
涼子に付き添われ、病室に戻った。
「ごめん」
ベッドに腰をかけ、志摩は詫びた。
カーテンを開ける手を止め、涼子が振り返る。
「私に謝る必要なんてないよ。こっちも好きでやってるんだ。宗介は、やるだけやったよ」
「そうなのかな」
ブリーズアップセールの供覧騎乗を終えた直後から、記憶が抜け落ちていた。
倒れたのは、騎手控室に戻ってからだと聞いた。そこまでは自分の足で戻ったらしいが、憶えていなかった。
騎乗した馬のことは、よく覚えている。
猛然と前へ進む馬だった。しかし、馬は全力では精々四百メートルほどしか駈けられない。
最初の二百メートルは、手綱で抑えた。抑圧しすぎると、馬は走る気を失くす。手応えを探りつつ、四百メートルを切ったところで手綱を解放した。
爆発力は十分だった。まだ若駒で、身体が出来上がってはいないが、股関節が柔らかく、伸びるように駈ける。長距離向きの馬になる、と直感的に思ったのは覚えている。
騎乗供覧は、中山競馬場の芝コースで行われた。
志摩は一瞬、自分がこの馬と有馬記念を駈ける姿を夢想した。
その先のことは、おぼろげだった。
目覚めると、病室にいて、窓の外は夜になっていた。翌日のセリの結果は、渋川から電話で聞いた。
志摩が騎乗した若駒は、これまでも中央GⅠに所有馬を送り出してきた実績を持つ馬主に買い取られていた。
名古屋の大学に通っている涼子が、病院に駆けつけてきたのは、それから二日後だった。学校から両親に連絡が行き、両親が涼子に知らせたらしかった。
「ありがとう、涼子」
日が暮れ、帰ろうとする涼子に、志摩は言った。
「ここまで挑戦できたのは、死んだじいさんと君がいたからだ」
祖父が騎手だった。
その過酷さを見知っていた父親は、小学生だった志摩が騎手を目指すと言い出すと反対した。
中学に上がると身長が伸びた。
それもあり、夢を諦めようとしていた時に、背を押してくれたのが涼子だった。
「私は、ぐずぐずしてたあんたの、尻を蹴っ飛ばしただけだよ。お礼なら、おじいさんに言いに行きな」
「諸々片付いたら、墓参りに行くよ」
両親を説得し、祖父を頼り、競馬学校を受験した。
一年目は、駄目だった。それでも諦められず、翌年に再度受験して合格を捥ぎ取った。
再受験するまでの一年間が、思えば一番辛かった。
辛い時こそ馬と向き合えと、と教えてくれた祖父は、昨年他界した。
祖父の家は遠方で、まだ墓参りにも行けていない。
騎手としてデビューしたら、その報告も兼ねて、墓前に花を供えに行くつもりだった。
涼子が帰っていき、長い夜を過ごした。
翌日、志摩は退院し、競馬学校に退学同意書を提出しに行った。
「教官陣は全員、お前の退学処分には反対していた。落合教官もだ」
小早川が、志摩から受理した書類をデスクに置いて言った。
「だが、運営サイドの連中が、退学処分と決めてしまった。今回の件で、ここの体重規定が厳しすぎるのではないかという意見が出ている。これ以上なにかあって、風当りが強くなるのが怖いのさ」
「大丈夫なんですか。退学する僕に、そんな裏の話をして」
「よくはない」
「悪い人ですね」
「お前も少し見習え。なんでも真正面から受け止める必要はない」
「覚えておきます。でも、さっき聞いた話は忘れますよ。今回の件は僕自身の問題です。どんな事情で下された判断だとしても、恨むつもりはありません」
「好きにしろ」
志摩は小早川に一礼し、本館を出た。
寮に寄って私物を紙袋にまとめた。
衣類など、ほとんどのものはトレーニングセンターの研修で、向こうの宿舎に移してあった。それらの荷物は、後日実家に送り返される手筈になっている。
足が勝手に馬場へ向いた。
二学年が走路障害の訓練をしている最中だった。
障害競走で使われる固定障害の生垣を、二学年の騎乗馬が腹すれすれの高さで跳び越えていく。馬の速度が出た状態で障害飛越のタイミングを合わせるには、相応の技術が要求される。
ひと際小柄な騎手を背に乗せた馬が、生垣目がけて疾駆してきた。
「藤刀さん」
手綱がたわんでいた。馬に走りを委ねている。しかしまったく任せきりというわけではなく、下半身をしなやかなバネのように使い、全体重で馬を追っている。
加速。馬が、前脚で地面を送ると同時に、後脚で踏み切った。生垣が戦ぐ。鮮やかなまでの、超低空の跳躍だった。
勢いを殺さず、そのまま駆け抜けていく。
「いけ、いけ、いけっ」
遠ざかっていくあいの背中に、今春零の後ろ姿が重なった。
水が砂に染み込むように、理解した。
今春零のあとに続くのは自分ではないのだ、と。




