志摩宗介 ④
加奈恵は最近、気づいたことがあった。
「オハナさん、あんたもやなぁ」
厩務員課程の実技訓練で、オハナと組んで障害馬術に取り組んだあとだった。
馬場を離れ、放牧場の枯れた芝の上に、青草を撒いていく。
「走路の子らとおんなじ。あいが繰り返し乗っとる馬は、どっか似てくるんやな」
青草を食む、オハナの背を撫でた。
別の馬が近寄ってくると、オハナはあっさり場所を譲った。
「もうええの?」
オハナが茫洋とした瞳を向けてくる。
「横取りさせちまって悪いな。こいつ、食い意地が張っててよ」
オハナの青草を狙ってきた馬に引っ張られてきた同期が、寒そうに肩を縮こませながら言った。
この同期は、元々佐賀競馬で厩務員をしていたキャリアがあり、中央への転属を希望して競馬学校で学んでいた。
長身痩躯で、軽くどついたら折れてしまいそうだ、というのが第一印象だった。
「ええですよ。オハナさんはもう満足したみたいですし」
「すまんな。ときに、なにひとりでぶつぶつ言ってたんだ?」
「いえね、あいがよく乗る馬はみんな、こっちの扶助に対する手応えというか、乗り心地みたいなもんが似てきよるんで、不思議やなぁ、って」
「ああ、たまにそういうホースマンがいるな。馬を自分色に染める、とでも言うか。佐賀にも似たような騎手がいた」
「自分色にするかぁ。まさにそんな感じです。気性とか、脚質とか、それは当然馬ごとにバラバラですけど、あいの乗ってる馬は、あいの馬、って顔しよるんです」
「継続して騎乗することで、騎手は馬への理解が深まる。その逆もある。藤刀さんの騎乗の癖が、馬にも伝播しているのかもしれないな」
「それ、すごいことやないですか?」
「人馬がお互い理解を深めれば、レースで取れる戦略も増える。もしそうなら、藤刀さんの強味だと思うよ」
「よっしゃ」
「まるで自分のことみたいに喜ぶな。親しいのは知っているが」
「なんなら、自分が褒められるより嬉しいですよ」
「それはいいが、自分の就職のこともそろそろ考えろよ」
「考えてますって。悩み中なだけです」
厩務員課程生は二年制で、来年の今頃は就職している。
就職希望先の多くは東西のトレーニングセンターで、加奈恵もそのつもりだった。
ただ、東西のどちらを希望するかを、まだ決められずにいた。
廃業するまで、実家で飼育していた馬が、高齢になっている。その馬は、今は那須に牧場を持つ叔父のもとに引き取られ、のびのびと暮らしていた。
家族同然の存在だと、以前から考えていたが、あいから綾という馬の話を聞いてから、その想いが強くなった。
老いた家族を思えば、なにかあればすぐに駆けつけられる場所にいたい。そうすると、関東のトレーニングセンターを希望したいところだった。
だが、あいはおそらく、デビュー後は関西トレーニングセンターを拠点とするはずだ。
というのも、中央騎手の多くは、在学中にトレセン研修で世話になった厩舎に所属してデビューする。
そして、あいのトレセン研修先は、ほぼ間違いなく天道厩舎になる。
あいは天道厩舎を希望しているし、天道もそのつもりなはずだ。
騎手になったあいを、厩務員の立場から手伝えるのは、関西だった。
家族同然の馬か、友達か。どちらもかけがえのない存在なだけに、加奈恵は決めきれずにいた。
「ああ、なんでウチの身体は一個しかないんや」
一日の課業を終え、厩務員課程生の寮の女風呂に浸かりながら、加奈恵は天井に向かって嘆いた。
水滴が垂れてきて、鼻頭にあたって弾けた。
そこへ、後輩がタオルで体の前を隠して浴室に入って来た。
「あ、加奈恵先輩。ご一緒していいですか」
社会人経験もある三十路の後輩がからかってくる。
中卒がほとんどの騎手課程生とは違い、厩務員課程生は年齢層が幅広い。
在学中の厩務員課程生四十五名のうち、中心は二十代だが、半数近くは社会人を経て入学してきている。
加奈恵のように、家の都合で高校を中退し、専門校を経て十代のうちに競馬学校に入学するケースは稀なのだ。
「先輩はやめてくださいって」
年上の後輩はからからと笑って、さっさと身体を洗って湯船を進み寄ってきた。
「うわ、やっぱ加奈恵ってプロポーションいいね。てかおっぱい大きい」
「なんでわざわざ下品に言い直すんです。邪魔なだけですよ。体重管理も大変ですし」
「ああ、ね。騎手課程生ほど厳格ではないけど、こっちも六十キロ未満でって言われているもんね。加奈恵は身長高いから気を遣うか」
「ほんまですよ」
「まぁ、重いのはおっぱいじゃなくて筋肉の方だとは思うけど。この前なんか、トレーニングルームでベンチプレス百三十とか上げてたじゃん」
「うぐ、見られとったんか」
「趣味なんだろうけど、ほどほどにしときな」
「うす」
「騎手課程生の三学年で、体重オーバーで退学者が出るかもって噂だしね」
「志摩さん、ですか」
「知ってたか。加奈恵はこの手の噂話には疎いから、知らないかもと思った」
近頃、あいの元気がなかった。
気になり、課業の合間に尋ね、栄養失調で入院したという志摩のことを聞いた。
「きついよね、努力で身長は縮まらないし、そのせいで夢を断たれるなんて」
「まだ退学が決まったわけやないでしょう。外野が憶測であれこれ言うんはよしましょ」
「ん。あんたのそういうとこ好きだよ」
志摩は身を削ってでもデビューまで漕ぎつけようとしたのだろう。その身を案じているあいに、自分の進路の悩みまで持ちかけられなかった。
あいの口から志摩の話が出た時、加奈恵は、間が悪い、と思った。
自分が、ではなく、志摩が、である。
そう考えた自分の身勝手さは、ずっと恥じ続けている。
湯から上がった。
「お先です」
脱衣所で身だしなみを整え、部屋に戻った。ルームメイトのいない完全個室である。
ベンチプレスでもして煩わしい気分を晴らしたかったが、いまトレーニングルームに行くのは目を背けるのと同じだった。
ふと窓の外に目をやると、ランニング中の正士郎が寮の前を通り過ぎていくのが見えた。
正士郎は、歪んだ自分の心を受け止め、それでも前を向いて進もうとしている。
「うっし、今夜中に、ばっちり進路決めたるで」
加奈恵は頬を叩いて気合を入れ、学校に提出する進路希望用紙を取り出した。




