志摩宗介 ③
後輩が入学してきて、あいは二学年になった。
新一学年も七名で、うち二人が女子だった。入学式から二日が経ち、早くも馬場に出て基礎馬術の訓練を開始していた。
「今年の一学年はみんな乗馬経験者らしいな」
新年度一回目のフィジカルアセスメントを終え、汗を拭っていると、大矢が隣にやってきた。
「そうなの?」
「おう、昨日の夜、寮で簡単な親睦会を開いてな。女子はやらなかったのか?」
「う、挨拶だけ。二人ともすっごいハキハキしてて、びっくりしちゃって」
「後輩にビビってどうすんだよ。先輩らしく振舞ってやんないと、向こうもかえって気を遣うぜ?」
「そ、そうだよね。去年は先輩に色々助けてもらったし、うん、頑張らなきゃ」
女には男にはない月のものがある。五日に一度、休養日があるとはいえ、過酷なトレーニングの日々の中で、女である自分の身体とも付き合っていかなければならない。
同性の先輩の存在は、そうした場面で励みになったし、実際に相談することもあった。
先輩と話すきっかけになってくれた加奈恵は、厩務員課程の寮に移ってしまい、もういない。三学年は厩務員実習中で、寮にいるのはあいと新入生の二人だけだった。
怖がってはいられない。自分がしてもらったことを、次は自分がする番になったのだ。
「うぅ、でも、うまく先輩できるかな」
「大丈夫だろ。そいつと同じさ」
大矢はあいの手元にある、アセスメントの記録用紙を指さした。
「一回目の記録より、全体的にかなり伸びてるじゃんか。トレーニングで一つひとつ積み上げて、できることを増やしてきた成果だ。同じようにやればいいのさ」
「わかるような、わからないような。ううん、とにかく、今夜は私から話しかけてみる」
「その意気だぜ。ま、それで失敗した時は、同期の俺らが笑い話に変えてやるよ」
大矢に背中を叩かれ、前につんのめった。
トレーナーの声かけで小休止が切り上げられ、学科の後半はボールを利用した体幹を鍛えるトレーニングを行った。
学科のあと、厩舎作業に出た。
乗馬クラブに引き取られていったサファイアジャケットに代わり、新たに二頭の馬の世話を任されていた。
他の同期も、昨年末から担当する馬を一頭増やされ、三頭の馬の世話をしている。
JJHコンペティション以降、走路での訓練が主軸に置かれているが、週に一、二回は馬術の訓練も継続している。そこではオハナたち中間種に騎乗できた。
二学年は、トレーニングセンターでの実習の前に、進級試験を受からなければならなかった。
走路訓練を開始する前にも、基礎馬術の修得度合を確認する試験があった。
今度の試験では、競走騎乗、走路障害飛越、ゲート発走といった課目が追加される。
八月に行われるその試験をクリアすると、基礎課程が修了となり、実践課程へと進むことになるのだ。
厩舎作業を終え、あいがその報告に職員室へ向かうと、落合と小早川が話しているところだった。
滅多なことでは柔和な表情を崩さない落合が、眉をひそめていた。
「志摩君が」
二人の会話に、あいは耳を疑った。
小早川があいに気づき、そこで話が途切れた。
「そこでなにをしている」
「あ、す、すみません。厩舎作業が終わったので」
「報告に来たのなら、そんなところでつっ立っているな」
「はい」
「わかったからもう寮に戻れ」
小早川に追い払われ、あいは職員室をあとにした。
男子寮の食堂に入ると、当番の正士郎が食卓の準備をしていた。
「正士郎君」
正士郎はあいの深刻な表情を見るや、配膳の手を止めた。
「どうかしたのか」
「志摩先輩が、倒れて病院に運ばれたって」
「どういうことだ」
「詳しくはわからないけど、さっき職員室で、落合先生と小早川先生が話してて」
「二年、いや、三年生は、今日はブリーズアップセールに参加していたはずだぞ」
「ぶりーずあっぷ。それってなんだっけ」
「二歳馬のオークションだ。そこで供覧騎乗、つまり、馬の仕上がりを見せるために走らせるんだが、三年生はそこで騎手役を務めるのが通例だ」
「まさか、そこで落馬して」
「憶測はよそう。詳細がわからないうちから、変に騒ぎ立てるのもよくない」
食堂には一学年の当番や、厩務員課程の寮生の姿もあった。それぞれのテーブルで、食事の支度をしている。
正士郎の言う通り、不確かな話を広めてしまわない方がいい。
味のしない食事を終え、女子寮に戻ったが、志摩の件が気掛かりで他のことに手がつかない。
あいは日誌を書くペンを置き、立ち上がった。
「先輩、どこか行くんですか?」
玄関で靴を履いていると、一学年の二人が通りかかった。
「うん、少し本館に行ってくる」
「もしかして木馬練習ですか? あの、私たちもついていっていいですか?」
「そうじゃないんだ。木馬の使い方は、今度一緒にやろう。今日はごめん」
「そんな、こっちこそすみません、早とちりで引き留めちゃって」
自分が頭を下げたことで、かえって後輩を萎縮させてしまったようだった。
失敗した、とあいは思ったが、いまは配慮を払えなかった。
職員室へ行くと、幸い、小早川がまだ残って仕事をしていた。
他の教官は帰った後で、小早川のデスクがある一角以外は消灯してあった。
「こんな時間になにか用か」
「あの、さっき志摩先輩が倒れたって聞いてしまって」
「そのことか」
小早川は少し考えてから、椅子の背凭れに身を預けた。
「ブリーズアップセールで供覧騎乗を終えた直後に、控室で昏倒したそうだ。病院に随行した職員から、栄養失調だと連絡があった。数日入院して、回復を図ることになった」
「栄養失調」
馬場清め式があった日、偶然学校に戻ってきていた志摩と出くわした。
その時の、生気が失せ、陶器のような顔色をした志摩が思い出された。
ふいに膝をつき、しゃがみ込んでしまったのも、ただの眩暈だと言っていたが、栄養失調を来していたからなのか。
そんな状態になるまで、食事を避けていたのだとしたら、その理由は一つしかない。
「志摩先輩の、体重は」
「知ってどうする。志摩の入院の件は、遅かれ早かれお前たちの耳に入ることだろうから話した。この先は、志摩自身と、学校側の問題だ」
小早川の言うことはもっともだった。
あいは一礼して本館を出た。
月が煌々と輝き、夜ではないような明るさだった。
冬は過ぎ、花開いた桜がしんしんと降り注ぐ月の光に浴している。星はその明るさに霞んでほとんど見えなかった。
志摩はこれからどうなるのか。
知ったところで、志摩のために自分ができることは一つもない。
「でも」
声に漏れた感情に、あいは戸惑った。
綾や両親、天道、加奈恵。親しい人達に抱く気持ちとも違う、この感情はなんなのか。
知らない。
そしてなぜか、知りたくない、という気もした。




