志摩宗介 ②
中山競馬場で行われる第六回模擬レースは、三年生の卒業記念のレースでもあった。
三年生六人に、教官の小早川と現役騎手が加わり、八頭でのレースだ。
正士郎が乗った白馬に誘導され、八頭がコースに姿を現した。
八頭の轡を取って随行しているのは、加奈恵たち厩務員課程生だ。
正士郎の白馬が引き返していった。八頭すべてが出走ゲートに入ると、加奈恵たちもコースから掃けた。
その様子を、あいたちは控室のスクリーンで見ていた。客席には抽選で選ばれた五百名の観客がいるだけだ。
ゲートが開き、八人馬が一斉に飛び出した。出だしに躓いた馬はいない。
一頭が後続より四、五馬身ほど離して先行した。
あいは、中段後方のポジションに構えた小早川に注目した。
騎乗しているのは栃栗毛の八歳牝馬である。
小早川は絶妙な位置取りで、前方の馬にプレッシャーをかけていく。
コーナーに差しかかると、中段からやや抜けた位置まで上がり、他の馬が膨らみ過ぎないよう余地を絞った。
芝千二百のコースである。中団のペースも上がってきた。
先行していた馬が馬群に呑まれた。他六頭が追い比べをする中、小早川の馬は、失速した逃げ馬の前についた。風避けになって引っ張っているように見えなくもない。
ゴールラインに馬群が雪崩れ込んでいった。着順が決定する。一着だった卒業生が、馬上で観客席に手を上げた。
全六回の模擬レースも、これで決着がついたかたちだ。
先の四回はダートである学校の外走路を用い、先日の第五回は東京競馬場の芝だった。
「やはり巧い」
いつの間にか正士郎が控室に戻ってきていた。
「こうやって映像で全体を見ているとわかりやすい」
「小早川先生のこと?」
正士郎は頷いた。
「すべての馬がレースに絡めるよう、全体をまとめあげていた。それも、一緒に走っていたら気づかないくらい、さり気なくだ」
「私も、ここで見ていなかったらわからなかったと思う」
「君が小早川先生に勝てたのは、あくまで単走のタイムを競う勝負だったからだ。ああいう形式なら、体重が軽い君に分があった。レースでの駆け引きの巧さも関係ない」
「わかってるよ」
「二年後には僕らの番だ。最初のポジションなんかはある程度事前に打ち合わせをするらしいが、勝敗は決まってない」
「勝負だね」
正士郎の闘志が、あいの肌を打ってきた。怯みはしなかった。むしろわくわくするぐらいだ。
零も、出るからには本気で来るはずだ。他の現役騎手はどうかわからないが、少なくとも零は、卒業生に華を持たせようなどと考えないはずだ。
零の所属厩舎から、零を今年の夏の間に海外遠征させると発表がされた。
志摩から聞いていた通りだった。海外遠征への準備を進める一方で、GⅠへ出走するチャンスも窺っているはずだ。
三年生のインタビューがはじまっていた。
あいたち一学年は落合の指示に従い、厩務員課程生とともに撤収作業に駆り出された。
その日の午後から、関東圏で雪が降った。
千葉では積もりはしなかったが、馬場状態の悪くなった外での訓練は避けられ、翌日の実技訓練は覆馬場での部班運動に代わった。
翌日は快晴で、走路の土も乾いていた。
あいたち一学年は各々サラブレッドに跨り、外走路に出た。
「今日はゲートから実際に発走するところまでやってもらう。直線の端まで行ったら、折り返して埒外に沿って戻って来い」
小早川の指示で、一人馬がゲートに入り、合図に合わせて駆け出していき、次の人馬が入る、ということを繰り返した。
「次、藤刀」
「はい」
轡を取っている厩務員課程生の補助を受け、あいは馬をゲートに進めた。すんなり入ってくれたが、窮屈そうで落ち着かない。
馬の名前を呼んで意識をこちらに向けさせてから、耳の内側を爪を立てて小刻みに搔いてやる。
窮屈がっていた馬の目が、うっとりとする。
「はい、おしまい」
耳の愛撫をやめ、あいは馬の気を引き締めるように首をひと叩きした。
小早川の合図とともに、ゲートが開いた。駈けだす。馬脚は淀みなく直線を伸びていく。
「上手上手。いい感じだったよ」
外埒に寄り、馬を撫でまわした。もっと褒めて、と言わんばかりに馬がスキップをしだした。そのままゲートの裏まで戻った。
続く上杉では、開いたゲートに馬体がぶつかり、斜めに駈け出してしまった。
「レースなら他の馬の進路妨害と見なされてペナルティだぞ」
小早川が、戻って来た上杉に厳しい声で言った。
ゲート練習は、年明けからはじまっていた。
当初は馬をゲートに入れることにも、ゲート内で大人しくさせることにも、苦労していた。
ひと月が経ち、かたちはどうあれ、全員がゲートから発走できるまでにはなっていた。
三年生が卒業した外走路で、一学年は黙々とゲート練習を繰り返した。
その後、馬を替えて一周千四百メートルの外走路を二本走り、実技訓練は終了となった。
午後の学科でフィジカルトレーニングを行い、夕方の飼い付けを済ませて寮に戻った。
リビングに入ると寮母に呼ばれた。
「はい、これ、あなた宛てに手紙が届いたわよ」
「手紙?」
宛先には競馬学校の住所が書かれている。封筒の裏面を見ると、駒沢美冬と書かれていた。
「美冬さんから?」
昨年の秋、郷土祭で再会した折に、美冬と連絡先を交換しようと誘われたものの、あいは肝心の携帯端末を持っていなかった。
「なんだろう」
中身が気になり、さっそく封を切った。
便箋と、一枚の写真が出てきた。写真には、郷土祭で知り合った美冬の甥、聡太が、小柄な馬に跨っている様子が写っていた。
美冬によって綴られた手紙を読み、あいは喜びのあまりその場で飛び上がった。
「あらあら、ずいぶん嬉しい知らせだったみたいね」
「去年の郷土祭でポニーの乗馬体験に来てくれた男の子が、乗馬クラブに通いはじめたらしくて」
手紙には、郷土祭での乗馬体験がきっかけで、と書かれていた。手紙の最後には、やや拙い字ながら、聡太からあいへ感謝の言葉も添えられていた。
あいは部屋に戻り、もう一度手紙と写真を見返した。
「明日、加奈恵に話そう」
独りごちて向かいのベッドに目を向けた。
三日前まで加奈恵が使っていたベッドは、シーツが整えられたままになっている。戸棚や机周りに置かれていた加奈恵の私物も、一切が持ち出されたあとだった。
自分のベッドから腰を上げ、加奈恵が使っていたベッドに俯せになった。
「あのままでよかったのになぁ」
ぼやいたところで、厩務員課程生の寮へ引っ越した加奈恵が戻ってくるわけではない。加奈恵と同室であったことの方がイレギュラーだったのだ。
あいは喜びを分かち合えないもどかしさに、ベッドの上で右へ左へ転がった。
そのうちに整えられていたシーツが巻きついてきて、あいは春巻き一品として完成した。




