志摩宗介
志摩は、若駒に跨り、四頭の縦列の中に入った。
長いトンネルのような、目の前の屋内坂路を、縦列を維持したまま駆け上がった。
先頭で列を引っ張っている馬に乗っているのは、CRA(中央競馬協会)の職員である。その後ろに、同期の渋川、志摩と続く。
上りきったらところで馬を降り、歩きで坂の下まで戻る。そこで少し馬に息を入れさせ、もう一度全力で駈け上がらせた。
「うお、こらっ」
渋川の乗っていた馬が坂の途中で横に飛び出していった。最後尾についていた職員が、即座に馬を回り込ませ、渋川のフォローに入る。
先頭は駈歩を緩めていない。志摩はその尻に付いて行った。
一千メートルの坂路で、全力で二本も走ると、若駒の脚はかなり消耗した。坂の上で馬を降り、渋川たちを待った。
「すみません」
坂の途中から仕切り直して駈け上がってきた渋川が、悔しそうに唇を結び、馬を降りた。
「まだやんちゃ盛りだ。手こずるのも無理はない」
年嵩の職員は、大らかに笑い飛ばした。
「競馬学校にいる引退馬は、こいつらよりずっと聞き分けがいいだろう。トレセンのも、ある程度調教されているやつらだしな。
ここの馬は基礎作りの最中で、競走馬としちゃぁ、まっさらな状態といっていい」
「自分と同じってことですか」
渋川が馬に目を向けて言った。
「そういうこった。失敗も仕事のうちってな。ま、その分、ブリーズアップセールの本番は格好よく乗りこなしてやってくれ」
坂の下で、次の馬がスタンバイしていた。
志摩と渋川は、坂路走行を終えたばかりの馬を外へ連れて出た。
屋内馬場の正面は放牧地だった。雪に閉ざされた大地が拡がっている。
身を切るような冷気が襲いかかってきた。訓練で汗をかいた馬は、気持ちよさそうに尻尾を振る。
北海道日高市にある、CRAのサラブレッド育成牧場に実習に来ていた。
「何度見てもすごい場所だな」
渋川が隣に並んで言った。
「厩舎実習でトレセンに入った初日も、設備の規模に度肝を抜かれたが」
「わかるよ。ここは、雄大な自然の真っ只中だ。陽が暮れると、ちょっと怖いぐらいだ」
馬がじっと一点を見つめていた。視線の先を追うと、雪を被った薮から、雉が顔を出していた。
志摩が気づくと、雉は羽根を広げ飛び去っていった。
「再来月にはブリーズアップセールか。こいつら二歳馬のセリがメインだとわかっちゃいるが、俺たちも、馬主の前で騎乗を披露する初舞台だ。失敗はできねえな」
CRA主催で開かれる二歳馬の市場、ブリーズアップセールでは、騎乗供覧が行われる。
そこでの実際の走りや調教の仕上がり具合が、若駒を買い付けに来る馬主の判断材料になる。
「顔が怖いぞ、渋川。心配し過ぎるなよ」
「お前はどうなんだ」
「手応えは掴めてきている。普段の扶助より、メリハリをつけてやることだな。ここでの調教の仕方も、そんなふうだし」
今日のような負荷の強い練習の翌日は、平場での軽い運動のみで、馬に息抜きをさせる。
きつい練習をやって、なか二日身体を休め、またきつい練習をする。
そんなサイクルを繰り返すうちに、緊張と緩和のリズムを覚えさせ、本番のレースで力を振り絞って走る馬に仕上げていく。
扶助の緩急にも通じる手法だ、と志摩は思っていた。
「そっちはな。そうじゃなくて、志摩よ、飯は食ってんのか」
「またそれか。お前は俺の母親か?」
「俺は、お前をダチだと思ってる。その俺にも言えねえのか」
渋川は志摩の軽口に付き合わず、神妙な面持ちで見つめてくる。
志摩は苦笑し、息を吐いた。
「去年から、また身長が伸びた。いまで、百七十三だ」
「体重制限は?」
「ぎりぎり超えてない。超えないために、トレセンの実習に出てからは、ほぼ固形物は摂ってない」
「志摩、お前」
「無茶は承知さ。けれど、あと一年なんだ」
競馬学校では栄養士が考えた献立があり、バランスのとれた食事が出されていた。
実習中は誰に監視されているわけでもないので、人によっては緩みが出る。
渋川は自他ともに厳しい男だ。食生活でも自分を律し続けてきたはずで、体脂肪率なども実習前とほとんど変わっていないのだろう。
志摩は、食事のほぼすべてをサプリメントやゼリー飲料に置き換え、必要最低限の栄養価を賄っていた。
付き合いで誰かと食事した後は、必ずトイレで吐き出した。そこまでして、なんとか体重を維持している状態が、半年近く続いている。
身長が百七十センチ以上の現役騎手はいる。デビューさえすれば、この身体でも、レースに出て闘う手立てはあるのだ。
卒業まで学校で定められている体重制限を守れさえすれば、中央の騎手としてデビューできる。
「渋川、お前だから話した。その気持ちを汲んでくれ」
「誰にも言うなってか。けどよ」
「頼む。これは、友達の頼みだ」
「くそ、わかったよ」
渋川は忌々しげに吐き捨て、足元の雪を蹴飛ばした。
「悪いな」
「涼しい顔して、頑固なやつだ。知っていたつもりだったが、これほどまでとは思っていなかった」
「頑固か。僕がここに立てているのは、自分ひとりの力じゃない。頑固にもなるさ」
「学費を出してくれた、爺さんのことか。確か去年」
「ああ、生きていれば、いくらでも孝行のしようもあったさ。いまはもう、騎手になることでしか、与えてもらった恩に報いる方法はない」
背を押してくれたのは、祖父だけではなかった。
中学二年の夏、父に競馬学校への進学を反対され、身長のこともあり、一度はあきらめようとした。
その時に奮い立たせてくれたのは遼子だった。
遼子は、騎手の嫁になるのならと、医療技術系の大学で理学療法を専攻し、その傍ら、栄養学の勉強もしてくれている。
つらいからと、挫けるわけにはいかない。
後ろから、雪を掘る音が聞こえてきた。
振り返ると、若駒が蹄でせっせと雪の下の草を掘り起こそうとしていた。
「腹が減ったのかな。厩舎に戻ったら飼葉をやるから、少し我慢してくれ」
年嵩の職員が呼びに来た。
そのあとについて、馬を厩舎へと曳いていった。
厩舎の馬房の一つで、奇妙なことが行われていた。
若い職員が手で吊るし持ったタオルを、馬の顔や首、腹や尻などに当てているのだ。その様子を、馬房の柵の前で同期二人が見学している。
「あれはなにを?」
「ああやって、身体にものが触れるのを馬に慣れさせんの。鞍や頭絡を着けるのはそれから。馬の育成で一番最初にやることよぉ」
志摩が尋ねると、年嵩の職員は笑顔で答えてくれた。笑うと、欠けた前歯が露わになる。
若い頃に馬に蹴られて折ったらしい。こんなふうになりたくなかったら馬の近くで気を抜くな、と笑いながら話してくれた初日のことを、志摩はふと思い出した。




