対抗戦と岐路 ⑤
サファイアに跨り、学校の正門を出た。
あいを先頭に、他の同期も馬に跨って続いてくる。
サファイアと学校の外周を散歩するのは、ひさしぶりだった。
「まだ一年も経ってないのに、懐かしいね、サファイア」
出会ったばかりのサファイアは、とにかく臆病な馬だった。生まれてほどなくして、一頭、遠い土地から連れて来られたのだ。心細くもなろう。
騎手を目指して新しい環境に飛び込んだあいも、胸中は不安でいっぱいだった。
散歩にすら出られないほど委縮していたサファイアを、なんとか勇気づけたいと思ったのがきっかけだった。
自分に勇気と自信をくれた天道に倣い、サファイアと接しているうちに、新しい環境への不安は消え去っていた。
サファイアと一緒だったから、ここまで来られたよ。ありがとう。
声には出さなかった。掌で、サファイアの肩に触れる。掌を通じて、サファイアの気持ちも流れ込んでくる気がした。
空が高かった。雲一つなく、空気は澄み渡っている。
隣のゴルフ場から、気持ちのいい音が響いてきた。音がするたびに、サファイアの右耳が揺れた。
学校を囲うフェンス沿いに進み、竹藪を横目に通り過ぎ、国際厩舎の裏の道に出た。国際厩舎は、海外からやってきた馬を預かり、外来の病原体などを有していないか検査するための設備が整っている。
裏手は雑木林で、木の幹にびっしりと蔦が生い茂っていた。頭上に枝葉が覆い被り、やや薄暗くなった。
道に、あいの顔の位置に張り出した枝があったが、なにか合図を送るまでもなく、サファイアはあいに枝が当たらないよう横に避けた。
ふいに、サファイアが立ち止まった。
「どうしたの?」
サファイアが鼻でなにかを指し示す仕草をした。道になにか落ちているのか。
あいは後続に一時停止の合図を出し、鞍から飛び降りた。
「松ぼっくり見つけたんだね。オハナへのお土産にしようか」
あいが松ぼっくりを拾って笑いかけると、サファイアは満足そうな表情をした。
散歩から戻ると、馬場でそれぞれの馬の課題に適した運動をさせて、その日の実技訓練の時間は終了した。
夜が更けた。
風呂を済ませ、日誌の記入を済ませると、加奈恵に断り就寝時間前に眠りについた。
夜が明ける前に目覚めた。
「冷えるやろうから、ウチのダウン着ていき」
半分寝言のような声で、掛け布団に包まる加奈恵が言った。
「ありがとう」
あいはダウンジャケットを借り、寮を抜け出した。
厩舎へ行くと建物の前に数人の人が集まっていた。その中に天道の姿を見つけた。
「やっぱり起きてきたね」
天道は淡い色のサングラスを外し、白い息を吐いた。
サファイアの移送を担当する馬運車に随行するという連絡を、昨日のクリスマス会のあとに天道から受け取っていた。
昨日行われた有馬記念に、天道厩舎の馬が出走した。天道はそのために昨日、関西から出てきたのだ。
天道厩舎の馬を関西へ帰す馬運車に、サファイアが相乗りするかたちだった。
関西トレーニングセンターへの道すがらに、サファイアが引っ越す乗馬クラブがあるのだ。
「有馬記念、お疲れさまでした」
「なんの、大変だったのは馬と騎手さ。僕の仕事は前日までで、当日は見ていただけだからね」
天道はけろりとしていた。
中継で観ながら、あいは天道厩舎の馬を応援していた。後半までは先行していたが、ゴールの手前で後方から上がってきた馬に差され、さらに失速して入賞を逃したのだった。
「けど、ま、絶対リベンジするよ。その時は、あいの手を貸りるかもね」
天道がにやりと笑った。あいは嬉しくなり、ぶんぶんと頭を振って頷き、ぜひ、と勢いよく答えた。
「藤刀さん、まだ起床時間ではないでしょうに、寮を抜け出してきたんですか?」
天道と話していると、厩舎から落合が出てきて、あいを見つけた。
「す、すみません。サファイアを見送ってあげたくて」
「構わないですよね、落合先生」
天道が取り持つように言うと、主任教官の落合は温和な笑みで許可してくれた。
厩務員の手に曳かれ、サファイアが厩舎から出てきた。
サファイアがあいの前で立ち止まった。
しばし見つめ合った。
自分もサファイアも、別々の道を歩んでいる。その道が、この場所でたまたま交わった。
いずれ再び道が分かれることはわかっていたが、まだ先だと、勝手に思い込んでいた節があった。
サファイアが、あいの顔を舐めた。ざらりとした舌の感触に、心がくすぐられた。
綾と別れる時は、涙を堪えられなかったが、今度は笑顔で見送れる。サファイアもそれを望んでいる。
「走る路は違っても」
呟いた。サファイアが、頷いた気がした。
掌を差し出すと、サファイアも首を擡げる。手と鼻先を触れ合わせたのは、束の間だった。
サファイアと並んで、正門の方へ歩いて行く。正門の手前で、馬運車が後部扉を開いて待っていた。
サファイアは躊躇うことなく、荷台に乗り込んでいった。クッション材で区分けされた一角に収まると、扉が閉められた。
馬運車が発進し、見えなくなっても、あいはしばらく道の先を見つめていた。
「さて、僕も中山に向かうかな。うちの厩舎の厩務員が車で待ってるんだ」
サファイアを乗せた馬運車は、中山で天道厩舎の馬を乗せる。天道はその立ち合いの前に、競馬学校に寄ってくれたのだ。
「そうだ、JJHコンペティションで優勝したんだってね」
「あ、そうなんです。天道さんにも、見てもらいたかったです」
「山南が録画したのを送ってもって見たよ。第二走で馬具のトラブルが遭っても、よく乗り切ったじゃないか」
「他の人には危険だって怒られちゃいましたけど。サファイアとなら跳べるって、あのときは確信があったんです」
「いい相棒だったんだ」
あいは頷いた。
天道を見送ってから、人がいなくなり朝の静けさに包まれた厩舎を覗いた。
オハナが顔を覗きだしていた。
「サファイア、いっちゃったね」
オハナの鼻面を撫でた。
オハナの馬房の片隅に、サファイアの置き土産の松ぼっくりが残されていた。




