対抗戦と岐路
早朝に競馬学校から出発した馬運車が、北門に到着した。
馬事公苑に先入りしていた一学年は、チームメイトの厩務員課程生と、小早川の指示に従って馬の受け入れ作業に取りかかった。
「お、サファイアは落ち着いとるな」
サファイアの手綱を受け取った加奈恵が感心した。
「そうだね。車で移動するのに馴れてるのかも」
学校で車に乗せる時も、躊躇う素振りはなかった。
馬運車は輸送する生体になるべくストレスを与えないよう、空調やサスペンションが工夫され、運転にも細心の注意が払われる。
それでも、急な環境の変化に戸惑う馬は少なくない。
サファイアは、林から聞こえてくる小鳥の囀りに耳を澄ませている。
「馬運車に乗るのは、これで二回目だもんね」
「そうか、生まれは日高やったか」
「うん。北海道から船と車を乗り継いで、学校まで運ばれて来たんだって」
あの時は長旅だったぜ、と戯けるように、サファイアが尻を揺らす。
サファイアが競馬学校に寄贈された経緯を、あいは詳しく知らない。
サファイアを有していた馬主が経済的に苦しくなり、旧知の仲であった競馬学校の校長に相談した、というざっくりとした話しか聞いていなかった。
「後ろが詰まってるぞ。早く移動してくれ」
「正士郎君」
最近、正士郎は砕けた口調で話すようになった。遠慮のない物言いだが、嫌な感じはしない。
「わかっとるわ。あい、サファイアはこのまま厩舎でええよな」
「うん」
「正士郎、そっちはどうや」
「こいつは、一旦外の空気を吸わせてやった方がよさそうだ」
「ほな、ウチはそっちにつくわ」
加奈恵はサファイアの前髪を軽く整えてやってから、放牧地へ行く正士郎について行った。
サファイアを馬房に入れると、大矢が飼葉を運んできてくれた。一頭分を分けてもらい、サファイアに与えた。
競馬学校からは四頭が参加している。それが一台の馬運車で運べる数でもあった。
馬事公苑では常時五十頭ほどの馬が飼育されている。広大な苑内には、複数の馬場や放牧地があり、自然豊かである。厩舎にも十分な空間がある。
「少しいいかな」
一息ついていると、声を掛けられた。
濃紺のジャージを着た男子生徒が、通路の先から歩いてきた。
「馬術連盟チームの古屋敷です。代表して挨拶に来ました」
「あ、えっと、藤刀です。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。その黒毛の馬、立派な肉付きですね。いや、青鹿毛なのか」
「ありがとうございます。血統に、サラブレッドの血が入っているとかで」
「なるほど、通りで。サラブレッドの持つ筋力や瞬発力は、障害や総合では武器になるんじゃないかって見方もあるんですってね。主流なのは中間種ではあるけれど」
「そうなんですか?」
「あまり馬術に関する授業はされませんか。騎手を養成する学校ですものね」
「すみません、競技会も今日がはじめてで。あ、でも実技では、馬術の練習はたくさんしてきたので」
「なら、今日はいい勝負になりそうですね」
古屋敷はにこりとしてから、なにか探すように視線を巡らせた。
「あの、なにか?」
「いえ」
飼葉を運ぶのに使っていた台車を片付け、大矢が戻って来た。
「よう、久しぶりだな、古屋敷」
「大矢」
「正士郎の様子を見に来たのか? 隣の広場で馬を気晴らしさせてるから、じきこっちに来ると思うぜ」
「挨拶に来ただけだ。もう行くよ」
「そうか。一応、正士郎なら心配いらない、とは伝えとくぜ。今日の対抗戦にちゃんと集中してる」
背を向けて立ち去ろうとする古屋敷に、大矢は言った。
古屋敷はちょっと視線をくれただけで、歩き去っていった。
「あいつも素直じゃねえや」
大矢が呆れるように肩をすくめる。
「友達?」
「お互い馬術の競技会の常連でな。友達って間柄でもないんだが、ま、狭い世界だからな。幼少からやってる連中とは、自然と顔見知りになる」
「そういうものなんだ」
「隊長は、家の近所の牧場で独学で乗馬を身につけたんだったか。仲がよかった馬、綾っていったか」
「うん。山南さんに、乗馬クラブを紹介してもらったこともあったけど、その頃は綾がいればいいと思ってたから」
山南は馬術連盟の役員をやっているらしく、今日のJJHコンペティションに運営として携わっていた。
あいたち選手が馬事公苑に着いた時、出迎えてくれたのが山南だった。
「クラブに入ってたら、隊長とももっと早くに知り合ってたかもな」
「そうかも」
正士郎が、馬を曳いてやってきた。
「おう、正士郎、さっき古屋敷が来てたぞ」
「古屋敷。ああ、あいつか」
「例の報道があって、お前を心配して様子を見に来たんだと思うぜ」
「そんな仲か。敵情視察ぐらいの腹積もりだろう」
「まぁ、それもありそうだが。あいつはずっとお前に勝つことにこだわってたしな」
「そうだったか?」
「気づいてなかったのかよ。競馬学校の二次試験にもいただろ」
「それは気づいていたよ」
「お前に勝ち逃げされたくなかったからさ、多分な」
「くだらない。妄想に付き合っている暇はない」
あいは二人のやりとりを隣で聞きながら、古屋敷がなにか探すような様子だったのを思い出していた。
大矢の話通りの人物なのだとしたら、古屋敷はこの対抗戦に相当な意気込みで臨んでいそうだ。
ふと、サファイアの馬房が気になった。
静かすぎる。
見ると、サファイアは飼葉桶に顔を突っ込んだまま、じっとしている。
「サファイア?」
呼びかけても反応がない。
「どうした?」
正士郎が覗き込んでくる。
「寝ちゃったみたい」
「いまか。前は繊細な印象だったが、ずいぶん図太くなったな。誰かに似たんじゃないか」
「誰かって?」
正士郎に聞き返すと、呆れたように息を吐いて去っていった。
綾もしばしば、蹄の手入れや毛繕いをしている間に、立ったまま眠っていた。
横になって眠るより、身体への負担は実は少ないらしい。馬は深く眠る時、立ったまま眠るのだ。
対抗戦本番まで、まだ三時間ぐらいある。
もう少しの間、サファイアを寝かせておくことにした。




