諏訪正士郎 ⑥
加奈恵と学校に戻ると、正士郎は、足を厩舎に向けた。
厩舎を覗くと、あいが隅にしゃがみ込んでいた。
小柄な身体にスケッチブックを抱え、馬房でくつろいでいるサファイアジャケットの絵を描いている。
「上手いな」
よほど集中していたのか、声をかけると、あいはびっくりして顔をあげた。
「美術は苦手なのかと思っていた」
「苦手だよ。入学したての頃、馬の像を粘土でつくる授業があったでしょ。ああいう工作なんかは全然できないし」
学科の授業で、馬の身体の仕組みを理解する学習の一環だった。
歴代の卒業生の作品も保存されていて、有名な騎手のものなどは資料室に一部展示してあった。
あいの作品は、確かにひどい出来だった。
「その絵はよく描けている、と思う」
絵の良し悪しを語れるほど、美術に通じているわけではない。
ただ、スケッチブックに描かれたサファイアからは、息遣いを感じられた。どこがどう、とは言えないが、性格を線に捉えている気もする。
「ありがとう。まえは、綾と離れている間も、綾を感じていたくて。学校の休み時間には、ずっと綾の絵を描いてたんだ」
綾は、姉妹同然に育った馬なのだという。
人と馬が、そんなふうに結びつけるものなのか。馬はかけがえのないパートナーだが、唯一無二の家族だと考えたことはない。
一人っ子の正士郎には、兄弟がいる感覚もわからない。
「この前は怒鳴りつけて悪かった」
あいがきょとんとした目で見つめてくる。
もっと言うべきことがある気もしたが、言葉が出てこない。
正士郎が言い淀んでいると、あいが、にやりと笑った。
「正士郎君は、意外といじわるだったんだね」
あいに、挑発的な物言いをされるとは思っておらず、面食らった。しかし言われると、ふっと気持ちが楽になった。
「やっと気づいたか」
「実は夏の合宿の時から、ちょっとそんな気はしてたんだ。大変じゃないの?」
「優等生を演じることなら、もう馴れた。それに、誰だって、多かれ少なかれ、必要に応じて自分を演じている」
「そう、なのかな」
「ぴんとこないか。君は裏表なさそうだしな」
そういう無垢なところが、馬にも伝わるのだろう、と正士郎は思った。
「正士郎君も、必要だったの?」
「家ではね。うちが片親なのは、もう知っているだろう」
「うん」
母に心配をかけたくなくて、身につけた仮面だった。
家の外でも意識して利用するようになったのは、中学の終わり頃からだ。
「正士郎君は、私が嫌い?」
「ああ。自分が恵まれていることに無自覚なところとか、腹が立つ。あの日、怒鳴って悪かったとは思ってるけど、本心でもある」
「そっか。自分が恵まれてるなんて、考えたこともなかったや」
「君が人並み以上に努力していることも知ってる。だから、負けたくない、とも思っている」
「同じだね。私も、正士郎君の腹黒さは苦手。でも誠実だとも思う。正士郎には、ううん、誰にも負けたくない」
「そうだな。チーム戦だとしても、僕は全員に勝つつもりでやる」
「私だって」
正士郎は頷き返し、厩舎を出た。
自室で加奈恵から渡された先日の練習動画を見返した。
馬の不従順に遭うシーンには目を背けたくなったが、辛抱して見続けた。
見れば見るほど、映像の中の自分はひどい有様だった。馬へまったく意識が向いていないのが、いまならわかる。
夜が明けた。
実技訓練の時間になり、馬場に出ると、正士郎が乗る馬を加奈恵が曳いてやってきた。
この前の馬だ。
「お前にも謝らないとな」
馬首を撫でた。
馬は嫌がらず、むしろ励ますようにすり寄って来てた。
お前は優しいな。僕もいつか、そんなふうに人に優しくなれるだろうか。
心の中で語りかけた。
父のこと。母のこと。すべては、不運だった。そう思おうとしても、父が母にしたことを、赦す気にはなれない。
馬が、正士郎の耳元で、低く啼いた。
「お前」
見つめ合った。馬の瞳は、深い色を湛えている。
馬の幸福とはなんなのか。
どこまでも続く原野を、愛しいものとともに思うさま駈けることこそ、幸せなのか。
それとも、こうして人との関わりの中で生きることにも、幸せを感じているのか。
想像するだけだ。
どちらにしろ、馬も人と同じように、哀しみを抱いて生きているのだと、正士郎には思えた。
「辛いな、お互い」
馬が鼻先で正士郎の胸のあたりを小突いた。だから生きる甲斐もある。そんなふうに言われた気がした。
「正士郎、どないしたんや?」
いつまでも動こうとしない正士郎を訝しみ、加奈恵が呼びかける。
「馬と話していた」
「なんや、あいの真似か」
「そう言われると、気分が白ける」
馬に飛び乗った。
馬場に入る。
決められている道順を、ことさらになぞろうとは考えなかった。
この馬は十分に敏い。これまでの反復練習で、障害の順序からその間の経路の取り方まで、しっかりと覚えている。
こちらがあれこれと指図するのは、そんな馬にはかえってストレスだったはずだ。
馬の歩調と、障害飛越の踏み切りのタイミングを合わせることだけに集中した。
高低百十センチの中型の障害が並んでいる。
前後にバーを並べ、奥行きのあるオクサー障害が迫る。深めに跳躍した。さらに連続する障害を、一つ、二つ、三つと、立て続けに突破する。減点はない。馬は軽い足取りでゴール地点に定められたラインを割った。
タイムを計る加奈恵の元まで駈けた。
「どうだった」
「六十秒一三。悪くないタイムやないか」
「こいつとなら、あと二秒半は縮められる」
「急に威勢ようなったな」
「悪いか」
「まさか。それぐらい生意気な方が、ウチは好きやで。ほな口だけやのうて、さっさと実践してみせえ」
「言われるまでもない」
手綱を引いて馬首を返し、馬場の中央へ駆け戻る。
妙に喉が渇く。心臓の鼓動が早い。
平常心だぞ。正士郎は自分に言い聞かせた。




