諏訪正士郎 ⑤
私服姿の正士郎が、正門に向かっていくのが見えた。
休養日だった。
朝の厩舎作業を終え、学生は各々、好きなように時間を過ごしている。
加奈恵は、サファイアジャケットと過ごすというあいについて行く途中だった。
「すまん、あい。急用を思い出したわ」
「え、」
「サファイアによろしく言うといてくれ」
踵を返し、正士郎を追った。
正士郎はまだ正門を出ておらず、馬霊碑を見守るように植えられた樹の陰に身を隠していた。
「なにしとるんや」
「君か。驚かすな」
「そっちが勝手に驚いたんや。出かけるんやなかったんか?」
正士郎が顎の先で正門を指す。
「ん、なんや、あの兄ちゃん」
「多分、僕を待ち伏せしているんだ」
「マスコミか」
正士郎は息を吐き、寮の方へ引き返そうとする。
「どこ行くんや」
「部屋に帰る。昨日君に貰った動画を見返して、イメージトレーニングでもするさ」
「そんなん夜でもええやろ。どっか行きたいとこあるなら、諦めることあらへん。要はあの兄ちゃんに見つからん場所から出たったらええだけや」
「そんな場所どこに。裏口は施錠されているだろ」
「ついてきい」
加奈恵は本館裏にある汚水処理施設の脇を通り、雑木林に面した道に出た。先に進むと、装蹄所に続く道である。
「ほれ、よく見てみい。この茂みの先、獣道があるやろ。これ、林の向こうまで繋がってんねん。多分、狸かなんかがおるんや。ほっそいけど、ぎりぎりウチらでも通れるやろ」
「確かに、道みたいなものはあるが。どうしてこんな道を知ってるんだ」
「前にあいと松ぼっくりを拾い集めてて見っけた」
「君らは幼稚園児かよ」
「オハナが松ぼっくりを好きらしくてな。そんであいが集めに行きたいて言うから付き合うただけや。ええから、ほれ、行くで」
加奈恵は先陣切って獣道に入っていった。後ろから正士郎がついて来るのは、枯れ枝を踏む音や、茂みが揺れる音で伝わってきた。
雑木林を抜け、学外に出た。
「どや、外に出られたで」
「ああ」
「髪に枯葉ついてんで」
「やめろ、自分で取れる」
正士郎は照れくさそうに髪を払い、足早に歩きだした。駅の方角だ。
「電車に乗るんか」
「なんで付いて来てるんだ」
「ウチのおかげで外に出られたんや。ええやろ」
「礼は言う。だから一人にしてくれないか」
「いやや」
「なんで頑ななんだよ。ならせめて、一言もしゃべらず、黙っていてくれ」
加奈恵は親指を立て、了解と仕草で返す。
西白囲駅で北総鉄道に乗り、途中で東武野田線に乗り替え、柏で下車した。
ひっそりとした路地を歩いていくと、キネマの文字が出てきた。
海外の古い映画やインディーズなどを中心に上映しているらしかった。
正士郎が中へと入っていく。加奈恵もあとにつづいた。
正士郎は、フロントでチケットを二枚買い、片方を無言で渡してきた。
財布を出す間もなかった。これで先程の借りは返した、ということだろう。
可愛げがない、と加奈恵は思った。
三つあるスクリーンの一つに入り、隣り合った席についた。外観は寂れた感があったが、内装は凝っていて、人の手が行き届いている。
正士郎の足取りは明らかに通い慣れていた。映画鑑賞が趣味なのだろう。これまでも、休養日にはここで息抜きしていたのか。
映画がはじまった。
イングランドの炭鉱町で生まれ育った少年が、バレエに憧れ、親に隠れてダンサーを目指す、というような内容だ。
ストーリーもさることながら、主人公を演じる少年の演技に心を惹かれ、加奈恵はすっかり見入ってしまった。
上映が終わり、隣を見ると、正士郎は居眠りしていた。
大矢いわく、ここ数日まともに眠れていなかったのだ。
エンドロールが終わると、まばらに席を埋めていた客が出ていった。加奈恵と正士郎だけが残された。
待った。
次の映画目当ての客が入ってくる頃になって、正士郎は目を醒ました。
「なんで起こさない」
「ウチに黙っとけっていうたのはそっちやろ」
「起こすだけなら、方法はあるだろ」
文句を言いつつも、正士郎の目にはいくらか気力が戻っていた。
席を立った。
「映画に女の子連れてきて、ジブンは寝てまうなんて、デートやったら彼氏失格やで」
「デートじゃないし君が勝手について来たんだ」
言い合いながらキネマを出ると、若い男が立ちふさがってきた。
「君、諏訪正士郎君だよね。諏訪騎手の息子さんの」
「あなたは?」
「僕はこういうもので」
男は、いかにも手作りそうなレイアウトの名刺を差し出してくる。
正士郎はそれを一瞥しただけで受け取らず、話すことはありません、と断って男を躱そうとした。
「まあまあ、少しだけでも、お父さんのことでお話聞けないかな」
男がずいと肩で遮り、ボイスレコーダーらしき小型の機材を手に構えた。
「しつこいで、あんた」
加奈恵は、男の手からボイスレコーダーを抜き取り、握力を加えた。
ひしゃげて機能しなくなったボイスレコーダーの残骸を、男の掌に返す。
「こうなりたくなかったら、とっとと去ね」
ひと睨みすると、男は腰を抜かして走り去っていった。
静かになった路地に、くつくつと笑い声が聞こえた。
「正士郎?」
肩を震わせていた正士郎が、弾けたように笑い出した。
「とっとと去ねって、くくっ、時代劇かよ」
「ふん。連れてきて役に立ったやろ」
「そうだな。君ほどボディーガードにうってつけなやつはいないかもしれない。けど、どうしてだ?」
「なにがや」
「わざわざこんなところまでついて来て、どういうつもりだ」
「対抗戦まではチームや。仲間は助け合わんとな」
「いつものお節介か」
「まあ、それだけやないけどな」
加奈恵は路地に設置された自動販売機でココアを二つ買い、片方を正士郎に投げて渡した。
肩を並べ、壁に凭れて温かいココアを啜った。
「あいがしんどい時、ウチは傍にいてやれんかった」
「罪滅ぼしのつもりか?」
「ひねくれとるな。同じ後悔は、誰だってしたないやろ」
「一人で乗り越えなきゃいけないことだってある。現に、彼女は一人で乗り越えた」
「あいなら、馬と一緒だったって言いそうやな」
正士郎も当たり前に馬を大切にしているが、あいが馬に注ぐ情とは違うだろう。
正士郎は、父に復讐するために騎手を目指している、と以前加奈恵に言った。
それも本心なのだろうが、その裏には、現役だった頃の父への憧れがあるのではないか。
父への憧れと、憎しみ。
縺れた糸のような感情に、正士郎は苛まれ続けてきたのではないか。
その苦しみを、誰かが取り除くことはできない。いずれ折り合いがつくまで、本人が耐えるしかないことだ。
「君はなにも訊かないんだな」
「聞いても、なんもできへんからな」
しばし沈黙があってから、正士郎はココアのプルトップを開けた。
「母は、誰より苦しんでいるのはあの人だと言い続けていた。別居する決断をしたのだって、父を見限ったからじゃなく、幼い俺がいたせいだ」
正士郎が言った。
「ほんとうは、ただ家を出たかっただけだったのかもな。だから全寮制の競馬学校を受験した。中央なら、デビューすればいくらでも身の振り方はある」
「理由は、なんでもええやろ。どんな建前があったって、ここにおる。それが全部や」
父への憎しみ。母への祈り。どんな本音があろうと、騎手に憧れ、目指した心も確かにあったはずだ。けれど、それをここで口にしたところで、正士郎は救われない。
「いいわけないだろう。卑怯だ。馬にも失礼だ」
「卑怯で意気地なしで情けない。あんたに乗られる馬は気の毒かもしれん。それでも、肚くくるしかないやろ」
ココアを啜った。
腹がじんわりと温かくなり、口に優しい甘さが拡がった。
「そこまでは言ってない」
ややあって、正士郎もちびりとココアに口をつけた。




