諏訪正士郎 ④
手は細かい傷にまみれていた。
それでも小早川は手袋をしなかった。
逆立ちで、外走路を進む。
宿直や寮母以外の職員は退勤し、学生はみな就寝している時間だ。
せいぜい一日にこなせる距離は、二周が限界だった。
翌日も仕事があり、いかに天道との賭けに負けた代償とはいえ、そちらに支障をきたすわけにはいかない。
手袋をするのは甘えだと、小早川は考えていた。
十二月になれば、さらに夜の砂は冷たさを増すだろうが、望むところだった。
藤刀あいには、騎手の素質がある。
馬と心の深い部分で繋がれる。
それだけだと思っていたが、騎手に不可欠な闘志も秘めていた。
天道は見抜き、自分は見抜けなかった。
「違う、な」
呟いた。逆立ちをしているので、自然と声は絞り出すようになった。
ずっと逆立ちだと、頭に血が上り、やがてぶっ倒れる。
最初の頃に気を失ってからは、二十分に一度、頭に上った血を下げる時間を挟むことにした。
わずかな時間だが、その間に歩いて距離を稼ぐなどと、姑息な真似はしない。誰が見ていなくとも、自分自身のことだ。
「見込みがなければ、試験で落としていた」
だから、あいが力を秘めていることは、小早川もわかっていたのだ。
素直に認められなかったのは、やはりどこかで、天道が送り込んできた子どもだという、意識があったのか。
天道を超える。
それがかつての夢だった。
その夢は、凱旋門賞を獲るという、天道の夢が潰えるのと同時に潰えた。
天道との関係は、一言では言い表せない。
天道なら戦友とでも言いそうだ。
確かに一番近い言葉はそうだが、小早川の中には対抗心があった。
憧れといってもいい。
夢が潰えたいま、憧れは、憎しみと表裏一体になっている。
どうあれ、あいには関係なく、迷惑な話だったに違いない。
それでも、あいは逃げず、果敢に立ち向かってきた。
小早川は一度立ち止まり、足を地につけ、頭に昇った血が下がるのを待った。
あの勝負で垣間見せたあいの闘志は、あるいは自分の居場所を失うことへの恐怖だったのかもしれなかった。
それならそれでいい。騎手でありつづけるということは、居場所を勝ちとり続けることと同じだ。
当然、負けることもある。しかし、勝つ。勝てない騎手は、いずれ人から忘れ去られ、ひっそりと表舞台から消えていくしかない。
雲はなく、明るいとさえ感じる月明かりだった。星はほとんど見えない。
小早川は再び逆立ちをし、外走路を進んだ。
翌日、一学年の障害馬術の練習を見分した。
騎手課程生の一学年は、サポート役の厩務員課程生と相談し、取り組むべき運動を決めたり、騎乗馬への扶助の仕方を工夫したりしている。
あらためて指導することはさほどなく、練習内容はほぼ学生に委ねている。
走路訓練に移る前には試験があり、今年の一学年は全員その試験を突破している。基礎馬術はすでに修得しているのだ。
ただ、諏訪正士郎だけが、思うように障害を跳べなくなっていた。
「小早川さん」
歳の若い教官が、いつの間にか隣に来ていた。
「正士郎君、できていたことができなくなっています。イップスですかね」
「うむ」
「どうしましょう。ゴシップ誌の、例の件もありますし、心の整理をつける時間を与えたほうが」
「イップスは心の問題ではない。脳の神経伝達物質になにかしらの変化が発生し、起こる症状だという論文もある」
「は、はぁ」
「精神面での問題は、イップスになったことで起る二次症状ということだ」
「つまり、気の持ちようではイップスは解決しない、ってことですか」
「ああ」
「なら、」
「見ろ」
厩務員課程生の一人が、正士郎の動きをひたすら撮影していた。
名前は木村加奈恵といったか。相当な怪力の持ち主だと噂されている学生だ。
「あとで見直して、具体的な問題点を洗い出すつもりなのだろう」
スポーツ科学の授業は、騎手課程だけでなく、厩務員課程でも行なっている。
「なるほど」
「君は少し勉強した方がいい。なんなら、あの学生の方が近年のスポーツ科学には明るそうだ」
「め、面目ないです」
若い教員はへこへことして離れていった。
馬場の周辺がざわついた。
見ると、正士郎が乗っている馬が棹立ちになり、障害に向かうのを拒んでいた。
馬の不従順は一度目なら減点、二度目なら失権となる。
正士郎は馬を宥め、その後は障害飛越の練習から基礎的な運動に切り替えた。
実技訓練を終え、職員室に戻って事務仕事を片付けていると、外線から電話がかかってきた。
人が出払っていて、小早川が受けた。
電話は記者だと名乗る男からで、正士郎に、父親のDVの件で話を聞きたいとの申し入れだった。
とりつく島も与えず断り、受話器を置いた。
この手の電話が、頻繁にではないが、すでに四、五回かかってきている。
ほとんどがネットニュースの記事を書いているような個人のライターだろうと思えた。
正士郎が職員室にやってきたのは、夕方だった。
「厩舎作業終わりました」
「そうか。ごくろう」
「相談したいことがあるんですが」
「なんだ」
「JJHコンペティションを、辞退できないでしょうか。いまのままだと、チームに迷惑をかけてしまうので」
小早川は、正士郎のやつれた顔に目を向けた。
相当まいっている。無理もなかった。
「辞退してどうする。基礎が崩れたままなら、走路訓練はさせられんし、進級もできんぞ」
「はい」
「対抗戦のことは、一旦忘れろ。一からやり直すつもりで、馬と向き合え。木村加奈恵がその役に立つものを持っているだろう」
「彼女が?」
「聞いていないのか。辞退などと考える前に、周りを頼れ」
チームメイトだけでない。生徒を導くために自分たちがいる。
そう言ったつもりだったが、正士郎は小早川に一礼し、職員室を出ていってしまった。
「言葉足らずなのは、学生の頃のままですね」
話を聞いていた主任教官の落合が、席を立ち、小早川のデスクに軟膏を置いた。
「なんです、これは」
「その手。君はよくても、見ているこっちが痛々しい。さて、老体は先に帰らせてもらいますよ。君も若くないのだから、あまり無茶はしないように」
そう言って、落合はコートと鞄を取り、帰り支度をはじめた。




