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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第十一話
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諏訪正士郎 ③

 バーが正士郎の背後で落ちた。


 今日だけでも三回目である。


 JJHコンペティションに向けた障害馬術の練習がはじまってから、正士郎の調子はずっと振るわなかった。


 当然、障害物の落下は本番では減点対象である。


 チームメイトの厩務員課程生が、馬場の柵の外で手を振り、正士郎を呼んでいるのに気づいた。


「諏訪君、顔色もよくないし、体調でもわるいのか?」 

 柵の手前で馬を止めると、組んでいる厩務員が気遣うように言った。


「大丈夫です。まだこの馬のリズムが掴めなくて。もう少し時間をください」


「そんなに難しい馬ではないはずなんだが」


 厩務員課程生の厩舎で世話をしてきた馬だ。その馬の特徴をよく理解している厩務員は、不思議そうに小首を傾げた。


 確かに、落ち着いた気性で、騎手の意図をよく汲みとる馬だった。


 馬に問題はない。だが、息が合わず、ミスを連発しているのも事実だった。


「お願いします」


「わかった。馬の様子も見つつ、あと何回かやってみよう。あまり失敗が続くと、馬にも変な癖がつく」


「はい」


 正士郎は、馬場の柵の外でタイムウォッチを使っている加奈恵を一瞥した。


 今回、対抗戦に向けて、騎手課程一学年は二人一組になり、そこに四人一チームからなる厩務員課程生が馬の世話役につくという体制がとられた。


 正士郎はあいと組まされ、厩務員課程生のチームには加奈恵が入っていた。


 加奈恵は、あいの走行タイムを測っているところだった。


 あいとサファイアジャケットのコンビは、今のところ一度のミスもない。進路の取り方に無駄はなく、タイムも悪くないはずだ。


 サファイアにはサラブレッドの血が入っているという話だった。そのためか、後脚の筋力が強く、跳躍力と瞬発力がともにかなり高い。


 中型の障害なら余裕で、訓練次第では百五十センチ以上の高さがある大型障害でも飛べそうだった。


 練習中の障害馬場の難度と配置は、本番を想定していた。JJHコンペティションのコースは例年少しずつ異なっているが、大きくは違わない。


 他の同期もそれぞれ好調だった。


 結局、その日はさらに二度失敗し、タイムが縮まることもなかった。



 翌日の実技は走路訓練だった。


 調教鞍を背に乗せた元競走馬に跨り、内走路に出た。


 外走路では、翌年二月に東京競馬場で催される模擬レースに向けて、三年生が本番さながらの合わせを繰り返している。


 一学年は、教官が指定してくるラップタイムに従って、単走でペースコントロールする訓練だった。


 序盤は緩やかで、後半にかけて加速していく。


 今日は最後の直線で勝負するレース展開だ、と正士郎は脳内で思い描いた。


 教官が指示するラップタイムは、現実のレースに則したものだ。


 口頭で説明されたりはせず、自分の頭で、これがどういうレースなのかを想像しながら、タイムを擦り合わせていく。


 コーナーを過ぎた。


 上がり三ハロン。出遅れた。

 調教スタンドから小早川が伝えてくるラップタイムを聞きながら、馬を放牧地に向けた。


 待っていた厩務員課程生に手綱を渡し、次の馬に乗り替えた。


 頭痛がした。

 なにもかも思い通りにいかない苛立ちを抑え、内装路の入口で次の出走の順番を待った。


 走路を一周して戻って来た大矢が、馬上ですれ違いざまに目配せしてきた。


 肩の力を抜けよ、と言われた気がした。


「わかっている」

 正士郎の呟きに、馬が微かに耳を動かした。


 頭ではわかっていても、ままならないのが心だった。


 郷土祭で父親と再会した。

 そこで乱れた心が、いまだ尾をひき、馬と息を合わせる弊害になっているのか。


 練習を終え、厩舎に戻って手際よく馬の鞍を降ろした。


「正士郎君、あの、大丈夫?」

 あいが心配そうな表情で話しかけてきた。


 どいつもこいつも。


 正士郎は、かっとなった気持ちを、抑えきれなかった。


「人の心配とは余裕だね。それもそうか。障害馬術の練習でも、走路訓練でも、君は調子がいいものね」


「え、」


「それとも、才能もコネもない僕に同情しているのか?」


「正士郎君、どうしたの、なに言ってるのかわかんないよ」


 自分でも、わからなかった。心の底に、泥のように堆積していたなにかだ。息が熱い。膝が震えている。


「そういう、君の無神経さが腹立つんだ。僕はっ」

 大矢が間に入ってきた。


 怒声を浴びせかけたあいに、ふいに、父に怯える母の姿が重なった。


 息が苦しくなり、たまらず厩舎から離れ、胃のものを吐き出した。


「隊長、教官を呼んできてくれ。正士郎、こいつを口に当てて、ゆっくり呼吸しろ」


 過呼吸を引き起こしている正士郎に、大矢がハンカチを差し出す。


 正士郎はそれを口と鼻にあてがい、言われた通り浅い呼吸を繰り返した。


「肚に溜め込んだもん吐き出して、少しはスッキリしたか?」


「最悪な気分だ。わるいな、新しいものを買って返す」


 嘔吐したばかりの口に押しつけ、大矢のハンカチは汚れていた。


「ばか、気にしねえよ。それより、この後の学科は休め。医務室にでも行って寝ろ。ここ最近、ちゃんと眠れてなかったろ」


「だが」


「そいつの始末は俺がしておくさ。隊長が教官を連れてきたら、適当に言っておく。医務室までは、自分で歩けるな?」


「ああ」

 もう吐き気はないが、にぶい頭痛は残っていた。


 正士郎は本館の医務室で気分が悪いと伝え、ベッドを貸してもらった。


 検温すると、微熱があった。


 風邪だと他の同期にうつす可能性もあるため、夕食を医務室で摂ることが許可された。


 夕食は大矢が運んできてくれた。


 その後自室に戻り、蒸したタオルで身体を脱ぐっただけで横になった。


 眠れなかった。

 微睡んでは起きることを繰り返しているうちに、朝になった。


 週に一度の休養日である。


 昨日晒した醜態を思い出すと、部屋から出る気になれなかったが、引きこもっていても仕方なかった。


 寮の一階の共有スペースに出ていくと、同期が二人いた。


「大矢は?」


「トレーニングルームで身体動かしてくるって」


「そうか」


 同期の片方が、開いていた週刊誌のページを、正士郎の目から隠すように閉じた。


「珍しいもの読んでるね」


「い、いや」


「見せてくれ」

 正士郎から遠ざけようとする同期の手から雑誌を抜き取った。


 寮には定期的に漫画雑誌や情報誌が届けられる。決められた時間以外、携帯端末を使えない暮らしでは、それらは貴重な娯楽だった。


 同期が読んでいたのはゴシップ記事などを扱う週刊誌だ。普段は漫画雑誌ぐらいしか手に取らない同期が、やはり妙だ。


 雑多な見出しの詰まった表紙に、小さい文字で、元CRA騎手、と書かれているのを見つけた。


 ページを開いた。


 元CRA所属の騎手が不慮の事故で引退した後、家庭内で妻子に暴力を振るっていたことが書かれていた。


 記事にされていることは、正士郎の家のことだった。


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