秋空とポニー ④
浮かれている小、中学生を次々と相手にするのは、苦痛でしかなかった。
腐らず、木馬の乗り方を丁寧にレクチャーしている同期に倣いつつ、正士郎は人知れず唇の端を噛んだ。
地域交流の一環で、競馬学校ならではの催しを用意し、祭に参加していた。
時間を無駄にしている、としか思えなかった。いまは、少しでも多くの時間を鍛錬に当てたかった。
大雨が降りしきるなか、拳を突き上げる藤刀あいの姿が、脳裡に焼きついて消えないのだ。
あいは退学を賭けて、教官の小早川とタイムアタックの勝負をした。画策したのは、天道らしかった。
天道とあいの関係は、師弟といっていい。小早川との勝負は、あいを成長させる目的があったのだろう。
どこがどう、とは言えないが、勝負を経て、あいは変わった。
走路訓練では、必要ならば馬に鞭を打つようになった。以前は馬に鞭を使うのを極端に避けていて、使ったとしても、見せ鞭がほとんどだった。
そういう、表面的な変化もあるにはあったが、本質ではないように感じた。
人が変わった。というより、潜在していたなにかが引き出されたのか。
小早川との勝負を目の当たりにしたことで、あいが騎手には向かないという正士郎の認識は、改めさせられた。
走路訓練でも乗っている、引退した競走馬が勝負では使われた。
あいは騎乗馬の能力を十二分に発揮し、小早川を超えるタイムを叩きだしたのだ。
あいの、人馬一体となかった渾身の走りに、正士郎は束の間、気を吞まれた。
自分が競ったわけでもないのに、敗北感が押し寄せてきた。
屈辱だった。
そして、自分があいを見下してのだと、正士郎ははっきりと自覚した。
あいだけではない。
他の同期と技量を比べ、自分は秀でていると、心のどこかで安堵していたのではないか。
そこまで思い至ると、暗澹とした気分に見舞われた。
そんな情けない性根で、あの男を超えられるのか。
「くそっ」
正士郎は、居てもたってもいられず、その場を離れようとした。
「おう、正士郎、どこいくんだ」
ポニーの乗馬体験コーナーを担当していたはずの大矢と、すれ違いかけた。
「別に。トイレだ」
「なら、そっちじゃねえぜ?」
舌打ちをしそうになったが、普段演じている優等生の外面を守るため、ぐっと堪えた。
大矢の後ろに、あいがいた。視線を感じたが、目は合わせず、踵を返した。
行く先に、男が立っていた。
男は、薄手のトレンチコートを羽織り、三点杖で片足が不自由なのを補っている。無精髭を生やし、髪にはまとまりがなく、お世辞にも衛生的な容貌ではなかった。
「久しぶりだな、正士郎」
男に名を呼ばれ、言葉に詰まった。声だけは、昔と変わっていなかった。
「誰だ、あのおっさん。知り合いか?」
「お前も知っている男だよ、大矢」
大矢が、男を改めて観察し、あっと短く声をだした。
大矢とは幼少から同じ乗馬クラブに所属していた。正士郎の父親とも、そこで面識があった。
「容姿が変わり過ぎて、わからなかったろ。無理もない。落馬事故で片足が不自由になってからは、乗馬クラブにも顔を出さなくなっていたしな」
「乗馬クラブ。そうか、大矢君か。成長したな」
男が正士郎の父親だと気づき、黙りこむ大矢に代わって、男の方が口を開いた。男の目に、昔を懐かしむような光が滲む。
「お前は、俺の顔など見たくなかっただろうが、話があって来たんだ」
「俺には、あんたと話すことは、なにもないよ」
正士郎は男がなにか言おうとするのを無視し、横を通り過ぎた。
◆
正士郎の前に現れた中年の男は、古い、粗末なトレンチコートを着ていた。
片足が悪いのか、杖を使っていても、真っ直ぐ立つのが難しいようだった。
男は立ち去ろうとする正士郎を呼び止めようとして、バランスを崩した。
片膝をついた男に背中を向けたまま、正士郎は首だけで振り返り、冷ややかな視線を送った。
それだけで、なにも言わず離れていった。
こんなとき、真っ先に動きそうなのが大矢だが、なぜか棒立ちだった。
あいは、駆け寄って、男が立つのを助けた。
「あの、大丈夫ですか」
「すまない。ありがとう」
服の上から腕に触れると、意外にしっかりとした筋肉の感触があった。
「なにしに来たんすか」
大矢が一歩前に出てきて、威圧的な語調で言った。
「今度、J.J.Hコンペティションがあるのだろう。一緒に正士郎の応援に行かないかと、妻から連絡を貰ったんだ。けれど、急に私が現れたら、競技前に正士郎の心を乱してしまいかねないと思って」
JJHコンペティションとは、毎年十二月に競馬学校と少年馬術団、青年馬術連盟の三チームが対抗して行う、障害馬術の競技会だ。
基礎訓練が主であった一年の、総仕上げのつもりでいろ、と小早川から説明があった。
「だから、その前に顔合わせに来たんすか」
「行くかどうかは、正士郎と会ってから決めるつもりだった。妻には返事を待ってもらっている。
いや、そもそも会いにくるべきではなかったのかもしれない。大矢君、悪いが、急に押しかけてすまなかったと、伝えてくれるかな。私は、これで失礼するよ」
男はたどたどしい足取りで、祭の喧騒の中に消えていった。
「あの人って」
あいはまったく状況が呑み込めていなかった。
「正士郎の親父だよ」
「それは会話でなんとなくわかったけど」
正士郎の父親は、妻、つまり正士郎の母と別居しているような口ぶりだった。
正士郎は、尋常ではないほど冷え切った眼差しを思い出す。
なにか、わけがあるのだろう。大矢は事情を知っていそうだったが、説明してはくれなかった。
木馬試乗コーナーの同期と、郷土祭後の撤収方法を再確認した。
正士郎と少し話していくという大矢を残し、あいは先に持ち場に戻った。
小早川が乗馬の補助に当たっている子どもが一人いるだけで、他の客はいなかった。
美冬の甥、聡太が、落合から飼葉を受け取り、ポニーに与えていた。
「美冬さん、そんなところで寝てると、風邪ひいちゃいますよ」
飲み干した何本ものビール瓶と一緒に、美冬は草の上に転がって鼾をたてていた。めくれた服の裾の隙間から、臍が顕になっている。
あいは声をかけながら、美冬の服の乱れを直した。
ポニーにじゃれつかれ、聡太のはしゃぐ声が聞こえてきた。
聡太があいに気づき、手を振ってくる。
手を振り返しながら、あいは正士郎のことが気掛かりでならなかった。




