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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第十話
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秋空とポニー ④

 浮かれている小、中学生を次々と相手にするのは、苦痛でしかなかった。


 腐らず、木馬の乗り方を丁寧にレクチャーしている同期に倣いつつ、正士郎は人知れず唇の端を噛んだ。


 地域交流の一環で、競馬学校ならではの催しを用意し、祭に参加していた。


 時間を無駄にしている、としか思えなかった。いまは、少しでも多くの時間を鍛錬に当てたかった。


 大雨が降りしきるなか、拳を突き上げる藤刀あいの姿が、脳裡に焼きついて消えないのだ。


 あいは退学を賭けて、教官の小早川とタイムアタックの勝負をした。画策したのは、天道らしかった。


 天道とあいの関係は、師弟といっていい。小早川との勝負は、あいを成長させる目的があったのだろう。


 どこがどう、とは言えないが、勝負を経て、あいは変わった。


 走路訓練では、必要ならば馬に鞭を打つようになった。以前は馬に鞭を使うのを極端に避けていて、使ったとしても、見せ鞭がほとんどだった。


 そういう、表面的な変化もあるにはあったが、本質ではないように感じた。

 人が変わった。というより、潜在していたなにかが引き出されたのか。


 小早川との勝負を目の当たりにしたことで、あいが騎手には向かないという正士郎の認識は、改めさせられた。


 走路訓練でも乗っている、引退した競走馬が勝負では使われた。


 あいは騎乗馬の能力を十二分に発揮し、小早川を超えるタイムを叩きだしたのだ。


 あいの、人馬一体となかった渾身の走りに、正士郎は束の間、気を吞まれた。


 自分が競ったわけでもないのに、敗北感が押し寄せてきた。


 屈辱だった。


 そして、自分があいを見下してのだと、正士郎ははっきりと自覚した。


 あいだけではない。


 他の同期と技量を比べ、自分は秀でていると、心のどこかで安堵していたのではないか。

 そこまで思い至ると、暗澹とした気分に見舞われた。


 そんな情けない性根で、あの男を超えられるのか。


「くそっ」

 正士郎は、居てもたってもいられず、その場を離れようとした。


「おう、正士郎、どこいくんだ」

 ポニーの乗馬体験コーナーを担当していたはずの大矢と、すれ違いかけた。


「別に。トイレだ」

「なら、そっちじゃねえぜ?」


 舌打ちをしそうになったが、普段演じている優等生の外面を守るため、ぐっと堪えた。


 大矢の後ろに、あいがいた。視線を感じたが、目は合わせず、踵を返した。


 行く先に、男が立っていた。


 男は、薄手のトレンチコートを羽織り、三点杖で片足が不自由なのを補っている。無精髭を生やし、髪にはまとまりがなく、お世辞にも衛生的な容貌ではなかった。


「久しぶりだな、正士郎」

 男に名を呼ばれ、言葉に詰まった。声だけは、昔と変わっていなかった。


「誰だ、あのおっさん。知り合いか?」


「お前も知っている男だよ、大矢」

 大矢が、男を改めて観察し、あっと短く声をだした。


 大矢とは幼少から同じ乗馬クラブに所属していた。正士郎の父親とも、そこで面識があった。


「容姿が変わり過ぎて、わからなかったろ。無理もない。落馬事故で片足が不自由になってからは、乗馬クラブにも顔を出さなくなっていたしな」


「乗馬クラブ。そうか、大矢君か。成長したな」

 男が正士郎の父親だと気づき、黙りこむ大矢に代わって、男の方が口を開いた。男の目に、昔を懐かしむような光が滲む。


「お前は、俺の顔など見たくなかっただろうが、話があって来たんだ」


「俺には、あんたと話すことは、なにもないよ」


 正士郎は男がなにか言おうとするのを無視し、横を通り過ぎた。


           ◆


 正士郎の前に現れた中年の男は、古い、粗末なトレンチコートを着ていた。


 片足が悪いのか、杖を使っていても、真っ直ぐ立つのが難しいようだった。


 男は立ち去ろうとする正士郎を呼び止めようとして、バランスを崩した。


 片膝をついた男に背中を向けたまま、正士郎は首だけで振り返り、冷ややかな視線を送った。

 それだけで、なにも言わず離れていった。


 こんなとき、真っ先に動きそうなのが大矢だが、なぜか棒立ちだった。


 あいは、駆け寄って、男が立つのを助けた。


「あの、大丈夫ですか」


「すまない。ありがとう」

 服の上から腕に触れると、意外にしっかりとした筋肉の感触があった。


「なにしに来たんすか」

 大矢が一歩前に出てきて、威圧的な語調で言った。


「今度、J.J.Hコンペティションがあるのだろう。一緒に正士郎の応援に行かないかと、妻から連絡を貰ったんだ。けれど、急に私が現れたら、競技前に正士郎の心を乱してしまいかねないと思って」


 JJHコンペティションとは、毎年十二月に競馬学校と少年馬術団、青年馬術連盟の三チームが対抗して行う、障害馬術の競技会だ。


 基礎訓練が主であった一年の、総仕上げのつもりでいろ、と小早川から説明があった。


「だから、その前に顔合わせに来たんすか」


「行くかどうかは、正士郎と会ってから決めるつもりだった。妻には返事を待ってもらっている。

 いや、そもそも会いにくるべきではなかったのかもしれない。大矢君、悪いが、急に押しかけてすまなかったと、伝えてくれるかな。私は、これで失礼するよ」


 男はたどたどしい足取りで、祭の喧騒の中に消えていった。


「あの人って」

 あいはまったく状況が呑み込めていなかった。


「正士郎の親父だよ」


「それは会話でなんとなくわかったけど」


 正士郎の父親は、妻、つまり正士郎の母と別居しているような口ぶりだった。


 正士郎は、尋常ではないほど冷え切った眼差しを思い出す。


 なにか、わけがあるのだろう。大矢は事情を知っていそうだったが、説明してはくれなかった。


 木馬試乗コーナーの同期と、郷土祭後の撤収方法を再確認した。


 正士郎と少し話していくという大矢を残し、あいは先に持ち場に戻った。


 小早川が乗馬の補助に当たっている子どもが一人いるだけで、他の客はいなかった。


 美冬の甥、聡太が、落合から飼葉を受け取り、ポニーに与えていた。


「美冬さん、そんなところで寝てると、風邪ひいちゃいますよ」

 飲み干した何本ものビール瓶と一緒に、美冬は草の上に転がっていびきをたてていた。めくれた服の裾の隙間から、臍が顕になっている。


 あいは声をかけながら、美冬の服の乱れを直した。


 ポニーにじゃれつかれ、聡太のはしゃぐ声が聞こえてきた。


 聡太があいに気づき、手を振ってくる。

 手を振り返しながら、あいは正士郎のことが気掛かりでならなかった。


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