友達と試練 ⑧
「お願い、力を貸して」
栗毛のサラブレッドが蹄で力強く地面を搔き、あいの求めに応えた。
心に乱れはなかった。
不思議なほどに澄み切っている。
根拠はないが、零のおかげなのかもしれない。
零に頼んで、左腕に鞭を打ってもらった。それで、どこか吹っ切れた気がする。
打たれた数日は赤く腫れていたが、もう腕にはなんの跡も残っていない。
跡は消えたが、なにかが心に刻まれたのか。
あいは騎乗姿勢で待った。空はいまにも降り出しそうな気配だ。
赤い旗が、振り下ろされた。
鞭を持つ手とは逆の手で、合図を送った。馬が思い切りよくスタートを切った。
すぐ、最初のコーナ―に差しかかる。
「しまった」
最短距離を取ろうとするあまり、内側に寄せすぎた。
馬の脚が詰まり、第一コーナー直後の第二コーナーで失速した。僅かなロスでも短距離では致命的だ。
脚力を頼りに、直線で取り戻すしかない。
手綱で再度加速するよう伝えた。しかし興奮して気づかないのか、馬は反応しない。
完璧なコース取りで完走していた小早川のタイムは超えるには、直線で脚を使いきるつもりで巻き返すしかない。
瞬く間に次のコーナーが迫ってくる。ぐずぐずしてはいられない。勝機が、掬い上げた砂のように指の隙間からこぼれ落ちていく。
負ける。やっと見つけた生き場所を失う。
そんなの、嫌だっ。
左腕の、零に鞭を打たせた箇所が、かっと熱くなった。
馬の尻に鞭を打つ。馬の意識が戻ったのを感じた。
手綱は扱き続けている。猛然と疾駆する馬の背に食らいついた。勝つ。信じるしかなかった。
第三コーナー。そのまま突っこんだ。外に振られそうになる。だが、少しでも身体が振られれば、馬の走りの妨げとなる。足の親指の付け根の一点に全身の力を集約し、支えた。
詰まらずに抜けた。
水滴が頬にあたり、弾ける。
雨。
馬は気づいていない。あいも、構わなかった。
全身が熱い。血が滾っている。雨があたったそばから蒸発している気すらした。
駈ける悦びを漲らせ、躍動している。馬と一つになって駈けている。いや、飛んでいるのか。
いつまでもこうしていたい、とあいは思った。
気づくと、ゴールラインを切っていた。
「頑張ったね、あい」
天道が歩み寄ってきた。
息が切れ、すぐにはものを考えられなかった。骨が軋み、全身の筋肉が悲鳴をあげている。
「タイムは、どう、なったんですか」
あいは馬の首を軽く叩いて労った。勝敗はどうあれ、馬はよくやってくれた。
降り出した雨は途端に強くなり、豪雨となっていた。昨日までの蒸し暑さが嘘のような、冷たい雨だ。
「一分十秒〇三。君の勝ちだ」
雨音がうるさいほどだが、はっきりと聞こえた。
この場所にいられる。
あいは馬上で拳を振り上げ、吼えていた。あいの咆哮が黒々とした雨雲を衝く。
◆
あいが馬の背で立ちあがり、拳を振るって雄叫びをあげるさまを、加奈恵は遠くから見ていた。
教官である小早川との勝負に、勝ったのか。
だとしたら、すごいことではないのか。
しかし、それよりも。
「あれが、あいなんか。ウチは、なんもわかっとらんかったんやな」
気が小さく、控えめで、勝負事には向かないのではないかと、心の中で勝手に決めつけていた。そして、弟妹らの面影を重ね、愛着を抱いていた。
知った気になって、ほんとうはあい本人のことなど、なにも見ていなかったのではないか。
そう思わざるを得ないほど、栗毛のサラブレッドとともに内走路を駈けきったあいの気迫は、すさまじかった。
隣で観戦していた正士郎は、いつの間にかいなくなっていた。
一緒になったのは偶然で、示し合わせていたわけではなかった。
あいの本気の騎乗を目の当たりにし、正士郎はどう感じたのか。衝撃を受けたのは、まず間違いない。
あいが、天道の手を借りて下馬していた。
加奈恵は先に寮へ戻り、寮母に断りを入れて風呂を沸かした。
しばらくして、あいが部屋に戻って来た。時間がかかったのは、馬の手入れをしていたからだろう。
「びしょ濡れやな。風呂沸かしてあるから、一緒に入ろうや」
「え、う、うん」
脱衣所で濡れた衣服を脱ぎ、かけ湯をして湯船に浸かった。あいが入っても大してこぼれない湯が、加奈恵が入ると盛大に溢れた。
二人で肩を並べると、あいがくすりと笑った。
「なんや?」
「ううん。久しぶりだな、と思って。加奈恵とお風呂に入るの」
「そういや、そうやな。最近あいはウチを避けまくっとったし」
「う、ごめんなさい」
「ええよ。ウチもへんに気ぃ使ってもうてた。ま、ここで仲直りしようや」
「うん。私も、同じこと考えてたんだ。加奈恵に先を越されちゃった」
「そうか、同じこと考えとったか」
大して広い浴槽ではなかった。二人で入ると窮屈なくらいだ。けれどあいも、一人では広いと感じていたのだろうか。
「例の勝負、勝ったんか?」
「うん、ぎりぎり」
「すごいやないか。小早川教官て、元中央騎手やろ」
「そうだけど、単純に短距離のタイムを競う勝負だったから。馬が互角なら、体重が軽い私の方が優位だったと思う」
「だとしても、や。見直した、とは違うな。目を醒まされた、っちゅうべきか」
「どういうこと?」
「あいも、ここに強いもんを持ってたんやな」
加奈恵は胸の谷間に親指を立てた。
「うひひ」
褒められ馴れてないのだろう。あいはちょっと不気味な照れ笑いをし、加奈恵から隠れるように湯船に潜った。
湯の中で笑い続けているのか、あぶくがぼこぼこと湧きあがってくる。
「なぁにやっとんねん。のぼせるで」
今まで自分が見てきたあいも、まやかしではない。
手がかかる妹のような一面もあれば、闘志をむき出しにする戦士のごとき一面もある。すべてひっくるめて、あいなのだ。
人にいろいろな顔があるなど、考えてみれば当然ではないか。
「いいなぁ」
声に出ていた。あまり意味もなく、呟きは、誰に聞かれるでもなく、湯煙に溶けて消える。
湯が心地よかった。
夏が終わろうとしているのだ、と加奈恵は思った。




