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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第九話
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友達と試練 ⑧

 「お願い、力を貸して」

 栗毛のサラブレッドが蹄で力強く地面を搔き、あいの求めに応えた。


 心に乱れはなかった。

 不思議なほどに澄み切っている。


 根拠はないが、零のおかげなのかもしれない。

 零に頼んで、左腕に鞭を打ってもらった。それで、どこか吹っ切れた気がする。


 打たれた数日は赤く腫れていたが、もう腕にはなんの跡も残っていない。

 跡は消えたが、なにかが心に刻まれたのか。


 あいは騎乗姿勢で待った。空はいまにも降り出しそうな気配だ。


 赤い旗が、振り下ろされた。


 鞭を持つ手とは逆の手で、合図を送った。馬が思い切りよくスタートを切った。


 すぐ、最初のコーナ―に差しかかる。


「しまった」

 最短距離を取ろうとするあまり、内側に寄せすぎた。

 馬の脚が詰まり、第一コーナー直後の第二コーナーで失速した。僅かなロスでも短距離では致命的だ。


 脚力を頼りに、直線で取り戻すしかない。


 手綱で再度加速するよう伝えた。しかし興奮して気づかないのか、馬は反応しない。

 完璧なコース取りで完走していた小早川のタイムは超えるには、直線で脚を使いきるつもりで巻き返すしかない。


 瞬く間に次のコーナーが迫ってくる。ぐずぐずしてはいられない。勝機が、掬い上げた砂のように指の隙間からこぼれ落ちていく。


 負ける。やっと見つけた生き場所を失う。


 そんなの、嫌だっ。


 左腕の、零に鞭を打たせた箇所が、かっと熱くなった。


 馬の尻に鞭を打つ。馬の意識が戻ったのを感じた。

 手綱は扱き続けている。猛然と疾駆する馬の背に食らいついた。勝つ。信じるしかなかった。


 第三コーナー。そのまま突っこんだ。外に振られそうになる。だが、少しでも身体が振られれば、馬の走りの妨げとなる。足の親指の付け根の一点に全身の力を集約し、支えた。


 詰まらずに抜けた。


 水滴が頬にあたり、弾ける。

 雨。

 馬は気づいていない。あいも、構わなかった。


 全身が熱い。血が滾っている。雨があたったそばから蒸発している気すらした。


 駈ける悦びを漲らせ、躍動している。馬と一つになって駈けている。いや、飛んでいるのか。


 いつまでもこうしていたい、とあいは思った。


 気づくと、ゴールラインを切っていた。


「頑張ったね、あい」

 天道が歩み寄ってきた。


 息が切れ、すぐにはものを考えられなかった。骨が軋み、全身の筋肉が悲鳴をあげている。


「タイムは、どう、なったんですか」

 あいは馬の首を軽く叩いて労った。勝敗はどうあれ、馬はよくやってくれた。


 降り出した雨は途端に強くなり、豪雨となっていた。昨日までの蒸し暑さが嘘のような、冷たい雨だ。


「一分十秒〇三。君の勝ちだ」

 雨音がうるさいほどだが、はっきりと聞こえた。


 この場所にいられる。


 あいは馬上で拳を振り上げ、吼えていた。あいの咆哮が黒々とした雨雲を衝く。

 


           ◆


 あいが馬の背で立ちあがり、拳を振るって雄叫びをあげるさまを、加奈恵は遠くから見ていた。


 教官である小早川との勝負に、勝ったのか。

 だとしたら、すごいことではないのか。


 しかし、それよりも。


「あれが、あい(、、)なんか。ウチは、なんもわかっとらんかったんやな」


 気が小さく、控えめで、勝負事には向かないのではないかと、心の中で勝手に決めつけていた。そして、弟妹らの面影を重ね、愛着を抱いていた。


 知った気になって、ほんとうはあい本人のことなど、なにも見ていなかったのではないか。


 そう思わざるを得ないほど、栗毛のサラブレッドとともに内走路を駈けきったあいの気迫は、すさまじかった。


 隣で観戦していた正士郎は、いつの間にかいなくなっていた。


 一緒になったのは偶然で、示し合わせていたわけではなかった。


 あいの本気の騎乗を目の当たりにし、正士郎はどう感じたのか。衝撃を受けたのは、まず間違いない。


 あいが、天道の手を借りて下馬していた。


 加奈恵は先に寮へ戻り、寮母に断りを入れて風呂を沸かした。


 しばらくして、あいが部屋に戻って来た。時間がかかったのは、馬の手入れをしていたからだろう。


「びしょ濡れやな。風呂沸かしてあるから、一緒に入ろうや」

「え、う、うん」


 脱衣所で濡れた衣服を脱ぎ、かけ湯をして湯船に浸かった。あいが入っても大してこぼれない湯が、加奈恵が入ると盛大に溢れた。


 二人で肩を並べると、あいがくすりと笑った。


「なんや?」


「ううん。久しぶりだな、と思って。加奈恵とお風呂に入るの」


「そういや、そうやな。最近あいはウチを避けまくっとったし」


「う、ごめんなさい」


「ええよ。ウチもへんに気ぃ使ってもうてた。ま、ここで仲直りしようや」


「うん。私も、同じこと考えてたんだ。加奈恵に先を越されちゃった」


「そうか、同じこと考えとったか」 


 大して広い浴槽ではなかった。二人で入ると窮屈なくらいだ。けれどあいも、一人では広いと感じていたのだろうか。


「例の勝負、勝ったんか?」


「うん、ぎりぎり」


「すごいやないか。小早川教官て、元中央騎手やろ」


「そうだけど、単純に短距離のタイムを競う勝負だったから。馬が互角なら、体重が軽い私の方が優位だったと思う」


「だとしても、や。見直した、とは違うな。目を醒まされた、っちゅうべきか」


「どういうこと?」


「あいも、ここに強いもんを持ってたんやな」

 加奈恵は胸の谷間に親指を立てた。


「うひひ」 


 褒められ馴れてないのだろう。あいはちょっと不気味な照れ笑いをし、加奈恵から隠れるように湯船に潜った。


 湯の中で笑い続けているのか、あぶくがぼこぼこと湧きあがってくる。


「なぁにやっとんねん。のぼせるで」


 今まで自分が見てきたあいも、まやかしではない。

 手がかかる妹のような一面もあれば、闘志をむき出しにする戦士のごとき一面もある。すべてひっくるめて、あいなのだ。


 人にいろいろな顔があるなど、考えてみれば当然ではないか。


「いいなぁ」

  声に出ていた。あまり意味もなく、呟きは、誰に聞かれるでもなく、湯煙に溶けて消える。


 湯が心地よかった。


 夏が終わろうとしているのだ、と加奈恵は思った。


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