友達と試練 ⑦
曇天だった。
昨日までの蒸し暑さが嘘のように、冷たい空気が流れていた。
小早川は、馬に跨った。
今年十歳になる、元競走馬の牡馬だ。GⅠでは未勝利に終わったものの、全体ではそれなりの勝ち星を挙げた馬だ。
小早川の後にあいが騎乗する馬も、戦績は似たようなものだ。
馬の差をなくすために、天道が過去の出走記録や血統を調べて決めた二頭で、距離の適性を踏まえても、納得できる選出だった。
内走路のスタート地点で馬を止めた。
天道が、旗を持ってコース横に立った。
奥の馬場では、あいが馬とウォームアップをはじめている。
どこから聞きつけたのか、諏訪正士郎と厩務員課程生の女子が観戦に来ていた。
厩務員課程生の名前までは憶えていない。調教スタンド前に、二人で並んで立つと、女子の方が随分大柄に見える。
たぶんあいは二人には気づいていないだろう。
今回のことが露見すると、教官としてかなり危うい立場だが、この日を待ちわびていたという気もする。
「準備オッケー?」
天道は、すでにこの勝負の結果が見えているかのような笑みを浮かべている。
あいが負ければ、天道は御園トレーニングセンターにある逍遥馬道を、逆立ちで百往復すると約束した。
対する小早川も、負ければ学校の外走路を逆立ちで百周すると応じた。
馬鹿げた賭けである。そんな条件がなくとも、手を抜く気はなかった。直接の相手はあいだが、気持ちのうえでは天道との対決だ。
性格は正反対で、昔からよく意見が対立した。
天道も小早川も、お互い譲ることを知らず、その都度トランプや腕相撲など他愛ない勝負をして白黒つけてきた。
なにが原因で揉めたのかは、ほとんど思い出せない。つまり、その程度のくだらないことだったのだろう。
「小早川?」
「さっさとはじめるぞ」
三学年は座学を受けている頃だった。
主任教官である落合の休みと、一学年の休養日が重なる日が、ちょうど今日、この日だった。
小早川は鐙に足をかけ、競走姿勢をとった。
旗が振られる。
同時に手綱で合図した。馬に負荷のかからない重心の置き方。身体が覚えている。馬が駈け出す。出遅れはしなかった。
走路訓練で学生も乗る馬だ。
訓練での駈け方を見ていれば、馬の癖はある程度把握できる。
逸りがちな馬だ。放っておいても、序盤はどんどん加速しようとする。
内走路は千二百メートルしかない。脚を溜めることは考えず、馬の勢いに任せてよかった。
ただし、次々とコーナーがくる。第一から第二、第三から第四にかけては、コーナーを抜けた直後にコーナーが来るぐらいの感覚だ。そこが難所といえば言えた。
単走でタイムを競う以上、どれだけ失速せず、最短距離を取れるかが要となる。
第一コーナーを抜けた直後で、やや外に膨らむ進路をとった。
小早川は瞬時に鞭を持ち替え、風車鞭を遣った。内側へ切り込むように、第二コーナーを抜けた。
直線。次のコーナーを見据える。視界の手前で、馬首が垂れかかった。手綱を引くが、応えない。
飽きたな、お前。
内心で舌打ちをした。訓練でこういうことはなかった。
おそらく、周りに他の馬がいた方が闘争心が湧く性格なのだ。
小早川は手綱を素早く手繰り、小刻みに絞った。さらに膝を使い、自重で馬に発破をかけた。
萎えかけた馬が、気持ちを持ち直した感じがした。馬首が起き、前へ前へと引っ張っぱられる手ごたえが戻った。
速度を保ったまま最後のコーナーを回り、天道の前を駈け抜けた。
「よくやったぞ」
小早川は馬に声をかけた。走路内にある放牧場で下馬し、腹帯を解き、鞍を外してやった。馬は少しして息が整うと、草を食みはじめた。
鞍を担いで、天道のところまで歩いた。
角馬場でウォームアップをしていたあいとオハナが、走路に出てきていた。
天道がタイムを伝えてきた。
「そんなものか」
「現役時代を思い出して、懐かしい気分になったかい」
「なるか。こんな対決で」
「俺は、ちょっと思い出したぜ。日本ダービーで、ゴール直前まで競り合ったよな。で、鼻差で俺が勝った」
「自分に都合のいいことだけ思い出すのはやめろ。その前のオークスでは俺が勝っている。その年の秋の天皇賞でもな」
馬に恵まれるかどうか。そういう運も、騎手にはある。
「俺がいまでも現役で続けていたら、お前も引退はしていなかったのかな」
小早川は、隣の天道に目をやった。
天道はサングラス越しに、静かな眼差しをあいに向けている。
こんな顔をするようになったのか、と小早川は思った。
「自意識過剰も甚だしい。俺が引退して教育に回ったのは、俺の意思だ。お前のことなど関係ない」
「嫌よ嫌よもなんとやらってね」
「気色悪い冗談を言っていないで、藤刀に言葉の一つでもかけてやったらどうだ」
「いまはやめておくよ。集中してるみたいだ」
あいが馬上から馬の首を後ろから抱くように身体を寄り添わせていた。
耳元でなにか囁いているふうだったが、なにを言ったのかまでは聞きとれなかった。




