友達と試練 ⑥
水の中にいるように、息苦しかった。
これまでは、どんなに嫌なことがあっても、馬に乗っている間は忘れられた。
しかし、走路訓練ではそうもいかなかった。片耳にはイヤホンをし、常に教官からの指導が聞こえてくる。
訓練自体にはだいぶ慣れてきた。馬との相性にもよるが、教官から指定される一ハロンのタイムとの誤差を、二、三秒にまで縮められた。
内走路を一周する間の合計タイムで、誤差を十秒代に納められるようになりつつあるのは、あいの他だと、正士郎と大矢の二人だ。
他の同期は、まだかなり苦戦している。
馬が全力で駈けられる距離は限られている。それはサラブレッドだろうが変わらない。馬のペース配分を考えるうえで、スピードをコントロールする技術は絶対不可欠だった。
そこで活きてくるのが、基礎馬術で散々反復練習した、馬を御するノウハウだった。
基礎が蔑ろにならないようにするためか、走路訓練の合間にも、馬術訓練をする時間が設けられていた。そこでは、サファイアやオハナに乗れる。
その時間は唯一、息苦しさから解放された。
三日間の走路訓練のあと、馬術訓練を一日挟み、休養日がやってきた。
あいは、実技で使用する鞭を持ち、体育館のトレーニングルームへ行った。
電動の木馬が空いていた。
跨り、肩にあたる位置についているボタンで電源を入れた。強度を調節し、疾駆している馬と同等の稼働状態にした。
体勢を保持し、手綱を扱く。木馬の尻に鞭を打つ。生身の馬でなければ他愛ない動きだ。
鞭の扱いは特別教えられていない。基本的な握り方、持ち替え方、扱う上でのルールを教わっただけだ。
鞭の使い方に巧拙はない、と主任教官の落合は言っていた。
鞭は単なる合図で、打てば馬が早く走るわけではなかった。
適切な場面で、適切な合図として使えるかどうか。それだけなのだ。
ただ、それだけのことが、あいはどうしてもできなかった。
持ち替えや、利き手とは反対の手で同等に扱うことには慣れてきた。
技能ではなく、心の問題だった。
木馬を停め、降りて一息ついた。
トレーニングルームの壁にかかったカレンダーに目をやった。
「あと十日」
天道から連絡があり、小早川と勝負する日取りが決められた。十日後だ。
当日に騎乗する馬も伝えられた。あいが乗る馬は、落馬事故から復帰した直後に乗った、マイル向きの栗毛のサラブレットだ。小早川の方も、同等の力量の馬が選ばれた。
馬の差はほぼない。斤量ということを考えると、体重が軽いあいの方に分がある。
勝負といってもレースをするわけではなく、したがってポジション争いといった駆け引きもない。純粋なスピード勝負では、斤量の有利は大きいとも思えた。
しかし相手は元中央騎手の小早川だ。そして、負けたら退学になるかもしれない。
考えると、プレッシャーで息が詰まりそうだった。
だから、考えるのはやめた。
なぜそんな勝負をしなければいけないのか。それも、もう考えなかった。
自分が騎手になるために必要だと天道が判断し、提案してきたことなのだ。
そして、この試練を受けると決断したのは、他でもない自分自身である。
決めた以上、やり通すしかない。あいは自分に言い聞かせた。
加奈恵が、正士郎から勝負の件を中途半端に聞いたらしく、仔細を尋ねられた。
小早川とタイムを競うことは打ち明けたが、退学の条件までは話せなかった。
言えば、加奈恵は学校に直談判ぐらいはしそうだった。
おそらく、今回の勝負は天道と小早川の間で話し合われたことで、学校側は関知していない。公けになれば、勝負自体がなくなるかもしれなかった。
心の中でそれを望む気持ちも、あいは捨て去った。逃げ道はなくていい。
いまはともかく、鞭を使えるようになることだった。
勝負の如何に関わらず、騎手になるには克服しなければならない課題には違いない。
鞭を必要以上に忌避してしまうのは、鞭を食らう感触を知らないからではないのか、とあいは考えていた。
鞭で打たれる痛みを知るには、鞭を己で食らってみるしか方法はない。だが、自分で自分を本気で打とうとしても、どこかで手加減してしまう。
だからといって、誰に頼めるものでもない。
「零ちゃんなら」
ふと脳裏に浮かんだ。零なら、あるいは引き受けてくれるのではないか。
「呼んだ?」
「びゃあっ」
にゅ、と黒い塊が背後から肩口に出てきて、あいは思わず奇声をあげた。
「ふふ、びゃあ、だって」
零は艶のある黒髪を揺らして笑った。
「零ちゃん」
「会いに来ちゃった」
「嬉しいけど、どうして」
「どうして? 会いたかった、から?」
なぜか自分でも首を傾げる零。
「そ、そうなんだ」
「ね、それで、あたしなら、ってなんのこと?」
零がずいと身を寄せ覗きこんでくる。くりっとした瞳は、底知れない深い色をしている。
あいは、どぎまぎとしながらも、馬に鞭を使えない悩みを話した。
「なるほど、それで、女帝なんて呼ばれているあたしなら、鞭で打ってくれるんじゃないかと思いついたのね」
「そういえば、そんな綽名だったね。うん。どう、かな」
「いいよ、それであいが前に進めるなら、手伝ってあげる」
零はいたずらっぽく笑い、あいの手から鞭を受け取った。
「やっぱり、あいって面白い。こんなことで悩んで、しかも、自分で鞭を食らってみようだなんて。普通、そんな発想にならないわ」
「そうかな」
「そうだよ」
言って、零は鞭を順手に構えた。鞭の尖端を下にした構え方を、競馬では順手と言う。
「どこを打ったらいい?」
「馬と同じふうに打つなら、お尻とか?」
「それはさすがにあたしが嫌ね」
「じゃあ、腕、とか」
「あいがいいなら構わないわ」
「じゃあ、腕、で」
あいは左腕を零の方に差し出した。
「打ち損じるなんてヘマはしないけど、危ないから、一応顔は反対を向いててもらえる?」
「わかった」
「じゃ、いくよ」
歯を食いしばり、身を固くした。
「えいや」
鞭が鋭くしなる。衝撃が、腕から全身へと駆け巡った。鞭で打たれた腕の箇所が、焼けるように熱い。
あいがたまらず上げた叫びを聞きつけ、人が飛び込んできた。
「なにごとやっ」
加奈恵だ。トレーニングウェアを着ているので、あいを探していたわけではなく、偶然ここへ来たのだろう。
「何しとるんやっ、おまえぇっ」
状況を見てとると、加奈恵は真っ先に零の襟首に掴みかかった。零の身体が宙に浮く。
細身ではあっても五十キロ前後はあるであろう零を、加奈恵は片腕で易々と吊り上げる。
「あわわわ、まって加奈恵、私が頼んだの」
「なんやて?」
事情を説明すると、加奈恵は零を下ろして誤解したことを詫びた。だが、納得はしていなさそうだ。
「腕、腫れとるやないか」
「う、うん」
「大丈夫よ。力任せに叩いたのではないから、筋肉は傷めてない。訓練には支障ないわ」
「そういう問題ちゃうやろ」
平然と言う零に、加奈恵は低く言った。
「医務室で氷嚢もらってくる。勘違いで掴みかかってもうたんは、悪かったけどな、こんなこと引き受けるあんたも、大概やぞ」
加奈恵は溜息をついてトレーニングルームを出て行った。
「あの子、すごい力持ちね。びっくりしちゃった」
零は、自分に浴びせられた批判など微塵も気にかけていなかった。
どころか、スリル満点なアトラクションを楽しんだかのように無邪気にはしゃぐのだった。




