友達と試練 ⑤
歴代の卒業生が植えた記念樹が濡れていた。
夜闇の中に、霧のような雨が舞っている。
正士郎は、傘をさして厩舎へ行った。
就寝前の馬房点検は、当番制で、学生が持ち回りで担当している。
厩舎の前まで行くと、扉の隙間から明かりが漏れており、人の声が聞こえた。
「もう消灯時間だ」
オハナの馬房前にいたあいに、声をかけた。
振り返ったあいは、泣いた跡こそないが、ひどく悄然としていた。
あいが小さく頷き、出て行こうとすると、オハナがやや甲高い嘶きをあげた。
隣の馬房では、サファイアジャケットが藁の上に寝そべっている。耳は立っており、起きてはいそうだった。
「天道調教師に、なにか言われたの?」
放っておけず、尋ねた。
「なんで」
あいがびくりと肩を揺らした。
「天道調教師が来校した日以来、様子がおかしいから」
いや、夏季合宿のあとから、あいはどこか切迫していた。
もしかしたら、合宿の夜に加奈恵に言ったことが、どうかして本人に伝わったのかもしれないと、思わなくはなかった。
貶めるつもりはなかったが、思えば迂闊な発言だった。加奈恵は寮ではあいと同室で、友人でもあるのだ。
しかし、あいが正士郎になにか言ってくることはなかった。
その矢先、あいは訓練中に落馬した。自主練習のオーバーワークが原因だったとは、後になって教官から知らされた。
療養期間を経て訓練に復帰してきたあいは、いくらか平静を取り戻していた、という気がする。
それが崩れたのは、なんの前触れもなく来校した天道駿に、話があると連れ出されてからだ。
騎手時代に華々しい戦績を挙げ、惜しまれつつも病により引退をやむなくされた。
そんな天道は、つい先日調教師に就任し、再び注目を集める存在になった。
大矢などは天道に強い憧れを抱いていて、本人に会えて大層興奮していた。
あれから五日が経った。
「小早川教官と内走路のタイムを競って、負けたら退学って」
厩舎の入口で立ち竦み、言うのを躊躇っていたあいが、ぽつりと言った。
正士郎は耳を疑い、思わず聞き返した。
あいはオウムのように同じことを言った。
「馬鹿な」
ありえない話だ。そんな冗談を鵜呑みにしているあいもどうかしている、と正士郎は思った。
「天道調教師にからかわれただけだろう。にしても、悪趣味な冗談だ」
「天道さんは、冗談やいじわるでそんなこと言わないもん」
あいがむっとして抗弁した。
退学云々は信じがたいが、小早川と勝負をするというのは、嘘ではないようだ。
天道と小早川は同期だった。だとしても、天道が小早川を巻き込み、なぜそんなことをあいにさせようとしているのか、わからない。
「君は、天道調教師と以前から知り合いなのか?」
「天道さんは、私に、騎手になれるって言ってくれたの」
「どういうことかな」
要領を得ない返事への苛立ちは肚の内に収めた。
あいは、中学二年の夏に天道と出会い、後押しされるかたちで競馬学校へ入学を果たすまでの経緯を、順を追って話した。
「なるほどね。天道調教師は君の恩人で、コーチのような存在だったわけだ」
平静を装って言ったが、正士郎は内心、天道に特別目をかけられているあいへの嫉妬を抑えられなかった。
さらに、二人の出会いのきっかけとなった牧場のオーナー、山南も、只者ではなかった。
山南も、天道や小早川と同期の、元中央騎手だ。
現役時代は目立った活躍はなかったものの、引退後は馬術連盟の役員に就任し、各地の乗馬クラブを巡って子どもに指導したりと、馬事文化の普及に熱心な人物だった。
競馬界、馬術界の橋渡し的存在とも言われている。
あいが馬郷という牧場で乗馬を覚えたという話は、人伝に正士郎の耳にも入っていたが、そこが山南の営む牧場だとまでは知らなかった。
あい自身、山南の素性を知らないのかもしれない。
人に恵まれ過ぎている。
そして、本人がそのことに無自覚なのが、腹立たしかった。
同時に、天道が見込んだ才能がどれほどのものか確かめたい、という気持ちが、ふつふつと湧きあがってきた。
教官と勝負し、負けたら退学など、やはりあり得ない。そうあいを説得するのは簡単だ。しかし、あいの本気を見るいい機会なのかもしれない。
天道の思惑も、その辺りにあるのか。
「話はわかったよ。大したことはできないだろうけど、なにかあったらいつでも協力するよ」
「正士郎君、ありがとう」
表情を和らげるあいに、鼻白んだ気分になりながら、馬房点検を済ませた。
「まだ寮に戻らない?」
「うん、もう少しだけ、居ていいかな」
「なら、最後に消灯だけは忘れないでくれよ」
あいを置いて先に寮に戻った。
男子寮に戻る途中、女子寮の入口に、木村加奈恵が立っているのに気づいた。
加奈恵も正士郎に気づき、呼び止められた。
「な、あいがどこにおるか知らん?」
「藤刀さんなら、厩舎にいたよ。もう帰ってくるさ」
「そうか」
加奈恵が安堵の色を浮かべる。またひそかに過度なトレーニングをしているのではと、心配していたのだろう。
「そういえば、君はあの勝負の話、どう思ってるんだ? まさか君まで本気にしているわけじゃないよな」
ふと気になって、正士郎は加奈恵に尋ねた。
加奈恵まで非常識な勝負の話を鵜呑みにしているとは考えづらいが、性格からして、あいが理不尽な条件をけしかけられていると知ったら、黙っていなさそうだ。
「勝負? なんのこっちゃ」
「藤刀さんから、なにも聞いてないのか?」
「ぐ、色々あんねん」
「喧嘩でもしたのか。くだらない」
「うっさいわ。というか、ウチとあいが気まずなっとんは、半分以上お前のせいやぞ。お前があの夜いらんこと言うたせいでなぁ」
「それは悪かったね。早く仲直りできることを願っておくよ」
「こいつ、ほんまどついたろうか」
加奈恵が拳骨を握り締め肩を戦慄かせる。
「それでいいじゃないか」
「あぁ?」
「変に気を遣うより、そっちの方が君らしい。藤刀さんは、少し世間ずれしているところがあるし、伝えたいことがあるなら、直球じゃないと彼女には伝わらなそうだ」
加奈恵は少し考えるように黙り、はっと我に返って正士郎を睨んだ。
「なんも知らんくせに、余計なお世話や」
「案外、君が不器用だってことは、知っているつもりだけどな」
「ぐぬぬ」
これ以上言うと、ほんとうに拳が飛んできそうだったので、正士郎はそそくさと女子寮の前をあとにした。




