友達と試練 ④
調教スタンドの三階にある、小会議室に入った。
競馬学校に入学し、あいの世界は格段に広がった。
苦楽を共にする同期の面々や、一期上の志摩という二年の先輩、世話をしている二頭の馬。厩務員課程生の友人もできたという。
寮で同室だというその友人とは、いまはぎくしゃくしているようだが、どうにか仲直りしたいと考えているのは、口ぶりで伝わってきた。
人付き合いから目を背け、馬郷で綾に慰められていただけの少女はもういない。
「頑張ってるね、あい。学校の課業だけじゃなく、いろいろさ」
天道は、椅子を並べて座るあいに微笑みかけた。
「馬は、人の心がわかる。僕が世話になった人の持論でね。心は偽れない。それだけに、心の在り様が馬の走りにも影響する」
「ありよう、ですか。あんまり自信ないです」
「あいはそのままでいいさ。苦しんだり、悲しんだり、楽しんだり」
つまり、生きるということだった。
毎日を生ききっているか。
ぎりぎりのところでの勝負では、その人間の本質がむき出しになる。
「そういえば、待ち合わせしてる人って誰なんですか」
まだ話したりなさそうなあいが、思い出したように訊いてきた。
「ん、ちょうど来たみたいだ」
会議室のドアが開き、小早川が入って来た。
あいが身を固くする。
「分厚いファイルだね。なにかの資料?」
天道は小早川が脇に抱えているファイルに目をやった。A4サイズで、辞書ほどの厚さがある。
「学生の訓練状況を俺なりにまとめたものだ」
「へぇ、学生全員のかい。どうりで分厚いわけだ」
「これは、一学年のだ」
小早川は壁にかかった時計を一瞥し、時間を気にする素振りをした。
厩舎作業終わりのあいを連れ出している。昼食までの合間で、あまり時間はない。
訓練後に馬と水を浴びて濡れていたあいの服は、ここへ来るまでにほとんど乾いている。
「待ち合わせって、小早川先生とだったんですね」
「うん、そう」
「あの、私もいていいんですか?」
「もちろん。言ったろ、今日はあいに話があって来たんだ」
天道はサングラスを外し、シャツの胸ポケットに収った。
「あい、小早川とレースをしてくれないか?」
「へ?」
「と言っても、走路を単騎で回るだけで、併せの訓練もしていないのに、本番さながらのレースはやらせられない。そのへんは、工夫しようと思ってる」
あいと小早川で、それぞれ内走路を一周し、そのタイムを競う。
レースというよりは、モータースポーツのジムカーナのような勝負になるのか。
天道が説明する間、あいは呆然としていた。
「あとは、馬の差はなるべくない方がいいな」
「あの、ちょっと待ってください。急すぎて、なにがなにやら」
「おっと、ごめんごめん」
「なんで、そんなことを」
「私が、お前の適正を疑問視しているからだ」
屹立としていて小早川が、困惑するあいの質問を引き取って答えた。
「え」
「この勝負で納得できる結果が得られなければ、今一度在学資格を見直させてもらう」
「そ、それって、負けたら退学ってことですか」
あいが青ざめた表情になり、天道に助けを求めるように振り返る。
「やるかい、あい?」
「そんな、天道さんは、私が勝てると思ってるんですか」
「じゃなきゃ、こんな提案はしてないよ。小早川は、君が馬を追い込めるのかを確かめたいんだそうだ」
「それは」
あいが口籠る。走路訓練を開始し、レースのビジョンは以前より明確になっているはずだ。
「本来なら、厩舎実習でそういう心構えは教えていくものだけど、ま、遅かれ早かれ通る道なら、早いほうがいいか、と思ってね」
「やらなかったら、どうなるんですか」
「なにも変わらない。それだけだよ」
あいは、押し黙った。
時計の針が進んでいく。
小早川がなにか言おうとするのを、天道は目で制した。
闘うのはあいだ。だから、あいが決めるべきだった。
「……やります」
「いいのかい、あい」
「適正がないって、言われたの、はじめてじゃないんです。悔しい、から。逃げたら、なにも変えられないなら、逃げたくないです」
「決まりだね。日取りなんかを決めたいけど、もう昼食の時間だ。また改めて連絡するよ」
「わかり、ました」
あいは天道と視線を交わすことなく、小早川に一礼し、部屋を出て行った。
「馬鹿げたことを、本気でやるのだな」
「なにを今さら。その馬鹿げたことに、お前も乗っかってるんだぜ?」
「教育者としてまっとうであろうとしてきた。だが、俺も人間だ」
二人になり、小早川の口調が砕ける。天道も、古い馴染み以外には僕を使う。
「人間が本来、まっとうじゃないみたいに言うね」
天道は、まっとうであろうなどと、心がけたこともなかった。
自分を慕う若者を谷に落とすことも平然とする、酷薄なところがある。そういう性格も含めて、自分だと割り切っている。
あいは、自分を恨んでいるかもしれない。それならそれでいい。あいをトップジョッキーに導く。自分の役目はそれだけで、慕われているかどうかは問題ではない。
「さてと、俺らの間でも、なにか賭けるか」
「賭けだと」
「本気にさせるためとは言え、あいに退学をもち出したんだ。俺らは俺らで、相応の代償を賭けなきゃ公平じゃないだろ」
「いいだろう、なら、俺が負けたらこの学校の外走路を、逆立ちで百周しよう」
「いいね。なら俺はトレセンの逍遥馬道で同じことをしてやるよ。あいが負けたらね」
逍遥馬場を往復すれば、外走路一周と同じくらいの距離になるはずだ。
「本気で勝てると信じているのだな」
「当然」
小早川が教育現場に回っても、現役時のフィジカルを維持しているのは、身体つきで一目瞭然だった。
現役と遜色ない小早川が相手だからこそ、勝負の意味もある。
重賞で競ったことも一、二度ではなかった。同期であり、ライバルだった。戦友と言ってもいい。
だからだろうか。
あいに力をつけさせる目的とは別に、小早川にあいを認めさせたいとも考えていた。
身勝手な動機かもしれないが、どちらも天道の本心だった。




