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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第九話
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友達と試練 ④

 調教スタンドの三階にある、小会議室に入った。


 競馬学校に入学し、あいの世界は格段に広がった。

 苦楽を共にする同期の面々や、一期上の志摩という二年の先輩、世話をしている二頭の馬。厩務員課程生の友人もできたという。


 寮で同室だというその友人とは、いまはぎくしゃくしているようだが、どうにか仲直りしたいと考えているのは、口ぶりで伝わってきた。


 人付き合いから目を背け、馬郷うまごうで綾に慰められていただけの少女はもういない。


「頑張ってるね、あい。学校の課業だけじゃなく、いろいろさ」

 天道は、椅子を並べて座るあいに微笑みかけた。


「馬は、人の心がわかる。僕が世話になった人の持論でね。心は偽れない。それだけに、心の在り様が馬の走りにも影響する」


「ありよう、ですか。あんまり自信ないです」


「あいはそのままでいいさ。苦しんだり、悲しんだり、楽しんだり」


 つまり、生きるということだった。

 毎日を生ききっているか。

 ぎりぎりのところでの勝負では、その人間の本質がむき出しになる。


「そういえば、待ち合わせしてる人って誰なんですか」

 まだ話したりなさそうなあいが、思い出したように訊いてきた。


「ん、ちょうど来たみたいだ」

 会議室のドアが開き、小早川が入って来た。


 あいが身を固くする。


「分厚いファイルだね。なにかの資料?」

 天道は小早川が脇に抱えているファイルに目をやった。A4サイズで、辞書ほどの厚さがある。


「学生の訓練状況を俺なりにまとめたものだ」


「へぇ、学生全員のかい。どうりで分厚いわけだ」


「これは、一学年のだ」

 小早川は壁にかかった時計を一瞥し、時間を気にする素振りをした。


 厩舎作業終わりのあいを連れ出している。昼食までの合間で、あまり時間はない。


 訓練後に馬と水を浴びて濡れていたあいの服は、ここへ来るまでにほとんど乾いている。


「待ち合わせって、小早川先生とだったんですね」


「うん、そう」


「あの、私もいていいんですか?」


「もちろん。言ったろ、今日はあいに話があって来たんだ」

 天道はサングラスを外し、シャツの胸ポケットにしまった。


「あい、小早川とレースをしてくれないか?」


「へ?」


「と言っても、走路を単騎で回るだけで、あわせの訓練もしていないのに、本番さながらのレースはやらせられない。そのへんは、工夫しようと思ってる」


 あいと小早川で、それぞれ内走路を一周し、そのタイムを競う。


 レースというよりは、モータースポーツのジムカーナのような勝負になるのか。


 天道が説明する間、あいは呆然としていた。


「あとは、馬の差はなるべくない方がいいな」


「あの、ちょっと待ってください。急すぎて、なにがなにやら」


「おっと、ごめんごめん」


「なんで、そんなことを」


「私が、お前の適正を疑問視しているからだ」


 屹立としていて小早川が、困惑するあいの質問を引き取って答えた。


「え」


「この勝負で納得できる結果が得られなければ、今一度在学資格を見直させてもらう」


「そ、それって、負けたら退学ってことですか」

 あいが青ざめた表情になり、天道に助けを求めるように振り返る。


「やるかい、あい?」


「そんな、天道さんは、私が勝てると思ってるんですか」


「じゃなきゃ、こんな提案はしてないよ。小早川は、君が馬を追い込めるのかを確かめたいんだそうだ」


「それは」

 あいが口籠る。走路訓練を開始し、レースのビジョンは以前より明確になっているはずだ。


「本来なら、厩舎実習でそういう心構えは教えていくものだけど、ま、遅かれ早かれ通る道なら、早いほうがいいか、と思ってね」


「やらなかったら、どうなるんですか」


「なにも変わらない。それだけだよ」

 あいは、押し黙った。


 時計の針が進んでいく。


 小早川がなにか言おうとするのを、天道は目で制した。

 闘うのはあいだ。だから、あいが決めるべきだった。


「……やります」


「いいのかい、あい」


「適正がないって、言われたの、はじめてじゃないんです。悔しい、から。逃げたら、なにも変えられないなら、逃げたくないです」


「決まりだね。日取りなんかを決めたいけど、もう昼食の時間だ。また改めて連絡するよ」


「わかり、ました」


 あいは天道と視線を交わすことなく、小早川に一礼し、部屋を出て行った。


「馬鹿げたことを、本気でやるのだな」


「なにを今さら。その馬鹿げたことに、お前も乗っかってるんだぜ?」


「教育者としてまっとうであろうとしてきた。だが、俺も人間だ」

 二人になり、小早川の口調が砕ける。天道も、古い馴染み以外には僕を使う。


「人間が本来、まっとうじゃないみたいに言うね」

 天道は、まっとうであろうなどと、心がけたこともなかった。


 自分を慕う若者を谷に落とすことも平然とする、酷薄なところがある。そういう性格も含めて、自分だと割り切っている。


 あいは、自分を恨んでいるかもしれない。それならそれでいい。あいをトップジョッキーに導く。自分の役目はそれだけで、慕われているかどうかは問題ではない。


「さてと、俺らの間でも、なにか賭けるか」


「賭けだと」


「本気にさせるためとは言え、あいに退学をもち出したんだ。俺らは俺らで、相応の代償を賭けなきゃ公平フェアじゃないだろ」


「いいだろう、なら、俺が負けたらこの学校の外走路を、逆立ちで百周しよう」


「いいね。なら俺はトレセンの逍遥馬道しょうようばどうで同じことをしてやるよ。あいが負けたらね」


 逍遥馬場を往復すれば、外走路一周と同じくらいの距離になるはずだ。


「本気で勝てると信じているのだな」

「当然」


 小早川が教育現場に回っても、現役時のフィジカルを維持しているのは、身体つきで一目瞭然だった。


 現役と遜色ない小早川が相手だからこそ、勝負の意味もある。


 重賞で競ったことも一、二度ではなかった。同期であり、ライバルだった。戦友と言ってもいい。

 だからだろうか。


 あいに力をつけさせる目的とは別に、小早川にあいを認めさせたいとも考えていた。


 身勝手な動機かもしれないが、どちらも天道の本心だった。

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