友達と試練 ③
零が、中京記念に続き、大井、金沢のダートで立て続けに重賞制覇した。
零の活躍を見聞きするほど、焦燥に駆られた。
二週間が、ひと月、ふた月にも感じられた。
あいは、負傷した足に負担のかからない反射神経や動体視力のトレーニングに明け暮れた。
厩舎作業では、寝藁の交換などの力仕事は同期に代わってもらい、その分、馬房内の掃除や馬の手入れは丹念にやった。
身体を動かすこと自体は、筋力を落とさないために必要で、養護教諭からも止められてはいなかった。
二週間が経った。
医務室で診察を受け、訓練再開の許可が下りると、あいはすぐさまサファイアとオハナが待つ厩舎へ走った。
怪我が完治したと喜色満面に報告すると、馬房の柵越しに、サファイアが鼻息を吹きかけてきた。
やっと治ったか、といったふうだ。
隣の房のオハナは、柔らかい雰囲気を湛えている。
「二人とも、騎乗できない間、いっぱい話を聞いてくれてありがとう」
療養中、馬に乗れない分、サファイアとオハナとは、じつにさまざまなことを語った。
とりとめのない内容ばかりだったが、話している間は、切迫する気分を忘れられた。
サファイアもオハナも、じっとあいの言葉に耳を傾け、時折相槌を打つように耳や尾を揺らしたりした。
一方で加奈恵とはぎくしゃくとした関係が続いていた。
怪我と同様、そちらも時間が経てば解決するのか。わからなかった。これまで友達らしい友達はおらず、喧嘩をした経験もない。
加奈恵と顔を合わせるのが気まずく、就寝時間のぎりぎりまで厩舎にいて、部屋に戻ると一、二言だけ交わしてベッドに横たわる、という日々が続いている。
訓練漬けの日々では、気がかりがあっても疲れであっという間に眠れたが、療養中はなかなか寝付けなかった。
サファイアとオハナが柵から首を出し、黙り込むあいの様子を窺っていた。
二頭の鼻面を撫でてから、学科を受けるため本館へ向かった。
廊下で加奈恵と出くわした。
教本や筆記用具を手にしていて、加奈恵もこれから座学のようだ。
「そっちも座学か?」
「うん、今日は、マナー講座だって」
「はぁ、騎手課程はそんな授業もあるんかいな。大矢とか、そんなん苦手そうやな」
確かに、図体が大きく奔放な大矢が、名刺交換などしている姿は想像がつかない。
あいがくすりと笑うと、加奈恵はほっとしたように微かに息をついた。
「ほな、もう行くわ」
「う、うん。あ、加奈恵」
「なんや?」
すれ違った加奈恵が、足を止め振り返った。
「足、治ったよ。明日から実技訓練に出ていいって」
「おお、よかったなぁ。やっぱりあいは馬に乗っとるときが、一番活き活きしとるからな。せやけど、」
言いさして、加奈恵は緩く首を振った。
「加奈恵?」
「や、なんでもあらへん。頑張ってな」
ひらひらと手を振り、歩き去っていく加奈恵の背に、あいは寂しさを覚えた。
翌日は晴天だった。
ここ数日猛暑続きで、しばしば豪雨も降った。そういう日でも、覆馬場で基礎のおさらいや部班運動はできたが、訓練内容は限られた。
あいは二週間ぶりにサファイアに跨り、馬場に出た。
立ち合いの教官に、常歩と速歩を駆使して軽く駈け回ってみせた。すると、障害飛越の指示が出された。
中型の障害飛越を成功させ、あいは安堵の吐息を漏らした。
「うん、落馬による心身の後遺症はなさそうだな。あとは鐙の髙さを短くして、騎乗の感覚を取り戻せたら、今日中にでも走路訓練に合流しようか」
「はい」
追馬場に移り、鐙を調節して競争姿勢で周回した。
一時間ほどかけて、細かい動作を確認していった。
サファイアが走路で駈けるサラブレッドを気にしていた。
「サファイア」
呼びかけ、走りに意識を戻させた。
サファイアは、どうやら目の前に障害があった方が集中力が高まる性質らしかった。
もともと繊細な性格ではあった。
平場を駈けていると、その繊細さが、どうしても他の馬や環境に向いてしまうようだ。
障害があると、それだけに集中できる。
春に出会ったばかりの頃は、むしろ簡単な障害も怖がってなかなか挑戦できずにいた。
あれからあいと訓練を重ね、恐怖心は完全に克服していた。
障害馬術向きの馬。それが次第に見えてきた、サファイアの一面だった。
教官からの許可が出て、栗毛のサラブレッドが曳かれてきた。
あいがサラブレッドに乗り替えようとすると、サファイアが服の裾を食んできた。
「ごめんね、もう行かないと」
諭すように言うと、サファイアは渋々服の裾を離した。
栗毛の馬を曳いてきた厩務員課程の学生から申し送りを聞き、鞍に上がった。
追馬場で軽く數周してから、走路に出た。
前方に正士郎がいた。間隔をとっているから後脚の蹄で蹴り上げられた土を被る心配はない。
栗毛の馬が、砂を力強く蹴った。あいが合図するより先は加速しはじめた。
申し送りの通りだった。かかりがちな性格に加えてスタミナがさほどない。現役ではマイルレースを主戦場としていたという。
あいはあえて重心をずらし、栗毛の馬のリズムを崩した。栗毛の馬の気が削がれたのがわかった。
そこから立て直し、調教スタンドから指示されたペースに持っていく。
上がり三ハロンの指定タイムとの誤差は、十秒台に留められた。
それから馬を二度乗り替え、走路を八周もすると、調教スタンドから集合がかかった。
騎乗のまま走路から出て、第二厩舎へ戻った。
第二厩舎前では厩務員課程生がホースを使い放水していた。厩舎の屋根より低いところに虹がかかる。シャワーのように降り注ぐ水を、馬に乗ったまま浴びた。
加奈恵の姿を探したが、別の作業中なのか見当たらなかった。
あいは馬から降り、手綱を担当の厩務員課程生に返すと、身体を震わせて水飛沫を飛ばした。
「仔犬みてぇだな」
近くにいた大矢が笑い声をあげた。顔が日に灼けている分、歯の白さが際立って見えた。
あいも夏の間にずいぶんと肌が灼けた。
ただ訓練中はグローブをはめているので、手だけは色白のままだ。
第一厩舎の方へ行き、サファイアの馬体を洗ってやり、少量の塩を舐めさせ、桶に新しい水を汲んだ。
サファイアは顔を桶に突っこむようにして水を飲んでいる。
遠くの空で、雷が低く轟く音が聞こえてきた。頭上はまだ晴れているが、西の方角に厚い雨雲がでていた。
「あい」
空を見つめていると、後ろから名前を呼ばれた。
知っている声に、どきりとし、振り返った。
ポロシャツ姿の天道が、薄い色のサングラスをして立っていた。
「走路訓練、見させてもらったよ。競走姿勢がなかなか様になっていたじゃないか」
「天道さんっ、どうしてここに」
「あいと話したいことがあってね」
「私も、天道さんに話したいこと、いっぱいあるんです」
「なら、場所を移そうか。あいとは別に、人と待ち合わせもしていてね。そいつが来るまで、あいの話を聞かせてよ」
「はい。あ、サファイアを馬房に帰さなくちゃ」
「ふうん。その馬が前に電話で話していた、サファイアジャケットか」
天道はしげしげと観察する。水を飲み終えたばかりのサファイアは、天道の視線を鬱陶しそうにする。
「綺麗な毛並みだ。黒、いや、青毛なのかな。この目だとわからないな」
「あの、」
「ん、待ってるから急がなくていいよ」
あいは頷き、サファイアを馬房へ連れて行った。
少しして戻ると、大矢をはじめとした同期が、天道を囲んで盛り上がっていた。




