友達と試練 ②
走路訓練中に落馬したことが学校側から伝えられたらしく、その日の午後に母がやってきた。
あいは、寮の一階の共同リビングで母と会った。
先輩たちは午後の学科授業に出ていて、寮は静かだった。
加奈恵も、あいを寮まで送ると、厩務員課程の課業に戻っていった。
正士郎や大矢、同期の皆は、今頃体育館でフィジカルトレーニングに取り組んでいる最中だろう。
座学なら受けさせてもらえただろうが、あいは昼食後、自室での静養を言いつけられた。
「大きな怪我はしていないって説明されたけど、心配したわ」
「ごめんなさい」
「頑張りすぎちゃったのね。先生から聞いたわ」
あいが夜の自由時間や休養日まで自主トレーニングをしていた話は、教官にも知らされた。
もう怪我を押して訓練に出るというわけにはいかなかった。
そのつもりもない。
自分ひとりならいざ知らず、訓練中の事故は、馬の怪我にもつながりかねない。
そんな当然のことにも気が回らなくなるほど、周りが見えなくなっていたのだと、療養を言い渡されて痛感した。
「お父さんは、あなたがはじめて自分からやりたいと言ったことだから、最後まで応援すると決めているみたいだけど」
「お母さん?」
加奈恵の椅子を借りている母が、伏目がちに、急に話題を変えた。
目元に、小皺が増えている。家の脱衣所で、白いものが生えた髪を染める母の後ろ姿を、あいは急に思い出した。
「あなたが騎手になりたいと言い出して、どういう職業か、お母さんなりに調べたわ。お父さんとも話し合った。もちろん、私だってあいを応援したい」
母が顔を上げた。
「入学試験の面談では、親の心構えも見られるというから、覚悟はしたつもりだった。
でもね、やっぱり、いまも少し怖い。あいが大怪我をするかもしれない。もしかしたら、それより悪いことが、起こるかもしれないって」
「だ、大丈夫だよ」
過去に、レース中の落馬による死亡事故が、ないわけではなかった。
地方を含めても、その数は多くないが、絶対に自分の身には降りかからないと、断言することはできない。
あいは、大丈夫、を繰り返すことしかできなかった。
「ごめんね、こんなときに」
「ううん、私こそ、心配させてごめんなさい」
帰ってきてほしい。口には出さないが、母が心のどこかでそう願っているのだと、あいは感じとった。
家に帰る。学校を去る。つまり、いまのこの居場所を失う、ということだ。
母が帰り、部屋に一人になると、恐怖に似た感情が襲ってきた。
騎手になることは、あいが唯一見出した、生きる道だった。
すでにその道に踏み出し、歩みはじめている。
道を、生きる場所を、失いたくない。
恐怖にも似た、切実な思いだった。綾のためだけではないのだ。
部屋の窓から、西日が射しこんできた。
あいは夕方の厩舎作業から加わり、夕食のあと、寮に戻って入浴を済ませた。
脱衣所で、加奈恵と入れ違った。
「肩の傷、沁みんかったか」
「うん、平気」
落馬時に擦りむいた肩口の傷は、もう瘡蓋になっている。医務室で軽く消毒をしてもらっただけで、大して血も出ていなかった。
湯船に浸かった。
加奈恵がいないと、足が伸ばせた。いつものように、湯がざぁっと流れ出ることもなかった。
広いのに、狭い、とあいは思った。
部屋に戻り、ベッドに横になった。
二週間、実技訓練に出られない。その間も、同期はどんどん上達していく。
零も、つい先日、初の重賞で勝ち星を挙げていた。レースで騎乗していたのは、調教師に昇格した天道が調教した馬だ。
自分だけが取り残されていく。
あいはたまらず起き上がり、ベッドの下にしまっておいたボールを取り出した。
ボールには複雑な凹凸があり、弾ませると、不規則な跳ね方をする。それをキャッチする。動体視力と反射神経を鍛えるにはうってつけだった。
「ちょ、なにしてねん」
風呂から戻って来た加奈恵が、あいからボールを取り上げた。
「安静にしとけって先生に言われたやろ」
「このぐらい平気だよ。足には負担かからないし」
「せやけど、こんな狭い場所でやっとったら、危ないやろ」
「そう、だね。部屋だと加奈恵も迷惑だよね。トレーニングルームに行ってくる」
あいは言い、加奈恵の手にあるボールを取ろうとした。加奈恵が、避ける。
「今日はもう寝ようや。足が治るまで、動体視力なんかのトレーニングをするんはいいと思う。けど、明日からでええやろ」
「今日一日、なにもできてないから。せめて少しぐらい、なにかしないと」
「なにをそんな焦ってんのや、あい」
「焦ってないよ」
「焦っとる。いや、怯えとるんか。夏の合宿終わってから、なんやおかしいで」
加奈恵にまっすぐ見据えられ、あいは顔を背けた。
「なぁ、もしかしてあの夜、ウチと正士郎の話、聞いとったんか」
あいは、小さく頷いた。
察しがついていたのか、加奈恵は驚かなかった。
「あんなやつの言うこと、気にせんでええ。あいつかてまだ学生なんや。な、だから今日はもう休もうや」
加奈恵は妹を諭す姉のように、あいの肩に手を置いた。
その手を、振り払っていた。
ハッとして、加奈恵を見ると、加奈恵は瞠目していた。
「ご、ごめん」
「や、ウチの方こそ、すまん。知ったふうなこと言うてもうた。悪い癖やねん」
「加奈恵は、悪くないよ」
姉のように振舞う加奈恵には、何度も励まされてきた。
特に、綾と別れ、入学したばかりの頃は、加奈恵が同室で本当に心強かった。
だから、あい自身、戸惑っていた。
加奈恵に非はない。自分自身の気持ちの問題だ。そう頭で思いこもうとしても、割り切れない感情が、胸のあたりで渦巻いている。
こんなことは、はじめてだった。
「でも私は、加奈恵の妹じゃにゃいから」
言いたいこともわからないまま、言った。そして、言葉を噛んだ。
加奈恵は、きょとんとしていた。
「か、加奈恵の言う通り、今日はもう休んだ方がいいみたい」
あいはいたたまれず、そそくさとベッドに向かった。
横になった。下の階から、先輩が点けたのであろうテレビの音が、かすかに聞こえる。
「電気消すで。おやすみ」
感情を持て余すあいを責めるでもなく、加奈恵はいつもと同じ調子で言った。さらに自分が情けなくなった。
「おやすみ」
壁の方を向いたまま応えた。
部屋が暗くなった。




