友達と試練
オハナが物足りない顔をしていた。
馬場で軽く運動をさせてから、あいは厩務員課程の学生が連れてきた馬と乗り替えた。
学校が生育しているサラブレッドで、中間種のオハナと比べると尻のかたちが明らかに違った。
サファイアには、血統を辿るとサラブレッドの血が入っていた。
いままでも、なんとなくサファイアには他にはない瞬発力があると感じていたが、サラブレッドに乗るようになり、気になって調べてみたのだ。
血統というものを、知識では学んでいた。実際にサラブレッドに乗るようになり、連綿と続いてきた交配の蓄積を体感する日々だった。
あいがオハナやサファイアに乗る時間は減ったものの、加奈恵たち厩務員課程の学生が交代で駈けさせているので、運動不足になる心配はなかった。
替え馬の性格、脚の癖などか簡潔に伝えられた。
「オハナさん、またあとでね」
あいが声をかけると、オハナは鼻を鳴らした。納得はしてくれたのか、あいに替わって手綱を取った厩務員課程生の先導に大人しく従い、馬場へ戻って行った。
連れてこられたのは、元競走馬で、九歳の雄馬だ。職人のような風格があり、話しかけてもそっけない態度だ。
鐙に足を掛けようとして、右の足首が鈍く痛んだ。
表情に出るのを堪えて、走路に出た。
毎日の実技訓練と週に三、四回あるフィジカルトレーニングの他に、自分なりに考えたトレーニングメニューをこなしていた。
夏季合宿で正士郎に、騎手には不向きだ、と言われているのを、偶然聞いてしまった。
話し相手だった加奈恵も、否定はしなかった。
天道は、騎手になれると言ってくれた。
自分に騎手の適性があるのか、ないのか。考えるのはやめた。
正士郎に直接言われたわけでもなく、問い質すこともできなかった。
人より不器用なのは確かだった。持久力も足りていない。馬に乗れるというだけでは通用しない世界である。
不安を払拭するには、人の二倍、三倍、トレーニングに励むしかない。
自由時間や休養日をトレーニングに費やし、疲労は蓄積していった。
まず違和感を覚えたのは、左足だった。
その左足を庇っているうちに、右足首が痛み出した。三日前からだ。
ランニングや木馬を使った自主トレーニングは控えたものの、実技訓練は休みたくはなかった。休んだら、同期に置いていかれる気がする。
あいは足の痛みを押して鎧を踏み、競争姿勢をとった。
走路全体を見渡せる四階建ての調教スタンドから監督している教官から、ハロン何秒と指示がきた。
走路には一ハロンごとにセンサーが設置されており、馬の通過タイムが調教スタンドにあるディスプレイに表示される仕組みになっている。
馬の歩数を頭の中で刻み、教官の支持するスピードにすり合わせていくのは、容易ではない。
体格や駈け方の癖は馬それぞれだった。決まった歩数というものはなく、歩幅が違えば、当然一ハロンの歩数も変わってくる。
騎手の合図への理解度、反応、性格も、馬ごとにまちまちだ。
厩務員課程生の申し送りを念頭に置きつつ、駈けながら馬の特性を掴んでいく。
足の痛みは、さらにひどくなっていた。耳元のイヤホンから、教官の叱咤が聞こえる。
馬上で歯を食いしばり、なんとか一周してスタート位置に戻ってきた。指示とはほど遠いタイムだった。
「次は第二コーナーまでを一ハロン十五秒ペースで、そこから加速させて上がり三ハロンを五十秒切るつもりで行け」
片耳に着けたイヤホンから小早川の声がした。
やれる、とあいは信じた。
一周して、馬の性格や駈けている時の歩幅の取り方はなんとなくだが掴めた。
「もう一周、お願いね」
額に浮き出た脂汗を手の甲で拭い、あいは馬の肩を叩いた。
前を駈ける同期と十分な間隔をとって、スタートの指示が出た。手綱で合図を送った。馬が駈け出す。
他の馬との兼ね合いを考える必要はない。単走である。馬と呼吸を合わせることだけに集中した。
第二コーナーを回った。
ここから直線にかけて、さらに速く。手綱をしごいた。少し鈍感なところがある馬で、思うように速力が上がらない。
「鞭も使え、鞭も」
教官の厳しい声が耳をつんざく。
あいは、僅かに躊躇ってから、鞭を振った。馬の視界の隅を掠めただけで、当ててはいない。それでも、尻に火が付いたように馬が駈けはじめた。
ぐんぐんと前へ引かれる。馬体が激しく揺れる。右足の激痛に、耐えきれず、体勢を崩した。
「くっ」
無理に踏ん張らず、鐙から足を抜いていた。手綱は離さなかった。
空が回る。地面。足から落ち、転がった。受け身の取り方は、柔道やマット運動で身体に染みついている。
イヤホンから、小早川の呼ぶ声がした。
手を上げ、無事を伝える。馬は。顔を上げると、あいが乗っていた馬は、走路の少し先の方で荒い息を吐いていたが、怪我はなさそうだ。
「よかった」
馬の無事を確認し、胸をなでおろした。
立ち上がろうとして、尻もちをついた。右の脹脛が痙攣している。
「無理に動くな」
教官が駆けつけてきた。
「熱があるな」
あいの足に手を当て言った。
「他に痛いところはあるか」
「大丈夫です」
右肩が熱い感じはあったが、受け身をとった際に擦っただけだろう。
「あいっ」
加奈恵が、柵を跳び越えて走路に入って来た。
「君、無断で走路に入っちゃいかん」
「すんません、でもウチ、あいと同室で」
加奈恵は厩務員課程生として走路訓練に関わっていた。
一昨日の訓練では加奈恵が世話をしている馬に乗った。今日は大矢と組んでいたはずだ。
「とにかく、医務室に行こう。丁度いいから、君、手伝ってくれるか」
教官が無線機を取り、あいの状態を調教スタンドに伝えた。
「足を怪我したんか」
「うん。ごめんね、加奈恵も授業中なのに」
「ええから、ほれ、掴まり」
加奈恵に支えてもらいながら、本館一階にある医務室まで運ばれた。
教官は養護教諭に引き継ぎ、馬場に戻って行った。
「う~ん、右足の捻挫は落馬したときのものでしょうけど、足腰の筋肉がかなり強張ってるわね」
ソファベッドに座らせられ、養護教諭の触診を受ける。
「やっぱりトレーニングのし過ぎやったんや」
「どういうこと?」
養護教諭が加奈恵に目を向けた。
「加奈恵、違うよ」
「あかん、あい。今回は大きな怪我せんで済んだけど、次はわからへん。心配なんや」
加奈恵が、ここ数週間にわたるあいの日課を話した。
「それは、明らかにオーバーワークね。一生懸命になる気持ちはわかるけど、それで身体を壊してしまっては元も子もないのよ」
「……はい」
「とりあえず、右足の捻挫が治るまで、大体二週間くらいかしら、それまでは実技訓練は休んで、負荷のかかるトレーニングも控えるようにね」
「そんな」
あいは項垂れ、服の裾をきつく握りしめた。




