天道厩舎と密談 ④
中京記念当日。
中京競馬場の装鞍所で出走馬の馬体重の測定を受けていると、遠野が近づいてきた。
「おう、天道」
「遠野さん、どうも」
遠野は中年の調教師を一人連れていた。
天道が調教助手として遠野厩舎に入った頃、入れ替わりで関東のトレーニングセンターへ転勤し、調教師になった男だ。
「馬はきちんと仕上げてきたみたいだな。単走重視の調教をしていると聞いたが、なるほどな、確かにあいつは、利かん気が強そうな面ぁしてるぜ」
男は天道が連れている馬に目をやって言った。
「気にかけてもらっていたんですか?」
「ふん、知るかよ。俺は遠野さんが最後に世話した馬に会いに来ただけだ」
男の敵愾心はひしひしと伝わってくるが、天道はとり合わず、笑って受け流した。
「あのお転婆な嬢ちゃんに、乗りこなせるのかい」
「事前の合わせでは問題なかったですね。レースでどうなるかは、走らせてみないことにはなんとも」
「そんなことはわかっとる。いいか、遠野さんの顔に泥塗るようなレースはするなよ」
「当然、そのつもりですよ」
男の馬は、第五レースの三歳未勝利に出走した。鼻息が荒いのは、そこでの結果がよかったこともあるのだろう。
「すまんな。あいつ、俺の一番弟子のつもりなんだ。実際、俺の下で長い間働いてくれていたんだが」
男が去ると、遠野はごま塩頭を掻きながら言った。
「弟弟子に遠野厩舎をとられて面白くないですか」
「そこまで子供じみてはいないさ。あいつはあいつで、美駒のトレセンでしっかりした厩舎を持ってる。才気走った若造に、ちょっと発破をかけてやったぐらいのつもりだよ」
「これでも、もう四十ですよ」
「俺やあいつからすりゃ、まだ若造さ」
「それで、今春零は嬢ちゃんですかい」
「わるかったよ」
遠野を困らせても仕方なかった。
天道は、馬の傍にいる零に目をやった。
こちらの会話は聞こえていたはずだが、退屈そうに欠伸をしていて、まったく意に介していない。
「これから初重賞の新人とは思えん緊張感のなさだな。誰かを思い出す」
「誰です?」
「とぼけおって。まぁいい。お前にとっても初陣だ。別定戦だが、成績を見る限りでは各馬に大きな差はない。展開によっては、騎手の勝負になるぞ」
「ま、見ていてくださいよ」
天道は遠野に軽く手を振り、諸検査を終えて戻ってきた馬の手綱を取った。
所定の場所で馬装を整え、パドックへ出た。
天気は快晴、馬場は良好だった。
新人最多勝記録更新に迫る勢いの女性騎手という話題性のためか、パドックを囲む観客の熱量が高い。
レース十五分前を切った。
「いってらっしゃい」
零に馬を託した。
馬場に各馬が進み出ていくのを、控室のスクリーンで確かめる。返し馬。問題はない。全出走馬が列を組み、輪をつくり、人馬共に呼吸を整える。
順次ゲートインしていく。
遠い、と天道は思った。もう、騎手ではないのだ。
遠藤から引き継いだ古馬だが、今日のレースに合わせてするべきことはした。
あとは、見届けるしかない。
旗が上がる。
出遅れた馬はいない。
零は事前の打ち合わせ通り、中団やや後方の位置につけた。
◆
脚を溜めた。
かなり気の強い馬だ。そして、立派な末脚を持っている。
その両方を爆発させるための、耐えの時間だった。
芝千六百メートルのコースである。
すぐに最初のコーナーが来た。外枠の馬が寄せてくる。内を争わず、一段引いた位置に構えた。
天道からの指示だった。
走行距離を考えれば、コース内側に入っていた方が有利である。
だが、中京競馬場はスタート直後にコーナーがあり、そこは外枠からの方が内へ入っていきやすい。
今回、零は内枠だった。
序盤、中団で揉まれる覚悟はしていた。
耐える。
二、三度、馬が前へ出て行こうとした。体重をあえて馬の肩にかけ、スピードを保たせたが、気持ちは同じだった。
この状態は、気持ちがよくない。
先頭で駈けるのが、気持ちよかった。
馬と一体になるのではない。風と一体になる。零の感覚ではそうで、乗り物では味わえない感覚だった。
第二コーナーが迫る。折り返し。右後方に馬影はない。手綱を繰り、馬群の横に抜けた。斜行のペナルティはない、と信じた。
前が拓けた。外から、内へ切り込みつつ、さらに、粘る。
直線。斜度のある坂に差しかかり、先頭集団が、一拍、遅れた。見逃さなかった。鞭を振るい、合図を送る。溜めにに溜めた馬の気が、爆発した。一息で先頭に躍り出る。
風になる。
坂のあと、ゴールまではほぼ平坦だった。
残しておいた脚を使いきるところまで馬を追い込む。馬蹄の響きも、置き去りにした。
風の唸りだけが聞こえる。
眼前で揺れる鬣が、風に巻かれる炎のように映った。
人に、戻った。
馬も、馬に戻っていた。
歓声が耳に入ってきた。振り返り、ターフビジョンを仰ぎ、自分のゼッケン番号が一番上に表示されているのを確認した。
「一着だってさ」
馬に話しかけた。荒い息を繰り返している。限界まで脚を使ったはずだが、まだ走りたそうにしている。
追い込み続ければ、自分の脚が折れるまで駈ける。馬は、そういう生き物だった。
「お疲れ」
いつの間にか、天道が近くに立っていた。手綱を預けた。ウィナーズサークルへ曳かれていく。
「またこの時間かあ」
「嬉しくないの? 勝者の特権じゃないか」
「そんなのいらない。ちやほやされたくて、レースをしているんじゃないもの」
「ま、言わんとすることはわかるよ。でも、これも騎手の仕事のうちだ」
「天道さんって、子どもっぽいのに、たまに大人みたいなことも言うのね」
「これでも、大人なんでね」
零は、鼻白んだ気分になり、馬の鬣に顔を埋めた。
「あい、元気にしてるかな」
「会いに行けばいいじゃないか。友達なんだろう?」
天道が言った。
「迷惑がられないかな。いままで友達っていなかったから、どうしたらいいのか」
「さぁね。僕はあいじゃない」
子供っぽい無邪気さで、天道は笑った。
次のレース。
勝ったら、あいに会いに行こう。
零は、そんなことを考えながら、ウィナーズサークルへと入っていった。




