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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第八話
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天道厩舎と密談 ④

 中京記念当日。


 中京競馬場の装鞍所で出走馬の馬体重の測定を受けていると、遠野が近づいてきた。


「おう、天道」

「遠野さん、どうも」


 遠野は中年の調教師を一人連れていた。


 天道が調教助手として遠野厩舎に入った頃、入れ替わりで関東のトレーニングセンターへ転勤し、調教師になった男だ。


「馬はきちんと仕上げてきたみたいだな。単走重視の調教をしていると聞いたが、なるほどな、確かにあいつは、利かん気が強そうな面ぁしてるぜ」

 男は天道が連れている馬に目をやって言った。


「気にかけてもらっていたんですか?」


「ふん、知るかよ。俺は遠野さんが最後に世話した馬に会いに来ただけだ」


 男の敵愾心はひしひしと伝わってくるが、天道はとり合わず、笑って受け流した。


「あのお転婆な嬢ちゃんに、乗りこなせるのかい」


「事前の合わせでは問題なかったですね。レースでどうなるかは、走らせてみないことにはなんとも」


「そんなことはわかっとる。いいか、遠野さんの顔に泥塗るようなレースはするなよ」


「当然、そのつもりですよ」


 男の馬は、第五レースの三歳未勝利に出走した。鼻息が荒いのは、そこでの結果がよかったこともあるのだろう。


「すまんな。あいつ、俺の一番弟子のつもりなんだ。実際、俺の下で長い間働いてくれていたんだが」


 男が去ると、遠野はごま塩頭を掻きながら言った。


「弟弟子に遠野厩舎をとられて面白くないですか」


「そこまで子供じみてはいないさ。あいつはあいつで、美駒のトレセンでしっかりした厩舎を持ってる。才気走った若造に、ちょっと発破をかけてやったぐらいのつもりだよ」


「これでも、もう四十ですよ」


「俺やあいつからすりゃ、まだ若造さ」


「それで、今春零は嬢ちゃんですかい」


「わるかったよ」


 遠野を困らせても仕方なかった。

 天道は、馬の傍にいる零に目をやった。


 こちらの会話は聞こえていたはずだが、退屈そうに欠伸をしていて、まったく意に介していない。


「これから初重賞の新人とは思えん緊張感のなさだな。誰かを思い出す」


「誰です?」


「とぼけおって。まぁいい。お前にとっても初陣だ。別定戦だが、成績を見る限りでは各馬に大きな差はない。展開によっては、騎手の勝負になるぞ」


「ま、見ていてくださいよ」

 天道は遠野に軽く手を振り、諸検査を終えて戻ってきた馬の手綱を取った。


 所定の場所で馬装を整え、パドックへ出た。


 天気は快晴、馬場は良好だった。


 新人最多勝記録更新に迫る勢いの女性騎手という話題性のためか、パドックを囲む観客の熱量が高い。


 レース十五分前を切った。


「いってらっしゃい」

 零に馬を託した。


 馬場に各馬が進み出ていくのを、控室のスクリーンで確かめる。返し馬。問題はない。全出走馬が列を組み、輪をつくり、人馬共に呼吸を整える。


 順次ゲートインしていく。


 遠い、と天道は思った。もう、騎手ではないのだ。

 遠藤から引き継いだ古馬だが、今日のレースに合わせてするべきことはした。


 あとは、見届けるしかない。


 旗が上がる。

 出遅れた馬はいない。


 零は事前の打ち合わせ通り、中団やや後方の位置につけた。


         ◆


 脚を溜めた。


 かなり気の強い馬だ。そして、立派な末脚を持っている。


 その両方を爆発させるための、耐えの時間だった。


 芝千六百メートルのコースである。

 すぐに最初のコーナーが来た。外枠の馬が寄せてくる。内を争わず、一段引いた位置に構えた。 


 天道からの指示だった。


 走行距離を考えれば、コース内側に入っていた方が有利である。

 だが、中京競馬場はスタート直後にコーナーがあり、そこは外枠からの方が内へ入っていきやすい。


 今回、零は内枠だった。


 序盤、中団で揉まれる覚悟はしていた。


 耐える。


 二、三度、馬が前へ出て行こうとした。体重をあえて馬の肩にかけ、スピードを保たせたが、気持ちは同じだった。


 この状態は、気持ちがよくない。


 先頭で駈けるのが、気持ちよかった。


 馬と一体になるのではない。風と一体になる。零の感覚ではそうで、乗り物では味わえない感覚だった。


 第二コーナーが迫る。折り返し。右後方に馬影はない。手綱を繰り、馬群の横に抜けた。斜行のペナルティはない、と信じた。


 前がひらけた。外から、内へ切り込みつつ、さらに、粘る。


 直線。斜度のある坂に差しかかり、先頭集団が、一拍、遅れた。見逃さなかった。鞭を振るい、合図を送る。溜めにに溜めた馬の気が、爆発した。一息で先頭に躍り出る。


 風になる。


 坂のあと、ゴールまではほぼ平坦だった。

 残しておいた脚を使いきるところまで馬を追い込む。馬蹄の響きも、置き去りにした。


 風の唸りだけが聞こえる。


 眼前で揺れる鬣が、風に巻かれる炎のように映った。


 人に、戻った。


 馬も、馬に戻っていた。


 歓声が耳に入ってきた。振り返り、ターフビジョンを仰ぎ、自分のゼッケン番号が一番上に表示されているのを確認した。


「一着だってさ」


 馬に話しかけた。荒い息を繰り返している。限界まで脚を使ったはずだが、まだ走りたそうにしている。

 追い込み続ければ、自分の脚が折れるまで駈ける。馬は、そういう生き物だった。


「お疲れ」

 いつの間にか、天道が近くに立っていた。手綱を預けた。ウィナーズサークルへ曳かれていく。


「またこの時間かあ」


「嬉しくないの? 勝者の特権じゃないか」


「そんなのいらない。ちやほやされたくて、レースをしているんじゃないもの」


「ま、言わんとすることはわかるよ。でも、これも騎手の仕事のうちだ」


「天道さんって、子どもっぽいのに、たまに大人みたいなことも言うのね」


「これでも、大人なんでね」


 零は、鼻白んだ気分になり、馬の鬣に顔をうずめた。


「あい、元気にしてるかな」


「会いに行けばいいじゃないか。友達なんだろう?」

 天道が言った。


「迷惑がられないかな。いままで友達っていなかったから、どうしたらいいのか」


「さぁね。僕はあいじゃない」

 子供っぽい無邪気さで、天道は笑った。


 次のレース。

 勝ったら、あいに会いに行こう。


 零は、そんなことを考えながら、ウィナーズサークルへと入っていった。

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