天道厩舎と密談 ③
二期上の先輩である今春零が、GⅢ中京記念に挑戦するということは、一学年の中でも話題となっている様子だった。
直接の関わりもあった現在の三学年は、特に関心が高い。
一年目で、初重賞までこぎつけた騎手は、ここ数年いなかった。それが女性騎手ということもあって、メディアでも盛んに報じられている。
教官の間でも、零は話題になっていた。
小早川は、スポーツ新聞の競馬の紙面に目を向けた。
他の教官はすでに帰宅し、職員室には小早川一人だった。節電のため、照明は半分消してある。
スポーツ新聞でも、零が見出しを飾っていたが、開業して間もない天道厩舎についても触れられていた。
シーズン中に厩舎を預かる調教師が替わるというのは、あまりあることではなかった。
今回は、天道の前任調教師、遠野が、春先に脳梗塞で倒れた。それがあって、本来の引継ぎを早めたのだろう、と新聞には書かれている。
「おや、まだ帰っていなかったかい」
声を掛けられ、紙面から視線を上げると、落合が入ってきた。
「もう帰るところです」
小早川は几帳面に新聞を折りたたみ、デスクに置いた。
「週末の中京記念、やはり気になるかね」
「今春零は、在学中から異彩を放っていましたから」
零の実技も小早川が担当したが、教えることはあまりなかった。
零は、競馬学校に入学する前から、地方の草競馬などに出て実戦を積み、入学時点ですでに自分なりの騎乗スタイルを見出していた。
そのうえ、木馬に乗る自分を多角度で撮影し、バイオメカニクスに照らしてフォームを矯正することも、こちらが教える前から自分で勝手にやっていた。
「彼女ではなく、天道君のことですよ。彼とは同期だったでしょう?」
落合が見透かしたように言った。
「遠野も、これでやっと肩の荷がおろせた。天道に継がせたいのに、本人がなかなかその気にならんと、よく愚痴に付き合わされていたんですよ」
「まだ早いでしょう。成果を上げて、厩舎運営を軌道に乗せられるかどうか」
小早川は言いながら、落合と遠野も競馬学校の同期だったことを思い出していた。
「そこは、天道君の闘いだ。それにしても、どういう心境の変化なのかね。ずっと厩舎を背負って立つことに、消極的だったらしいが」
「来年、厩舎実習があるからでしょう」
「厩舎実習?」
「明日も早いので、これで失礼します」
首を傾げる落合に、一礼し、職員室をあとにした。
駐車場へ向かう道中、ランニング中の学生と行き合った。
小柄な体躯にショートボブの髪型。藤刀あいだった。
「こんな時間までランニングか。もうじき消灯時間だぞ」
「す、すみません。もう部屋に戻ります」
「そうしろ。いや、待て。天道から、なにか連絡はあったか?」
「天道さんから? いえ。あ、電話は一度ありました」
「いつごろだ」
訊いてから、知ってどうする、と小早川は思った。
「えっと、日本ダービーを見学してから何日か後で、六月の真ん中くらい、です」
「そうか」
「たぶん、調教師になったこと、教えてくれようとしたんだと思います。でも私、そのとき自分のことだけ話して、電話をきっちゃって」
「もういい。明日から本格的な走路訓練だぞ。早く帰って休め」
「あ、はい」
小早川は駐車場へ向かった。
一学年は夏季合宿から戻ってくると、サラブレッドである元競走馬を用いて、走路訓練の準備に取りかかっていた。
これまでの基礎馬術訓練で乗っていたのは、中間種と呼ばれる乗用馬としてバランスのとれた品種の馬だ。
中間種と較べると、スピードに特化した品種改良を重ねらた競走馬は、足の長さや筋肉のつき方からして違う。
特に日本のサラブレッドは、海外に比べてスピード重視なきらいがある。
念願のサラブレッドに乗れるからといって、浮かれていると、簡単に振り落とされるぞ。
そんなふうにちょっと脅かしてやると、サラブレッドを前にして浮かれ気味だった何人かは真顔になった。
まず二つある追馬場のうち、一周が二百メートルの短い方で、ひたすら走り込ませていた。
走る際には、馬の歩数を数えさせている。
自分が騎乗している馬が、一ハロン(二百メートル)を、何歩で、何秒で駈けているのかを把握する感覚は、馬のペース配分をする上で必須なのだ。
馬のペースをコントロールできなければ、まともなレースなどできるはずがなかった。
サラブレッドの推進力と瞬発力に、一学年は瞠目していた。
ただの速歩でも、少しでも気を抜くと手綱を引っ張られ、上半身を置いていかれそうになっていた。
鐙の長さは、最初は馴れている長さからはじめ、徐々に競走姿勢を取るための長さに縮めていった。
そうした準備訓練を経て、いよいよ明日からは、走路に出す予定だった。
校内の走路は内と外で分かれており、内走路で千二百、外走路で千四百メートルである。
一学年の間は、内走路を使っての訓練となる。
基礎馬術の訓練は、世話をしている二頭の担当馬で当たっていたが、ここからはなるべく多くの馬に乗り替え、経験を積ませていく。
日頃それらの馬を管理している、厩務員課程の学生とも連携をとる必要が出てくる。
騎手に対して、馬の特性を言語化して申し送りするのは、厩務員課程の学習の一環でもある。
駐車場に到着した。
電子キーでロックを解除し、助手席に荷物を放り入れた。
「焦っているのか」
小早川は、運転席のシートに背を預けると、独り言ちた。
少し前から、あいの様子が気にかかっていた。
天道が調教師になったことを知り、刺激を受けて発噴しているのかとも思ったが、それだけではなさそうだった。
あいが妙に焦っている様子になったのは、夏季合宿を終えた頃からだ。
まるで不安を振り払うように、一心不乱にトレーニングに打ち込んでいる。フィジカルトレーニングを担当するトレーナーからも、少し熱が入り過ぎている、と相談があった。
怪我に繋がる前に、学校に出入りしている心理療法士に言い含め、話を聞く場を設けた方がいいかもしれない。
学生からは、鬼教官と恐れられている。
自覚はあった。どう思われようと、一人の騎手を育てようと思ったら、厳しくしないわけにはいかないのだ。
だが、厳しくするだけでは人は育たない。そこは、連携だった。
そのために学校には、馬術や競馬に通じている教官やフィジカルトレーナー以外にも、メンタルトレーニングを担当する心理療法士や、栄養士など、実に多彩な人材を揃えているのだ。
俺は鬼でいい。いや、鬼でありたい、と小早川は思った。
同期の華で、競馬界の新しい時代をつくると誰もが期待を寄せていた天道が、病で騎手生命を断たれた。
それ以来、運命を呪う、黒く固い塊が、心の奥底に居座っている。
鬼である間は、それを忘れていられた。




