天道厩舎と密談 ②
半個室のようなテーブル席で、天道は、零と向かい合って黙々と蟹を食べた。
零の隣にいるエージェントは、困惑しきっていて、蟹にほとんど手をつけていない。
卓上が蟹の殻だけになると、零は専用の細長いフォークを置き、指を拭った。
「はじめまして、天道さん」
「はじめまして。今回は、急な依頼に応えてもらって助かったよ」
「零にとっても、重賞レースに出場できる機会をいただけたのは、願ってもないかぎりです」
エージェントがやっと本題をはじめられるとばかりに、横合いから言った。
「さきの札幌日経賞で勝って、次は重賞を、と考えていたんです、ね、零」
零は、気のない返事をした。
リステッド競走である札幌日経賞は、単純なレースの格付けでいえばGⅢの一つ下で、準重賞とも呼ばれる位置づけだ。
「北海道では、蟹は食べなかった?」
「うん。食べようと思ってたら、この話がきて、松田さんに食べる暇なく飛行機に乗せられちゃった」
「それで、ここで蟹を食べてたのか。悪いことをしたかな」
「別に。ここの蟹も美味しかった。けど、ハンバーガーほどじゃなかったし、もういいかな。食べづらいし。これもすっぱくて苦手」
蟹酢の小鉢の縁を、指の爪の先で軽く弾く。
「ハンバーガーが好きなんだ」
「好き。すっぱいのは嫌い。ピクルスは許せるけど」
「じゃ、今度、おいしいハンバーガー屋でも探しておこう。中京記念で勝てたら、奢ってあげるよ」
「自分で食べに行くからいらない。そんなことより、天道さんにはお願いがあるの」
「へえ、なにかな」
「その前に、松田さん、席を外してくれる? 天道さんと二人で話したいから」
松田という名らしいエージェントが、天道の顔色を伺うような視線を向けてくる。
本来なら、担当する騎手に騎乗馬を獲得した時点で、エージェントの仕事は終わっている。
それがこうして同席しているのは、零の人当たりを憂慮しているからだろう。まともな大人なら、零の気ままな態度には反感を覚えるに違いない。
天道は、心配いらないと、手の仕草で伝えた。
エージェントは頷き、席を立った。
「二人で話せるのは、僕も助かるよ。正直、エージェントは、あまり好きじゃないんだ。
騎手には便利な制度であるけど、金の匂いを嗅ぎつけるだけの妙なのもいる。彼女はそういう手合いではなさそうだったが」
「いまね、競馬学校に面白い子がいるの」
関心のない話には耳を貸す気もないのか、零は天道の話を無視して言った。別段、腹は立たなかった。
すでに女帝と綽名されるほどの実力を示しつつある。馬に乗ること、もっと言えば、レースで一着を獲ること以外、興味はないのだろう。それが零の強さに繋がってもいる。
馬主や並みの調教師からすると、扱いづらい騎手かもしれない。
その零に、いまのところ常に勝ちを狙える馬を運んでいるあのエージェントは、やはり敏腕ではあるのだ。
「ねえ、天道さん、聞いてる?」
天道は、思わず苦笑した。
「ああ、聞いているよ。なるほど、お願いってのは、あいのことか」
天道が言い当てると、零の目の色が変わり、卓に身を乗り出してきた。
「すごい、なんでわかったの?」
「経緯があって、彼女とは知らない仲じゃないんだ。
君は昨年、自分が出る中山での模擬レースにあいを招待しただろ。そこでレース後の君と会って、一緒に駈ける約束をしたことも、本人から聞いているよ」
「そう、そうなの。お願いはね、その約束のことよ」
「というと?」
「あたしを、あいがいる模擬レースに出させてほしいの。模擬レースには、現役騎手を招くのが通例でしょ」
「確かにね。でも、僕の立場から、競馬学校に働きかけられるかは、わからないな。そもそも、模擬レースにこだわる必要はないんじゃないか? あいが騎手としてデビューしてからでいいじゃないか」
「あたし、待つのって嫌いなの。だから、よろしくね、天道さん」
「やれやれ、だから僕の立場じゃ」
「引き受けてもらえないなら、今回の騎乗依頼は断るわ」
「オッケー。なら話はこの辺にして、もう一杯ぐらい蟹を注文しようか」
「つまらない冗談をいう人も、キライ」
零が妖艶さの滲んだ笑みを浮かべた。これで十八か、と思わせる笑みだ。
「噂以上に、とんでもない女帝様だ」
天道は溜息を吐きつつ、零の交換条件を呑んでもいい、という気になっていた。
あいが零を意識することで上達していくのなら、願ってもないことだ。
なにより、模擬とはいえ、二人が対決するレースは想像するだけでも面白そうだ。
天道は、両手をあげ、降参した。
「契約成立ね」
「最後に一ついいかい。君がそこまであいにこだわるのには、なにか理由があるのかな?」
「ないわ。いえ、強いて言うなら、楽しそうだから、かな。
あいの乗馬は、一度しか見ていないけど、すごくわくわくするの。一緒にレースをしたら、絶対に楽しいわ」
期待を膨らませる零は、年相応のどこにでもいる娘に見えた。
気持ちは理解できた。天道も、あいの乗馬に一目惚れした一人だ。
自分も現役騎手であったら、零と同じようにあいとの対戦を望んだのだろうか。
考えただけだ。
凱旋門賞を獲るという、道半ばで潰えた夢は、記憶の中で色褪せていた。あいと出会ってからは、忘れることすらあった。
過去が完全に消えることはない。しかし、確実に薄れていっている。
これが歳をとるということなのか。
いや、生きている。
たぶん、それだけだろう。
二人の話が済む頃合いを見計らっていたエージェントが戻って来た。
中京記念で零に乗ってもらう馬の話をし、他の出走馬の情報も合わせた、レース展開についても簡単な予想を立てた。
予想は、あまり当てにはならないが、当日のイメージを作っておく意味では必要なことだ。
「さてと、今日はそろそろお開きにしようか。当日はよろしく、今春さん」
天道が苗字で呼ぶと、零は、くしゅん、と小さくくしゃみをした。




