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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第二十二話

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藤刀あい ⑩

 競馬学校を卒業し、デビュー戦が決まった。

 天道厩舎の所属である。


 天道からは、デビュー戦を控え、二日の休養を言いつけられていた。


 あいは、馬郷へ足を運んだ。


 天道厩舎で厩務員として働く加奈恵も、休日が重なっていたので、馬郷へ誘った。だが、他に予定があるからと言って、断られてしまった。


 普段なら、どんな予定があるのか、訊かなくても教えてくれる。

 予定がある、とだけ加奈恵が言うときは、正士郎とのデートなのだということが、あいにもだんだんとわかってきた。


 正士郎と交際をしていることだけは、言葉少なに、加奈恵から直接教えられた。


 電車を乗り継ぎ、木曽の近くまで行くと、母が車で迎えに来てくれていた。

 母の車の助手席に乗り、馬郷へ送ってもらった。


「卒業おめでとう」


 馬郷に着くと、山南が出迎えてくれた。あいの顔をじっと見つめていたかと思うと、指で目頭を押さえ、俯いた。


「山南さん?」


「すまない。なんでもないんだ」


 山南はちょっと洟を啜り、笑うと、放牧場へ案内してくれた。


「私はあと二時間ぐらい事務所の方にいるから」


「わかりました。あの、今日は」


「ああ、お母さんから聞いているよ。綾と一晩過ごしていくんだろう。スタッフは定時に上がるが、事務所の鍵は明けておく。毛布や水道なんかは好きに使ってくれ」


 あいは深々と頭を下げて山南に礼を言った。


 放牧場を歩いていく。小高い丘の上に立つと、下の麓のところに綾がいた。


 綾も、あいの姿を認めた。どちらからともなく、近づいていった。


「ただいま、綾」


 丘の途中の斜面で、綾の鼻面を抱いた。少し息苦しそうに鼻を鳴らしたが、綾は嫌がらなかった。


 丘の上に戻り、あいは草の上に腰を下ろした。


 春になり、若く柔らかな草が丘を覆っている。あいの傍らに、綾も横たわった。


 息遣いで、綾が競馬学校での話を聞きたがっていると伝わってきた。


「色々なことを、たくさん経験したよ。これからも、すると思う」


 いいことだと思うわ。私も、あいが巣立ってから、たいへんな経験をしたのよ。一番は、仔を生んで、育てたことかしら。


 心に染み入るような、言葉ではない、綾の声。


 丘の麓にいる馬が、先ほどからこちらを窺っているのは気づいていた。


 綾と同じ、淡雪のような毛並みの馬で、佇まいからしてまだ若い牡らしかった。


 あれが綾の息子なのだろう。姉の息子。甥のようなものか。


 あいは、美冬の甥の聡太が、馬術の大会のジュニア部門で入賞したという知らせを、思い出した。


 綾の息子は、こちらに気兼ねしているのか、近づいてくる気配がなかった。


 綾に話したいことは、いくらでもあった。

 しかしなにも話さなくとも、こうして寄り添っていれば、それで十分でもあった。


「そういえば、模擬レースの最終戦で、不思議な体験をしたんだ」


 ふと思い出し、あいは言った。

 言葉で説明しづらいことでも、綾にならば伝えられた。


 綾は静かに耳を傾け、あいがした不思議な体験について聞いてくれた。


 それから、綾は、あいに見せるように近くの草を食んだ。ゆっくりと咀嚼し、飲み下す。


 あいも。


 綾の眼差しが、そう言っていた。


 あいは頷き、草をひと摘まみ手にして、口に含んだ。噛むと苦いが、これが馬が日常で感じている大地の力なのかと思うと、嫌な苦さではなかった。


 綾がしたように、ゆっくり噛みしめてから飲み下した。


 優しい陽射しがあり、心地いい風も吹いていた。


 綾とひと時、うたた寝をした。


 頬を舐められ、目を醒ました。綾の息子が鼻先を押し付けてくる。


 太陽が傾き、肌寒くなってきていた。綾の息子は心配して起こしてくれたのだ。


「ありがとう。お母さんに似てやさしいね」

 あいは立ち上がり、尻についた草を払った。


 綾と丘を下り、厩舎の方へ歩いていく。事務所の電気は消えていて、山南らはもう帰宅したあとだった。


 綾の息子は、やはり気兼ねしているのか、あいと綾の数歩後ろを、そろそろと付いて来ていた。



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