藤刀あい ⑩
競馬学校を卒業し、デビュー戦が決まった。
天道厩舎の所属である。
天道からは、デビュー戦を控え、二日の休養を言いつけられていた。
あいは、馬郷へ足を運んだ。
天道厩舎で厩務員として働く加奈恵も、休日が重なっていたので、馬郷へ誘った。だが、他に予定があるからと言って、断られてしまった。
普段なら、どんな予定があるのか、訊かなくても教えてくれる。
予定がある、とだけ加奈恵が言うときは、正士郎とのデートなのだということが、あいにもだんだんとわかってきた。
正士郎と交際をしていることだけは、言葉少なに、加奈恵から直接教えられた。
電車を乗り継ぎ、木曽の近くまで行くと、母が車で迎えに来てくれていた。
母の車の助手席に乗り、馬郷へ送ってもらった。
「卒業おめでとう」
馬郷に着くと、山南が出迎えてくれた。あいの顔をじっと見つめていたかと思うと、指で目頭を押さえ、俯いた。
「山南さん?」
「すまない。なんでもないんだ」
山南はちょっと洟を啜り、笑うと、放牧場へ案内してくれた。
「私はあと二時間ぐらい事務所の方にいるから」
「わかりました。あの、今日は」
「ああ、お母さんから聞いているよ。綾と一晩過ごしていくんだろう。スタッフは定時に上がるが、事務所の鍵は明けておく。毛布や水道なんかは好きに使ってくれ」
あいは深々と頭を下げて山南に礼を言った。
放牧場を歩いていく。小高い丘の上に立つと、下の麓のところに綾がいた。
綾も、あいの姿を認めた。どちらからともなく、近づいていった。
「ただいま、綾」
丘の途中の斜面で、綾の鼻面を抱いた。少し息苦しそうに鼻を鳴らしたが、綾は嫌がらなかった。
丘の上に戻り、あいは草の上に腰を下ろした。
春になり、若く柔らかな草が丘を覆っている。あいの傍らに、綾も横たわった。
息遣いで、綾が競馬学校での話を聞きたがっていると伝わってきた。
「色々なことを、たくさん経験したよ。これからも、すると思う」
いいことだと思うわ。私も、あいが巣立ってから、たいへんな経験をしたのよ。一番は、仔を生んで、育てたことかしら。
心に染み入るような、言葉ではない、綾の声。
丘の麓にいる馬が、先ほどからこちらを窺っているのは気づいていた。
綾と同じ、淡雪のような毛並みの馬で、佇まいからしてまだ若い牡らしかった。
あれが綾の息子なのだろう。姉の息子。甥のようなものか。
あいは、美冬の甥の聡太が、馬術の大会のジュニア部門で入賞したという知らせを、思い出した。
綾の息子は、こちらに気兼ねしているのか、近づいてくる気配がなかった。
綾に話したいことは、いくらでもあった。
しかしなにも話さなくとも、こうして寄り添っていれば、それで十分でもあった。
「そういえば、模擬レースの最終戦で、不思議な体験をしたんだ」
ふと思い出し、あいは言った。
言葉で説明しづらいことでも、綾にならば伝えられた。
綾は静かに耳を傾け、あいがした不思議な体験について聞いてくれた。
それから、綾は、あいに見せるように近くの草を食んだ。ゆっくりと咀嚼し、飲み下す。
あいも。
綾の眼差しが、そう言っていた。
あいは頷き、草をひと摘まみ手にして、口に含んだ。噛むと苦いが、これが馬が日常で感じている大地の力なのかと思うと、嫌な苦さではなかった。
綾がしたように、ゆっくり噛みしめてから飲み下した。
優しい陽射しがあり、心地いい風も吹いていた。
綾とひと時、うたた寝をした。
頬を舐められ、目を醒ました。綾の息子が鼻先を押し付けてくる。
太陽が傾き、肌寒くなってきていた。綾の息子は心配して起こしてくれたのだ。
「ありがとう。お母さんに似てやさしいね」
あいは立ち上がり、尻についた草を払った。
綾と丘を下り、厩舎の方へ歩いていく。事務所の電気は消えていて、山南らはもう帰宅したあとだった。
綾の息子は、やはり気兼ねしているのか、あいと綾の数歩後ろを、そろそろと付いて来ていた。




