藤刀あい ⑨
零は、すでに歴戦だった。
その零を、どこかで凌がない限り、勝ちはない。
正士郎も大矢も、他の同期も、みんなそれを考えていた。
ただ勝つだけでは意味がなかった。いずれ、並み居る歴戦の騎手とも、対等に戦わなければいけない。
模擬レース最終戦を、斤量のハンデ抜きに闘いたいと最初に言ったのはあいだったが、同期の誰一人として異議は唱えなかった。
あいは、自分を殺した。
奇しくもそれは、競馬学校に入学する前、居場所のなかった教室で息を殺して時間をやり過ごしていたのに、どこか似ていた。
そうして、零の後ろに付けた。
全員から警戒されている零は、中盤まで、外にも前にも押し出していけない状態だった。
あのままなら、零と一緒に勝負に絡めない展開もあり得たが、あいは、ただ零を信じた。
零なら、どこかに勝機を見出し、道を切り開くはずだ。それができるだけの経験が、いまの自分にはないが、零にはある。
零を利用する。事前に考えていた策ではなく、レースの中でそうなった。
零を凌ぐために、零を利用する。決めてしまえば、迷いはしなかった。
そして、並んだ。
もう、零の背中を見るのはやめた。
並んだ。そして、一瞬でいい、ハナ差でいい、超える。
勝敗はときの運だ、ということが、模擬レースをここまで闘ってきて、あいにもわかりはじめていた。
運を引き寄せられたかどうか。そんなことは、やってみて、結果が出てはじめて言えることだった。つまり、幻のようなものなのだ。
レースの中で騎乗馬に全力を出させる。それは間違いなく騎手の資質で、騎手の手腕で左右できるのは、そこだけかもしれなかった。
あいは、騎乗する馬に神経を集中させた。
栗毛の三歳馬で、スターハンドレッドという名の馬だった。新馬戦で勝って以来、五戦していて、勝ちきれない結果が続いていた。
あいも、幸先こそよかったが、第二回模擬レース以降、一勝もあげられていない。
勝ちを確信した第五回レースも、正士郎の騎乗馬に迫り負けていた。
勝敗を意識するのは、やめていた。
駈ける。生きて、死ぬ。それだけでいい、という心境に、最終戦がはじまってわずかな時の中でなっていった。
あなたもそれでいい?
言葉には出さず、あいはスターハンドレッドに語りかけた。
中山の名物でもある、観客席前の直線にある急坂に、零と横並びのままぶっつかる。
ふいに、鐙を踏む足の裏に、たしかなものを感じた。
これは、なんだ。
不思議な感覚に包まれる。
大地が、草を育む。その草を食み、馬は命を繋ぐ。
そうか、これは大地だ。馬が常日頃感じている、大地の力だ。
坂を登りきり、直線を駈け抜けた。
最後まで、零とは横並びで、勝敗はわからなかった。
あいは速歩まで落としてコースの奥へ進んだ。そこで、馬から飛び降りた。
ぞくぞくとゴールしていた同期から、どよめきがあがる。
「おい、隊長、どうしたんだ」
「え、あれ?」
馬を寄せてきた大矢を仰ぎ見、それからスターハンドレッドを振り返った。
あいは、自分がなぜこんな行動を取ったのか、スターハンドレッドを見て理解した。
「力を使い果たして、その子、潰れる寸前だったのよ。だから、鞍から降りたんでしょう。その様子だと、頭で理解するより先に身体が動いたようだけれど」
零だった。
零も馬を降り、手綱を曳いている。しかし零の騎乗馬は、まだあと一ハロンなら駈けられそうな顔をしている。
判定が出て、ターフビジョンに映し出された。
「同着」
悔しいという感情は湧いてこなかった。すべてを出し切っての同着だった。
零の馬には一ハロン分の余力が残っていた。それを馬の質の差とする気にはなれず、自分が負けたのだ、とあいは思った。
「あい」
「なに、零ちゃん?」
「今度は、模擬ではない、本物のレースで」
零が手を差し出してきた。
あいは頷き、その手を握り返した。
二人で笑い合った。
地下馬道を通って検量所まで戻った。
西が待っており、一人ずつ講評を貰った。
第五回模擬レースでも、別のベテラン騎手が講評役に足を運んでくれていた。
出し切れたと思えても、未熟な部分は多く、指摘をされてはじめて気づく部分も多かった。
「あの、西さん」
「なんだい?」
「いえ、すみません、やっぱりなんでもないです」
レース終盤、急坂に差しかかったところで体験した、あの感覚はなんだったのか。
馬が感じている大地の力だ、と思ったが、そのときの記憶はすでにあやふやなものになりつつあった。
西に訊いてみたい気もしたが、うまく言葉にできる自信がなく、言い出せなかった。
「来ていたのか、駿」
最後の学生の講評を伝え終えた西が、言うのが聞こえた。
西の視線の先を見ると、天道が歩いて来ていた。
「どうも。あいも、おつかれさま」
天道は西に軽く会釈してから、あいの方を向き、笑いかけた。
「課題はある。でも、観ている人間をアツくさせる、いい騎乗だった」
「ありがとうございます」
天道と一緒に、加奈恵が来ていた。
加奈恵は、あいに親指を立てる仕草をしただけで、木馬の傍にいる正士郎のもとへ近づいていった。
二人が、さり気なく馬道の方へ移動する。なにか、奇妙なものを見たような気持ちになった。
「あとは、卒業を待つばかりか」
天道が言った。
「まだ騎手免許の試験が残ってますよ」
「受かるさ。受からないはずがない」
「はい」
模擬レースに出走した馬の馬装が、騎手課の後輩の手で解かれていた。
ガラスを一枚隔てて、あいはその様子を見ていた。
後輩の手際に、口を挟みたくなる部分は一切なかった。




