藤刀あい ⑧
零は、馬の背に跨った。
中山競馬場の馬場から見える空に、千切れた雲が浮かんでいた。雲は凍りついたように動かない。
雑音が遠退き、消えていく。
先月末に、ジャパンカップを制した。中央GⅠ二勝利目で、日本人女性騎手としては史上初の快挙である。
これから、どこまで記録を伸ばしていくのか。海外のビッグタイトルにも、積極的に挑戦していくのか。
すべてが、雑音でしかなかった。
喘息持ちで、同年代の子どものように、全力で走ることができなかった。
乗馬を覚えることで、自身の体質を克服した、と零は思っていた。
寛解の状態にあるだけで、完治したわけではないと医者からは言われているが、喘息は、零の中では克服した過去だった。
馬に足で合図し、ターフへ出ていった。
黒鹿毛の六歳馬である。名前は教えられたが、呼びかけることはしなかった。
自分とあいの違うところだろう。
あいは、馬と対話をする。お互いに名を呼び合い、存在を認め合うような騎乗をする。
競馬で一般的に使われる、折り合いという言葉より、もう一段深く踏み込んでいる感じだった。
人と馬が溶け合う。そんなことがあるのか。もしあるとしたら、人馬一体を越えた境地、ということにならないか。
特別な境地を、零は必要としていない。
自分が気持ちよくなれればいい。そのための馬だった。
自分のありようを突き詰めて考えると、その先には必ず馬がいる。だから決して、馬を雑に扱ったりはできなかった。
馬が人生だ、という人間は、この世界では珍しくない。
返し馬をして、待った。
再び空に眼をやった。雲が、近い。気温は低く、吐く息が白かった。
幸い雨が降る気配はなく、馬場の状態は悪くない。ただ内ラチに、先週のレースから修復しきっておらず、少し荒れている箇所はあった。
騎手課程三学年が、本馬場に入場してきた。
前回レースで初勝利した大矢が、先頭だった。
これまでの全模擬レースの映像は、競馬学校の主任教官と交友がある下地に頼んで手に入れ、確認してあった。
大矢は、力強い追い込みをする。馬との相性によっては、かなりの爆発力がある。
続いて出てきた正士郎は、大矢とは対照的で、落ち着いた騎乗をする。
何回目の模擬レースだったかは覚えていないが、先頭の馬を風避けにして、騎乗馬の体力を温存するような立ち回りを見せていた。
また、ハロンタイムを計る体内時計は、三学年で正士郎が一番正確だった。
零は駈けるのをやめ、発馬機の方に馬を向けた。常足で、緩やかな坂を上っていく。
さらに二人の学生が入って来た。
東京競馬場のダートで勝った杉本という学生のあとに、あいが現れた。
赤いゼッケンを身に付け、栗毛の三歳馬に跨っていた。
零が跨っている馬が、急に棹立ちになった。
自分の気の昂りにあてられたのか。手綱は緩く握っているので、銜が当たることはなかったはずだ。
あいが駈け出した。
零は背中を向け、発馬機の裏に回った。
厩務員が待っていた。眉間に皺を寄せた、気難しそうな男に目を留めた。
「小早川教官、お久しぶりですね。卒業以来ですね」
零は小早川に馬を寄せた。
「学校に何度か来ていたらしいな。何をしに来ていた聞こうとは思わんが」
小早川は騎乗する格好ではなく、他の厩務員と同じ服装をしていた。
小早川ともう一人、かつて競馬学校で実技訓練の指導を受けた教官がいた。
「挨拶せずにすみません。今日は厩務員の応援要員で?」
「余裕だな」
「え?」
「天道が、お前をこの最終レースに推してきた」
「お願いしたんです。どうしても出たかったから」
「目当ては藤刀か」
「約束してたんです、天道さんと」
スケジュールを調整するのに、松田も協力してくれていた。
下地は、ジャパンカップ以来機嫌が悪く、近づかないようにしていた。
「気になったんですけど、今日の斤量の設定って」
「学生からの要望だ。現役騎手と対等に勝負して、どこまで通用するのか試したいと」
「なるほど」
「言っておくが、藤刀だけではない。三学年全体の意思だ」
「わかりました。全員、私をマークしてくる、ということですね」
「ハンデがない。馬の質も、まぁトントンだ。負けたら、言い訳はできん」
小早川が去っていった。
返し馬を終えて出走馬が発馬機の裏に集まってきていた。
どの厩務員がどの人馬を担当するかは決まっていて、小早川は杉本の補助についた。
雲の影の中にある、発馬機に収まった。
零は静かに待った。騎乗馬が窮屈がっているのは所作で伝わってくるが、それでも耐え、走る力を蓄えている。
全頭が揃い、赤い小旗が降られた。
光の中へ飛び出していった。
正士郎が先頭に立った。次いで杉本。三馬身空いて中団。
零は、中団の中にいた。左手に大矢がいる。あいの姿は見えない。
緩やかな坂を下っていく。
先頭の正士郎は、無理に逃げようとはしていない。騎乗馬に最適なペースを堅持させ、走行距離をできるだけ切り詰めようと考えているようだ。
全員が、コース終盤の急勾配の坂を意識しているのがわかった。
そこからゴールまでは、三百ちょっとの直線しかない。急坂で不利に立つと、最後の短い直線で状況を覆すのは厳しい。
四百メートル地点を過ぎ、緩やかな下り坂が終わり、大きく弧を描いてコーナーに入っていく。
前方に、現役騎手を含めた四騎がいて、零の進路を塞いでいた。左には変わらず大矢がいて、一度外に出て攻めるには、かなり大回りしなければいけなくなる。
そこまでの度量が、この馬にあるか。
零は息を吸い、細く吐く呼吸を繰り返しながら、待った。
中団と、先行する正士郎、杉本の間が、じりじりと詰まっていた。
中団の一人が、動いた。他の三騎もそれぞれの動きを見せた。前を塞いでいた岩に、亀裂が入ったと感じた。
「はじめよう」
零は馬に合図を送った。
かすかな亀裂に鑿を差し込み、玄翁で撃つ。
亀裂が大きくなり、岩が砕ける。視界が開けた。
馬が、活き活きと駈けはじめた。余力は十分に残している。
内ラチに入り過ぎると、芝が荒れていることも、忘れてはいない。
馬の鬣が、立ち昇る焔のように激しく揺れている。
全身が熱い。いや、血が、熱いのだ。馬と、焔の中にいる。苦しくはなく、深い愉悦があるだけだ。
大矢が、外から猛然と追い込みをかけていた。
一度ポジションが下がった正士郎も、まだ死んではいない。闘気が、肌を打ってきている。
あいの気配が、ない。不気味なほどだが、それを楽しんでいる自分もいた。仕掛けてこないはずはない。相手は、あいなのだ。
どこで、どう仕掛けるつもりなのか。すでに視界の先には急勾配を捉えている。
コーナーを抜け、観客席前の直線に出た。
馬蹄の響き。
あい。すさまじい勢いで零の脇すれすれを駈け上がっていく。
即座に馬に鞭を与えた。追った。
二騎が並んだ。




