藤刀あい ⑦
第五回模擬レースが、中山競馬場で行われた。
ダート千二百メートルである。
その日の夕方、ウェブ版のスポーツ新聞に、レース結果の記事が投稿された。
美冬は、武蔵医科大学付属病院で、研修医に講義の予定が入っていた。
美冬が専門とする小脳橋角部腫瘍に関する講義で、研修医に混じって、若手の医者の姿もちらほらあった。
講義後、助教授に与えられている部屋に戻った。
研修医からの質問に一つひとつ丁寧に答えていたら、予定より長くかかってしまった。
部屋は冷え切っていたが、暖房も点けず、デスクチェアに腰かけて携帯端末からスポーツ新聞のサイトにアクセスした。
記事に眼を通し、美冬は、どうしようもない歯がゆさに見舞われた。
短い記事だった。
レースの展開については、二、三行の記述のみで、あとは着順と、それを受けての学生たちの反省が載せられている。
大矢が初勝利を挙げていた。
斤量のハンデに助けられた部分が大きいと、大矢はレースを省みている。
模擬レースの斤量は、馬の実力を考慮して決めているらしかった。
実際の競馬でも、ハンデ戦や別定戦という、斤量を調節してすべての出走馬に勝つ機会を与える区分がある。
新人騎手でもベテラン騎手と勝負できるように、斤量が免除される制度もある。
模擬レースで現役騎手が勝つことが少ないのは、斤量のハンデがあるからだろう。
今回の模擬レースで、大矢が騎乗した馬は比較的軽い斤量に設定されていたようだったが、詳細は書かれていなかった。
大矢は、騎手の中では大柄な方だった。身長は、一期上にいた志摩と同じぐらいだった。
志摩は、規定体重を超過してしまい、退学を余儀なくされた。
過度な減量で栄養失調になり、一時期入院したという報道が流れた。
それから程なくして、退学が発表されたのだ。
志摩と学校側でどういうやり取りがあったかなどは、一切明かされていない。
大矢も、体重の管理に苦労していたであろうことは、想像に難くなかった。
誰もが身を削るようにして、ほんの一握りの人間しか栄光を手にし得ない世界で闘っている。
あいだけが、特別なのではなかった。
頭ではわかっていても、あいの覚悟を知っているだけに、美冬はやりきれない思いだった。
歯噛みしたところで、しかし、どうすることもできないのだ。
自分にそう言い聞かせた。
美冬は教授から頼まれていた細々とした仕事を片付けてから、車で姉夫婦の家へ向かった。
入間の閑静な住宅街である。
車を車庫に入れた。
インターホンを鳴らすまでもなく、姉が出迎えてくれた。
甥の聡太が、リビングのソファに横になっていた。
美冬が顔を見せると、上体を起こした。
「落馬して、足の骨を折ったんだって?」
「なんで知ってるの」
「君のお母さんが連絡してきたんだよ」
「騒ぐほどの怪我じゃないのに」
聡太の批難するような視線を、姉は、夕飯の用意をしなくちゃね、と言ってそっけなく躱した。
「なにか手伝う?」
「いいわよ。今日は泊まっていくでしょう。少し時間がかかるから、先に呑みはじめていていいわよ」
「やった」
美冬は冷蔵庫を開け、缶ビールをもってソファに戻った。
「聡太、そっち寄って」
「怪我人なのに」
「騒ぐほどじゃあないんでしょ」
聡太は右足にギプスをはめていた。
落馬で最も危険なのは頭から落ちることだ。足の骨を折ったということは、裏を返せば、足から落ちることはできていたと言える。
「藤刀さん、また負けちゃったね」
同じ記事を、聡太も読んだらしかった。
「出だしは連勝だったのに」
「確かに一着は獲れなかったけど、コメントは前向きだった。納得のいく負け方だったんだと思うよ」
「なんとなく、わかる気がする」
聡太が、足のギプスに触れた。
「障害飛越の練習をしていて、落馬したんだ。悔しがってたら、手綱を離さず、足から落ちれたのはえらいって、乗馬クラブの人は褒めてくれた」
「痛くなかったの?」
「その時はね」
聡太が笑ったので、美冬も笑い返した。
キッチンから油の撥ねる音が聞こえ、食欲を誘う香ばしい匂いもしてきた。
ビールをひと缶空ける頃に、姉が揚げ物を盛った皿を運んできた。汁物や米を三人分よそうのは美冬がやった。
夜が更けていった。
聡太が、夫婦の寝室に引っ込んだ。子供部屋は二階にあり、足が治るまでは一階の寝室を使わせるのだろう。
義兄は、出張で留守にしていた。
聡太が寝ると、姉が熱燗を出してきた。
杯を重ねた。
姉は乗馬クラブでの聡太の様子を話すとき、饒舌になる。独り身の美冬は、聞き役に徹した。
「あんた、いい人はいないの?」
姉が訊いてきた。かなり酔ってきていて、呂律が回らなくなってきている。
美冬も同じ量の酒を飲んでいるが、酔いは遠かった。
酔ったふりは、よくする。その方が楽しいからだ。したたかに酔った経験は、数えるほどしかない。
美冬が答えをはぐらかしている間に、姉が動かなくなった。
酔い潰れた姉を、寝室に連れて行った。
聡太は、床に布団を敷いて、そこで眠っていた。
旦那と使っているのであろうベッドに、姉を横たわらせた。
リビングに戻ってからも、美冬は手酌を続けた。
「私はお姉ちゃんみたいにはなれないな」
呟いた。
かつては、社交的で友人の多かった姉を羨んでいた。いまは、姉は姉だ、と思うだけである。そして、自分は、どこまでいっても自分なのだ。
競馬と酒が好きなのは、父親譲りだった。
その父が脳腫瘍で早くに死んだのが、医学を志したきっかけと言えば言える。
医術で救える命があれば、掌からこぼれ落ち、失われる命もある。
零れ落ちる命がある限り、医者であり続けるのだろう、とこの頃考える。
誰に似たのでもない。それが自分だ、というだけのことだ。
美冬は、冷めてきた酒を喉に流し入れた。
一升瓶から徳利に酒を注ぎ、燗にするために席を立った。




