藤刀あい ⑥
調教師になり、三度目の冬が訪れた。
天道は、北本、沼倉と揃いのジャンパーを着て、関係者入口から東京競馬場に入った。
ジャンパーは厩舎のユニホームとしてCRA(中央競馬協会)に申請し、登録されたものだ。
ジャンパーの他に、夏用のポロシャツと、通年向けのトレーナージャケットを登録してある。
登録済みの服装でなければ、調教師や厩務員は、開催中の競馬場への入場が認められなかった。
「天道さん、藤刀の模擬レース、見てますか?」
ラクシュの出走準備が整い、騎乗する西を待つ間、北本が話しかけてきた。
第三、四回の模擬レースは、東京競馬場で行われていた。それで北本の頭に、あいのことが思い浮かんだのか。
このタイミングであいの話題を出してきた北本に、天道は首を傾げる気分になった。
「見ているよ。第三回はともかく、第四回の芝千六百の内容はよかった。一着は、正士郎に獲られたが」
第三回のときは、明らかにあいのミスで、勝利を逃していた。
入っていけるはずのポジションに入らず、同期の杉本に奪られた。
結果、杉本にはコーナーで差をつけられ、中団の中で揉まれて苦しむ展開となった。
馬との折り合いもいま一つで、最終直線でもっと突っ込んで行けたはずだが、馬に余力を残したままレースを終えてしまっていた。
第四回模擬レースは、欠点らしい欠点もなく、あいの持ち味である馬と息の合った騎乗ができていた。
「諏訪正士郎と向かい正面から迫り合って、最後はハナ差でしたね。第四回は、確かオーダーに従ってレースをしていたはずですよね。それがなければあるいは」
「特定の学生が不利になるオーダーは出されない。勝つ機会は、均等に与えられていたはずだ」
あいが受けていたオーダーは、第一コーナーまで中団で馬の体力を温存する、といったところだろう。
調教で見えてきた馬の気質によって、調教師からそういう作戦を騎手に提案するときはある。
常に、レースに勝つことを考えている。
ただ、なにをもって勝ちとするかは、出走馬の組み合わせやコースの状況、調教した馬の仕上がりなどを考慮して、変わったりする。
実際のレースでは、はじめから入着のみに焦点を当て、無理に一着を狙わないこともある。
模擬レースで、そこまで消極的なオーダーが出されることは、多分ないだろう。
「零との勝負を意識しすぎたんだと思う。第二回模擬レースのあと、来校していた零と会ったらしい」
「みたいですね。その場に、エマ・ウォーカーもいたとか」
顔の広い北本は、当然のごとく知っていた。
三人がどんな言葉を交わしたのかまで、トレセンには聞こえてこない。三人が会った、という話が伝わってきただけである。
同期に負けて、あいは目を醒ましたはずだ。
第四回レースでの、あいと正士郎の勝敗の分かれ目は、馬の差だったと天道は思っているが、口に出して言うことではなかった。
正士郎が馬の実力を最大限引き出したのは紛れもない事実だ。それこそが騎手の実力でもある。
「天道さん、北本さん、そろそろ」
沼倉が声をかけてきた。馬装を整えたラクシュを曳いている。
ほどなくして、検量を合格した西がやってきた。
「体調はどうですか、暢さん」
「直前の追い切り、急に穴をあけてしまって悪かったな、駿。もう平気だ。ラクシュの脚を引っ張る真似はしないさ」
勝負服を身にまとった西は、ラクシュに目を向けた。
「きれいな目だ。機嫌もよさそうに見える」
そう言う西の顔色も、悪くなかった。
西は三日前に体調を崩し、予定していた追い切りは北本が代わりを務めた。
西は二日間、回復に努め、昨日のレースから復帰しているので、言うほど懸念はしていなかった。
「馬券は、三番人気か」
「ええ。一番はプロポロス、二番はファステラウンです」
四歳馬となったこの二頭は、昨シーズンから何度か闘ってきている。
直近は六月の宝塚記念で、そこではプロポロスが勝利した。
ラクシュを加え、三頭が真っ向勝負をするのは、今日のジャパンカップが初となる。
他にも、エマ・ウォーカーの騎乗馬も注目されている。
エマは、短期免許を取得して十月初旬から日本競馬に参戦していた。
先週のマイルチャンピオンシップでは六番人気の馬に騎乗し二着と好成績を挙げた。
エマの騎乗馬は、父親がオーストラリアの競走馬だが、生まれも育ちも日本だった。この馬も、質は決して低くない。
係員がやってきて、零とファステラウンがパドックに出た、と報せてきた。
「よし、俺たちもパドックに向かうか」
西が北本に言った。北本が緊張した面持ちで頷く。
北本は、緊張を解したくて模擬レースの話を振ってきたのかもしれない。
天道は沼倉と、モニターがある場所へ移動した。
本馬場にラクシュと西を送り出した北本が、走って戻って来た。
ファンファーレが吹かれ、馬がゲートへ入っていく。
各馬が出走した。馬群の中から、早々にプロポロスが抜け出した。
同じく、先行しようとした外国枠の二頭がいたが、プロポロスは歯牙にも欠けなかった。
西とラクシュは、落ち着いた様子で中団のやや後方の位置につけた。
エマの馬が中団を引っ張るかたちで、零とファステラウンがその後ろにぴったりとついている。
零は、エマを警戒しているようだ。
先行を諦めた外国馬が、中団に呑まれた。
ただ呑まれたように見えて、他の馬を風避けに使い、体力を温存する作戦に切り替えた可能性はある。
エマは、馬群を引き連れながら、コーナーを回り、バックストレッチの坂を駈け上がった。ラクシュとファステラウンは、まだ動かない。
プロポロスは、およそ五馬身差を稼ぎ、独走する。第三コーナーの下り坂で、さらにスピードに乗った。
第三コーナーで詰まると、コーナーを抜けた先の急坂が苦しくなる。プロポロスはほぼ理想的な状態で坂に突入した。
零のファステラウンが、第三コーナーでエマを躱し、飛び出した。
エマが追う。西のラクシュも、後方から二頭、三頭と抜き、大きく上がってきた。
勾配のある坂が、馬の脚を削る。
中団に控えていた外国馬も仕掛けた。しかし、抜け出せない。馬群全体から立ち昇る湯気のような闘気が、目に見える気がした。
直線三百メートルを残し、馬群から抜けたのは三頭だった。
五馬身あったプロポロスのリードがみるみる縮められていく。西のラクシュ、零のファステラウンが、プロポロスを捉えた。
プロポロスが喘ぐ。ここからさらに伸びるほどの脚は、残っていない。
ラクシュとファステラウンが、プロポロスを抜いて並んだ。
もう一頭、馬群から抜けてきていたエマの騎乗馬も、二頭の間を割ってやろうと、突っ込んできている。
北本は、吼えなかった。
隣から聞こえてきたのは、呻きに近い、北本の吐息だった。
「天道さん」
俯いて一言も発しない北本を気遣いつつ、沼倉が視線を向けてきた。
「結果は結果だ。受け止めて、また次に向けて積み重ねるしかない」
このあとインタビューを受けなければならないが、そこでも、これ以上のことは言えないだろう、と天道は思った。
西もラクシュも、持てるものすべてを出し切った。しかし一着には届かなかった。
零とファステラウンが、一枚上手だった、というだけのことだ。
「よう、天道」
「下地さん」
検量所の別のモニターでレースを見ていた下地が近づいてきた。
レース前に見かけた時は暗めの色のテンガロンハットを被っていたが、いまは手に持っている。
勝ったファステラウンを調教した日野宮は、別の場所で観戦しているのか、検量所に姿がなかった。
「お互い、ファステラウンにかっさらわれた」
「ま、仕方ありません。また出直しますよ。下地さんは、零になんて言葉をかけるんです?」
自分が育てた馬を負かした相手だが、下地と零は、師弟の間柄でもある。
プロポロスの馬主の意向で鞍を降ろされなければ、零がプロポロスに乗っていたはずだ。
「言葉などかけん。できれば、しばらく顔も会わせたくない」
「大人げないなぁ」
「いくつになったって、男の中身なんてのは子どもの頃とそう変わらん。お前もだろうが」
天道は苦笑した。
弟子に負けて、本気で悔しがっている下地が、若く見えた。
五十を超えて現役を続けている西も、若い。二人とも、肉体はともかく、精神は老いと無縁だった。
久瀬も、馬に乗せればまだまだ若かった。
老いない男たちがいる。一方で、若くして心が老いさらばえてしまう男もいる。
自分がどちらなのかは、自分だけがわかっていればいいことだ。




