藤刀あい ⑤
記録の映像を確かめるまでもなく、第三回模擬レースの一部始終を思い起こすことはできた。
第一回と、第二回の二鞍、計三度の模擬レースで連勝したからといって、慢心はしていなかった。
集中力も途切れさせていなかった。
ならば、なぜあのとき、絶好のポジションを見落とし、杉本に奪られるまで気づけなかったのか。
あそこで、自分の勝敗は決まったと、あいは考えていた。
杉本は少し離れた位置にいた。中団で、こちらに間合いを寄せて来たかと思うと、あいの左斜め前方の空隙に入り込んだ。
コーナーで、あいは中団に揉まれ、前へ抜け出せなかった。
杉本は、最適なコーナリングで中団と差をつけ、最終直線で見事な追い上げをした。
先頭争いをしていた正士郎と現役騎手、杉本と同時に外から上がっていった大矢を加え、四頭がほぼ横一線になってゴールする展開となった。
ビデオ判定で、一着が杉本、二着が正士郎、三着が現役騎手ということになった。
大矢の馬は、外を回った分、他の馬より消耗が激しかっただろう。
あれから十日が経った。
本格的に寒くなってきて、朝は馬の吐く息が白くなった。
だが、馬は辛そうではなく、むしろやっと過ごしやすい季節になったと、活き活きとしている。
あいは、馬房の掃除を済ませてから、オハナと連れ立って校内の放牧場に向かった。
放牧場といっても、大した広さはなかった。十数頭をいれただけで、馬は窮屈に感じる程度の広さだ。
鞍を着けていないオハナの背中に乗り、速歩で縦横に走った。
速歩以上を出すと、蹄が芝を深く抉ってしまう。
放牧場の芝は野芝で、いまは枯れた色をしているが、春には萌える。
蹄で抉ってしまうと、春になっても、その場所は土が露出したままになる。
満足したのか、オハナが自然と脚を止めた。あいはオハナの背中から飛び降り、枯れ草の上に寝そべった。
陽が出ているので、地面は底冷えするほど冷たくはなかった。
オハナも、あいの頭上で横たわった。
「オハナ、お腹に少しお肉がついた?」
現役を引退してどれほどになるのか、詳しくは知らなかった。少なくとも、今よりは引き締まった身体をしていたはずだ。
オハナの腹に手で触れてみた。
贅肉がついている感触はない。二年前より、少し皮の張りが失われて、それで肉がついたように見えたのか。
オハナは、老いはじめてきたのかもしれない。馬は人よりずっと早く歳を取る。
「私が卒業しても、まだまだ元気でいてね」
あいは添い寝をするようにオハナの肩に頭を預けた。
オハナは重そうでもなく、されるがままを受け入れている。
「模擬レースで負けちゃった。零ちゃんと勝負するまで全勝するぐらいじゃないと駄目だって、自分の中で決めていたのに」
誰かに、それを話したことはなかった。
一度負けると、いかにも傲慢な考えだったと気づいた。
同期を見下していたつもりはないが、心のどこかで、同期相手に負けるわけにはいかない、と考えていなかったか。
それは同期を侮っていたことにならないか。
「天道さんのところでいろんな経験をして、自分でもたくさんトレーニングして、なんだろう、まるで自分が物語の主人公にでもなった気分になっていたのかな。私はこれっぽっちも、特別じゃないのに」
同期全員が、自分の人生を懸けてここにいる。中途半端な気持ちで馬に乗っている同期など、一人としていない。
「第二回模擬レースのあと、零ちゃんが会いにきてくれて、中山で待ってるって言ってくれたんだ。嬉しくて、零ちゃんのことしか見えなくなっていたのかも」
第三回模擬レースの最中、絶好のポジションを見逃した。騎乗していた馬の余力も読み誤った。
ゴール後、騎乗馬は余裕を残していて、その分、最終直線ではもっと脚を使えたはずだった。
目の前のことが見えなくなっていたのだと、今なら、はっきりとわかる。
零に引き合わされた、オーストラリアを主戦場とするエマ・ウォーカー騎手に認められたことも、大きかった。
オハナが、前肢であいを押しのけてきた。
あいを遠ざけると、四肢で器用に反動をつけ、寝返りをうった。
背中を向けられてしまった。
「ごめん、泣き言だったね」
オハナの鬣を撫でると、寝返りした際についた細かい枯れ草がぱらぱらと落ちた。
休養日が明け、翌日から訓練の日々がはじまった。
午後の学科の時間は、ほぼ自主トレーニングの時間に充てられた。許可をとれば、馬と馬場に出ることもできた。
走路訓練は、レース形式が中心となった。
三日に一回程度、トレセン実習前に散々やった練習も反復して行われた。
競馬学校の実技訓練で、レースに活きないことはひとつもなかった。模擬とはいえ、実戦を経験すると、それがよくわかった。
一週間が経ち、第四回模擬レースが、東京競馬場芝千六百メートルで開催された。
今回は、事前に教官からオーダーがあった。
あいは、四着以下をとらないことと、第一コーナーを抜けるまでは中団で馬の脚を温存する騎乗を指示された。
騎手になれば、オーナーや調教師からの要求を含んで騎乗する場面が少なからずある、という話は聞いていた。
同期が一人ひとり呼び出され、オーダーを伝えられた。
誰が、どういうオーダーを受けたかは、他の人間は知らされない。それぞれ違うオーダーなのだろうと想像はできた。
第四回模擬レースでは、条件の中で駈けることが試される。
ただ、着順は決められておらず、出来レースとはいえない。どんなオーダーであろうと、ベストを尽くすというのは大前提だった。
パドックへ出て、同期七人が整列し、集まっている関係者に声を揃えて挨拶する。
「よろしくお願いしますっ」
あいの隣に立った正士郎が、これまでよりひと際気合の入った声をあげた。




