藤刀あい ④
第一戦と、馬を替え二鞍乗った第二戦。これまでの三戦で、あいが連勝していた。
意外な展開だと思う一方で、納得している自分もいることに、杉本は気づいていた。
正士郎や大矢は、どのレースでも圏内、つまり三着以内に絡む働きを見せていた。
第一戦では教官の小早川が、第二戦一鞍目では現役騎手が入着したものの、その他はあい、正士郎、大矢の三人が上位を占めていた。
正士郎と大矢が、まだ一勝も挙げられていないのは、意外だった。
入学当初から、同期の中でこの二人は頭一つ分抜けて巧かった。
二人とも幼少から乗馬クラブに所属していて、アマチュアの馬術大会では常勝だったのだ。
あいは、競馬学校に入学するまで馬術未経験者だった。
ただ、乗馬からして未経験だった自分とは違い、あいは最初から馬をかなり乗りこなせていた。
地元に牧場があり、そこで馬と姉妹同然のようにして育ったのだという。
碌な乗馬経験がないのは、同期では杉本一人だった。
自分が模擬レースで勝負に絡んでいけないのはしかたないと、半分諦める心境に、杉本はなっていた。
第一戦では、開始直後に先頭に躍り出た。
それは馬が勝手に飛び出し、結果として好スタートを切るかたちになっただけで、杉本がなにかしたわけではなかった。
驚きはしたが、すぐさま冷静になり、先行して逃げ切ってやろうと考えた。
模擬レースで用意される馬は、ほとんどが三、四歳の未勝利か一、二勝クラスの現役馬だ。
馬の質という点では、大きな差はないと思えた。
あのとき、先頭を逃げる以上、どれだけコースをタイトに回れるかだ、と考えた気がする。
正直、よく覚えていなかった。冷静に考えていたようで、実は冷静ではなかったのかもしれない。
内ラチに馬を寄せようとした。それははっきりと覚えている。
どう手綱を捌いたか、どう下半身を使ったか。レース後に、何度も木馬で再現し、反省した。
銜を効かせてしまった。結果、前進気鋭だった馬の気持ちが萎え、失速した。
そのとき後方にいた大矢が、巻き添えを食うはめになっていた。
それを知ったのは、レース後、撮影された映像を確認してからだ。
前へ進む姿勢が足りていない馬に、銜を使い、気持ちを奮い立たせることはやる。
真逆のことをして、好機を逃した。
一度逃した好機を、再び手繰り寄せるには、千メートルという距離はいかにも短かった。
「杉本、着いたぞ」
大矢に声をかけられた。瞼を開いた。バスの窓の外に、東京競馬場の建物が見えた。
「集中してたな。勝つイメージはつくれたか」
移動中、イメージトレーニングをしていたと、大矢には思われたらしい。
「寝てただけだよ」
「嘘つけ」
大矢は笑って先にバスを降りて行った。杉本もあとに続いた。
寝ていたのは嘘だ。しかし、自分がなにを考えていたのか、よくわからない。
ぼんやりとしていた。強いて言うなら、そうなのか。
気づくと、馬の背に揺られていた。
白毛の誘導馬を先頭に、パドックを回り、本馬場に出た。
第三回模擬レースは、東京競馬場ダート千四百である。
「不思議だな。こんな大舞台に立ったら、もっと圧倒されるもんかと思っていたのに、こんなになにも感じないなんて」
返し馬の最中だった。
馬を少し駈けさせ、杉本はすぐ常歩に落とした。同期とは少し離れていて、近くには馬がいるだけだ。
外ラチの向こうに、記者や競馬関係者の姿が見えた。群衆というほどの数ではない。
ダートと隣り合って、ターフがあり、十月にも関わらず青々と芝が茂っていた。
競馬を知りたての頃は、なぜ冬でも芝が枯れないのか、不思議に思ったものだ。
杉本は、砂地に落ちる自分と馬の影に眼をやった。
「俺は、どうしちまったんだろう。まさか、本気で勝つことを諦めちゃったのかな?」
独り言ではなく、馬に語りかけた。
騎乗しているのは鹿毛の三歳未勝利馬だ。やや明るい赤褐の毛色だった。
「お前も、まだ勝ったことないんだってな。俺と同じだ」
馬が左耳を揺らした。こちらの言葉は聞いているのだろうが、それを馬がどれぐらい理解しているのか。
馬にも喜怒哀楽があるのはわかる。
あいは、馬が、人と同じかそれ以上にまっすぐ意思を伝えてくると言う。
そこまで明確に馬の意思を感じた経験が、杉本にはなかった。
「お前、俺のことをぼんやりしたやつだと思ってるな。その通りだ。そんな奴を乗せて走らなきゃならないお前は、運がない。運がないから、レースにも勝てない」
馬が、煩わしそうに首を振った。
怒らせたのかもしれない、と思ったが、やはりはっきりとはわからなかった。
ゲートに入り、赤い小旗が振られた。
四度目の勝負。全員が、有利なポジションを狙って一斉に動く。杉本に、焦りはなかった。
左にいるあいの前に、スペースが空いていた。ポジションとしては絶好だと思えたが、あいの方が近かった。
あいは、いつまでもそのスペースへ入って行かなかった。
杉本は、馬をそこへ寄せた。すんなりと、ポジションを獲れた。
コーナーに差しかかり、中団のあるかなきかの隙間を、切り進んだ。
馬群から抜け出た。先頭で、正士郎と、現役騎手が迫り合いをしている背中が見えた。
第二コーナーを回り、直線に立った。鞭。前の二頭が蹴り上げた砂が、顔に降りかかってくる。ゴーグルをしているので、瞼は開いていられた。
青いゼッケン。正士郎の乗っている馬が、かすかに垂れる気配がした。
内側。道が開けた。全身の血が、かっと熱くなった。
前へ押し出していった。現役騎手の乗る馬と並んだ。
外から、大矢もあがってきている。上がり三ハロンをきった。もつれ合ったまま突っ込んだ。
ターフビジョンに着順が表示されるのに、少し時間がかかった。
結果が出た。
「頑張ってくれて、ありがとうな。模擬レースとはいえ、初勝利だ。これで、お前にも運が巡ってきたらいいな」
馬に言った。鬣を梳るように首の後ろを搔いてやる。
鬣と尻尾の毛は他より暗い色で、陽射しを浴びている間だけやや赤みがかっているのがわかった。日陰に入ると、黒と見分けがつかなかった。
パドックに戻り、馬を降りた。厩務員の手で馬が曳かれていく。
インタビューを受けた。馬に勝たせてもらった、というようなことを答えた。
更衣室に戻る前に、トイレに寄った。
洗面台で水を両掌に溜め、顔を濡らした。
鏡に映る自分と、目が合った。
正士郎が入って来た。
「よう」
正士郎の方から、声をかけてきた。
「ああ」
「あいつに、一泡吹かせられたな」
小便をはじめた正士郎が、手元に視線を落としながら、言った
「あいつ?」
「藤刀だ」
「ああ」
三勝して、気が緩んでいたのか。それとも単に、自分の前に空いている絶好のスペースに気づけなかったのか。
「まぁ、負けたのは俺も同じだ。次は勝つ。一勝もできずに終わったのでは、格好がつかない」
「まるで、格好つけたい相手がいるみたいに聞こえるよ、正士郎」
「いる」
「男? 女?」
「女」
「それ、大矢や、他のやつらは?」
「知らない。言う気もないな」
「嬉しいな。俺になら言ってもいいと思ってくれたのか」
「嬉しがるなら、初勝利を嬉しがれ。インタビューでも、ぼんやりしていたぞ、お前」
「実感がなくてさ。正直、まぐれな気がしてる」
「まぐれなものか」
正士郎が言った。小便の音が止み、いちもつを振るってズボンにしまった。
「一つひとつ積み重ねた結果だろう」
「三年間、努力を積み重ねてきたのは、みんな同じだ」
「お前は、同期の中では一人だけ乗馬未経験だった。お前しか知らない苦労も、あったはずだ」
「それは」
言葉が詰まった。涙が溢れ出してきた。突然のことに、杉本は狼狽した。
「泣くのはここだけにしておけよ。勝ったやつが泣いていたら、負けた俺たちはどんな顔をしていいかわからない」
杉本は深く頷き、そのまま顔を伏せた。
正士郎がドアを開けてトイレを出て行く音がした。
誰かに認めてもらいたいと思ったことは、一度もなかった。競馬が好きで、騎手に憧れた。それだけだったのだ。
自分の心は、自分だけのものだ。だからどれだけ苦しくとも、人に愚痴や弱音を吐くことはしなかった。
それでも、自分を見てくれている同期がいた。自分も、同期の苦しみを見てきた。競馬学校で同じ飯を食い、笑い、怒り、苦しみ、ともに過ごしてきたのだ。
鏡を見た。
杉本は涙の痕を消すつもりで、勢いよく水を顔に叩きつけた。




