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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第二十二話

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藤刀あい ③

 エマ・ウォーカーが短期騎乗免許を取得し、来日した。


 零がトレーニングセンターで調教騎乗をいくつかこなしている間に、下地経由で、エマから競馬学校に到着したと報せがきた。


 調教騎乗を終えると、すぐさま着替え、エージェントの松田に車を出してもらってエマに会いに行った。


「久しぶり、エマ」


「ああ。遅れたが、昨年の天皇賞、おめでとう」


 競馬学校の北端にある、国際厩舎だった。

 今週末に京都競馬場で開催される国際戦に出走するオーストラリアの馬が、検疫を受けている最中だった。

 この馬の移送に、エマは同道してきていた。


「ありがとう」


「日本人女性騎手では初のGⅠ制覇だ。あんたはルックスもいいし、メディアがほっといてくれないだろう?」


「週に一、二回は取材や撮影の仕事が入るけど、それぐらいよ」


「うそだろう? 日本人は、そこまで冷めているのか?」


「下地さんが調整されているんですよ。零が騎乗に集中できるように」


 零とエマの話を聞いていた松田が、英語で言った。


「英語、お上手ですね。オーストラリアを拠点に騎手をやっているエマウォーカーです」


「存じてます。零のエージェントをやっています、松田です」


 二人が握手を交わす。零は時間が気になり、時計を探したが、検疫室の前の廊下には見当たらなかった。 

「あなたが、松田さんか。話には聞いています。優秀で、情熱的な方だと」


 松田が照れるように笑った。


「ねえ、それより早く行きましょう」

 零は、二人の間に割って入った。


「おっと、そうだね」


 エマがシャツの袖に隠れていた腕時計を確かめた。

 今日の模擬レースの開始時間は、あらかじめエマにも伝えてあった。


 三人で、調教スタンドに上がった。


 学校側の許可はとってある。エマは午後から、騎手課程生一年とのレクリエーションが予定されているという。


 調教スタンドの一室に入ると、騎手課程のジャージを着た学生が数人、先にいて観戦していた。


「もう、二人がのんびり挨拶なんかしているから、一鞍目に間に合わなかったわ」


「わるかったね。まぁ二鞍目には間に合ったんだ、いいじゃなかいか」


 零の文句に、エマは鷹揚に手を振って答えた。


「あ、あの、今春零騎手に、エマ・ウォーカー騎手ですよね。僕、騎手課一年の」


「あとにしてくれる? 私たち、模擬レースを観に来たの」

 近づいてきた後輩に、零はぴしゃりと言った。


「す、すみません」


「そうだ、一つだけ。一鞍目の結果は、どうだったのかしら」


「藤刀先輩が、一着でした。二着が諏訪先輩で」


「そ、ありがとう。もういいわ」


 あどけなさの残っている坊主頭の後輩は、すごすごと仲間のもとへ戻っていった。


「気の毒に。目下にも紳士的に対応するのが大人だぞ、零」


「どの口が。いいから、エマ、ほら、はじまるわ」


「ふむ、どれどれ。どの子が噂のあいちゃんだい」


「あれよ、あの、赤いゼッケンをつけている」

 零は指差した。


 ちょうど、騎手課三年の七人が返し馬を終え、ゲートに入るところだった。ゲートに隠れ、あいの姿が見えなくなった。


「彼女があいか」

 エマが言ったのは、馬が一斉にスタートを切った直後だった。


 第二回模擬レースの二鞍目は、三年前と同じなら千七百メートルのはずだ。

 前日に降った小雨の影響で、ダートはやや重そうに見える。


 教官二人と現役騎手一人を加えた、十頭立てのレースだった。


 あいが単独で先頭に立っている。その後方に青と緑のゼッケンを着た学生。現役騎手は、明らかに立ち上がりで遅れ、中団で詰まっている。


 緑のゼッケンを着た、恰幅のいい学生が、猛烈な追い込みをはじめた。あいとの差を、じわじわと縮めていく。その緑ゼッケンの背中を風避けにするように、青ゼッケンの馬が巧みに上《のぼ》っていく。


 しかしどちらも、逃げに逃げるあいの馬の尻を捉えることは敵わなかった。


「なるほど、零が惚れこむのもわからなくないな。胸のすくような馬の乗り方をする」


 感嘆するエマを尻目に、零は、放心していた。


「あれが、あい?」


 はじめてあいの騎乗を目の当たりにしたのは、入学試験の実技考査の最中だった。


 アクシデントがあり、馬が一頭暴走した。その馬を宥めるため、あいはたまたま近くを通りがかった零に声をかけてきた。


 零の連れていた裸馬に跨ると、あいは暴走する馬に近づいていった。あいが手綱を取る馬に、行く手を何度か遮られると、混乱していた馬は落ち着きを取り戻したのだ。


 それからしばらくして、トレセン実習を開始した直後のあいと再会した。


 あいは、現役馬に振り落とされ、愕然としていた。しかし、あいならばすぐ上達すると、零は確信していた。


 実際、その通りになった。

 あいが一年に及ぶトレセン実習を終える何日か前に、二人で馬を並べて駈けた。


 名目としては調教騎乗だったが、天道から取り立てて指示もなく、馬に任せてのびのびと駈けさせればよかった。


 あの日、見事に現役馬を乗りこなすまでに成長したあいとも、出逢ったばかりのあいとも、今日のあいは違っていた。


「そう、闘うとき、あなたはそんな表情をするのね」

 呟いていた。


 あいの表情を視認できる距離ではなかった。しかし瞼を閉じれば、はっきりと、レース中のあいの顔つきを思い浮かべることができた。


 あいと一体になった馬の呼吸も、ここまで伝わってくるかのようだった。


「あんた、いつまでも浸ってるんじゃないよ」

 エマに肩を叩かれ、現実に引き戻された。


「頼まれた午後のレクリエーションまで、まだ時間がある。ここを降りて、あいを私に紹介しな。いつか彼女も、私の家に招待したくなった」


「それ、いいわね。エマの家の牧《まき》にいた、あの二頭は、元気にしている?」


「ああ。二人で野駈けをしたのが、一年ちょっと前か。二頭とも、あの頃とさほど変わりないよ」


「広大な大地を思うさま駈けるのが、あんなに気持ちがいいなんて、私は知らなかったわ」


「日本ではできないものね」


「ええ。あいにも、あの経験をさせてあげたいわ。ううん、一緒に野駈けをしたいな」


「すると私は、愛馬をどちらもあんたたちにとられて、家に置いてきぼりにされるのかい?」


「走ってついてくる?」


 エマが、誘い通りに蹴り上げてきた。だからすんなり躱せた。


 松田ははらはらとした表情で、英語を介さない学生たちはただ驚いていた。


「蹴り一発分。貸しにしとくか」


「いつまで?」


「白々しい。ジャパンカップに決まってるさね」

 エマが、口もとだけで笑った。


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