藤刀あい ③
エマ・ウォーカーが短期騎乗免許を取得し、来日した。
零がトレーニングセンターで調教騎乗をいくつかこなしている間に、下地経由で、エマから競馬学校に到着したと報せがきた。
調教騎乗を終えると、すぐさま着替え、エージェントの松田に車を出してもらってエマに会いに行った。
「久しぶり、エマ」
「ああ。遅れたが、昨年の天皇賞、おめでとう」
競馬学校の北端にある、国際厩舎だった。
今週末に京都競馬場で開催される国際戦に出走するオーストラリアの馬が、検疫を受けている最中だった。
この馬の移送に、エマは同道してきていた。
「ありがとう」
「日本人女性騎手では初のGⅠ制覇だ。あんたはルックスもいいし、メディアがほっといてくれないだろう?」
「週に一、二回は取材や撮影の仕事が入るけど、それぐらいよ」
「うそだろう? 日本人は、そこまで冷めているのか?」
「下地さんが調整されているんですよ。零が騎乗に集中できるように」
零とエマの話を聞いていた松田が、英語で言った。
「英語、お上手ですね。オーストラリアを拠点に騎手をやっているエマウォーカーです」
「存じてます。零のエージェントをやっています、松田です」
二人が握手を交わす。零は時間が気になり、時計を探したが、検疫室の前の廊下には見当たらなかった。
「あなたが、松田さんか。話には聞いています。優秀で、情熱的な方だと」
松田が照れるように笑った。
「ねえ、それより早く行きましょう」
零は、二人の間に割って入った。
「おっと、そうだね」
エマがシャツの袖に隠れていた腕時計を確かめた。
今日の模擬レースの開始時間は、あらかじめエマにも伝えてあった。
三人で、調教スタンドに上がった。
学校側の許可はとってある。エマは午後から、騎手課程生一年とのレクリエーションが予定されているという。
調教スタンドの一室に入ると、騎手課程のジャージを着た学生が数人、先にいて観戦していた。
「もう、二人がのんびり挨拶なんかしているから、一鞍目に間に合わなかったわ」
「わるかったね。まぁ二鞍目には間に合ったんだ、いいじゃなかいか」
零の文句に、エマは鷹揚に手を振って答えた。
「あ、あの、今春零騎手に、エマ・ウォーカー騎手ですよね。僕、騎手課一年の」
「あとにしてくれる? 私たち、模擬レースを観に来たの」
近づいてきた後輩に、零はぴしゃりと言った。
「す、すみません」
「そうだ、一つだけ。一鞍目の結果は、どうだったのかしら」
「藤刀先輩が、一着でした。二着が諏訪先輩で」
「そ、ありがとう。もういいわ」
あどけなさの残っている坊主頭の後輩は、すごすごと仲間のもとへ戻っていった。
「気の毒に。目下にも紳士的に対応するのが大人だぞ、零」
「どの口が。いいから、エマ、ほら、はじまるわ」
「ふむ、どれどれ。どの子が噂のあいちゃんだい」
「あれよ、あの、赤いゼッケンをつけている」
零は指差した。
ちょうど、騎手課三年の七人が返し馬を終え、ゲートに入るところだった。ゲートに隠れ、あいの姿が見えなくなった。
「彼女があいか」
エマが言ったのは、馬が一斉にスタートを切った直後だった。
第二回模擬レースの二鞍目は、三年前と同じなら千七百メートルのはずだ。
前日に降った小雨の影響で、ダートはやや重そうに見える。
教官二人と現役騎手一人を加えた、十頭立てのレースだった。
あいが単独で先頭に立っている。その後方に青と緑のゼッケンを着た学生。現役騎手は、明らかに立ち上がりで遅れ、中団で詰まっている。
緑のゼッケンを着た、恰幅のいい学生が、猛烈な追い込みをはじめた。あいとの差を、じわじわと縮めていく。その緑ゼッケンの背中を風避けにするように、青ゼッケンの馬が巧みに上っていく。
しかしどちらも、逃げに逃げるあいの馬の尻を捉えることは敵わなかった。
「なるほど、零が惚れこむのもわからなくないな。胸のすくような馬の乗り方をする」
感嘆するエマを尻目に、零は、放心していた。
「あれが、あい?」
はじめてあいの騎乗を目の当たりにしたのは、入学試験の実技考査の最中だった。
アクシデントがあり、馬が一頭暴走した。その馬を宥めるため、あいはたまたま近くを通りがかった零に声をかけてきた。
零の連れていた裸馬に跨ると、あいは暴走する馬に近づいていった。あいが手綱を取る馬に、行く手を何度か遮られると、混乱していた馬は落ち着きを取り戻したのだ。
それからしばらくして、トレセン実習を開始した直後のあいと再会した。
あいは、現役馬に振り落とされ、愕然としていた。しかし、あいならばすぐ上達すると、零は確信していた。
実際、その通りになった。
あいが一年に及ぶトレセン実習を終える何日か前に、二人で馬を並べて駈けた。
名目としては調教騎乗だったが、天道から取り立てて指示もなく、馬に任せてのびのびと駈けさせればよかった。
あの日、見事に現役馬を乗りこなすまでに成長したあいとも、出逢ったばかりのあいとも、今日のあいは違っていた。
「そう、闘うとき、あなたはそんな表情をするのね」
呟いていた。
あいの表情を視認できる距離ではなかった。しかし瞼を閉じれば、はっきりと、レース中のあいの顔つきを思い浮かべることができた。
あいと一体になった馬の呼吸も、ここまで伝わってくるかのようだった。
「あんた、いつまでも浸ってるんじゃないよ」
エマに肩を叩かれ、現実に引き戻された。
「頼まれた午後のレクリエーションまで、まだ時間がある。ここを降りて、あいを私に紹介しな。いつか彼女も、私の家に招待したくなった」
「それ、いいわね。エマの家の牧にいた、あの二頭は、元気にしている?」
「ああ。二人で野駈けをしたのが、一年ちょっと前か。二頭とも、あの頃とさほど変わりないよ」
「広大な大地を思うさま駈けるのが、あんなに気持ちがいいなんて、私は知らなかったわ」
「日本ではできないものね」
「ええ。あいにも、あの経験をさせてあげたいわ。ううん、一緒に野駈けをしたいな」
「すると私は、愛馬をどちらもあんたたちにとられて、家に置いてきぼりにされるのかい?」
「走ってついてくる?」
エマが、誘い通りに蹴り上げてきた。だからすんなり躱せた。
松田ははらはらとした表情で、英語を介さない学生たちはただ驚いていた。
「蹴り一発分。貸しにしとくか」
「いつまで?」
「白々しい。ジャパンカップに決まってるさね」
エマが、口もとだけで笑った。




