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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第二十二話

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藤刀あい ②

 現役の競走馬が、前日のうちに、馬運車で競馬学校に連れて来られた。


 第一回模擬レースで騎乗する馬たちである。誰がどの馬に乗るかは、あらかじめ通告されていた。


 あいは、寮の自室の布団から起き出し、窓辺まで行きカーテンを開いた。

 外はまだ暗いが、もう一度横になっても眠れそうになかった。


 一年生の頃、加奈恵にもらった蹄鉄を、ドアに吊るしてある。それを手に取り、ベッドに腰かけ、夜が明けるのをじっと待った。


 トレセンでの実習を終え、学校に戻ってくると、新しい一学年が入学してきていた。昨年に続き、今年も女子が二人、騎手課程に入学していた。


 新入生二人の名前は覚えたが、寮で顔を合わせても挨拶を交わす程度で、少し距離を感じた。


 一期下の後輩とは、相談を受けるうちに、なんでもない話をするぐらいにはうち解けていた。ただ、帰校してからは会話をする時間はほとんどなかった。一期下の代は、あいたちの帰校と入れ替わりで、トレセン実習に出発したのだ。


 夜が明けた。


 寝間着を着替え、男子寮へ行き、同期とともに検量を受けた。

 朝食を摂り、厩舎作業にとりかかる。

 競馬学校に入学し、何度もやってきたことだが、一度たりともおざなりにはしなかった。


「おはよう、オハナ」


 厩舎へ行くと、オハナはあいが近づいてくる気配を感じとっていたのか、馬房の柵から顔を出して待っていた。


 近づくと、鼻先を押し付けてきた。

 首を抱き、耳の付け根あたりを揉むように撫でてやってから、外へ連れ出し、馬繋ぎに繋いだ。


 掃除を済ませた馬房にオハナを戻し、飼料を与えた。


 オハナが食べる様子を眺めていたかったが、ゆっくりしている時間はなかった。


 寮へ戻り、先日支給された真っ白な勝負服に袖を通した。


 同期も、各々の勝負服で寮から出てきた。服の上に、各自色の違うゼッケンをつけている。


 厩務員課程生が管理している大厩舎を訪ねると、すぐに模擬レースで騎乗する現役馬が曳いてこられた。


「今日はよろしくね」


 昨日顔合わせをしたばかりの、四歳牡馬である。黒鹿毛で、眉間から鼻先にかけて白い墨汁を垂らしたような模様が入っている。


「揃っているな」

 教官の小早川が来て、一同を見渡した。


 小早川は紺地の勝負服で、左脇に鞭を挟み、グローブをはめた。


「では、今から馬場に出るぞ。二時間で、できるだけ馬のことを掴め。第一回模擬レースは予定通り、十時に開始する。いいな」


 七人の返事が秋晴れの空に響いた。


 鞍に上がり、馬場に移動した。


 脚を消耗させない程度に運動させ、銜や手綱への反応を確かめていった。


 性格など、事前に申し送りされているが、実際に乗ってみなければわからないことの方が多い。


「相性はよさそうに見えますが、どうです、乗ってみて、なにか気になることはありますか?」

 あいの騎乗馬を担当する厩務員課程の上級生が、馬場の囲いの外から声をかけてきた。


「大丈夫です。この馬のこと、だいたいわかりました。あとは、他の馬に対する反応を、少し確かめてみたいです」


「まだ時間もありますし、試しておきましょうか」


「はい」


 あいは馬首を返した。大矢と杉本に声をかけた。今日のレースのことを考え、左回りを意識した部班運動を行った。


 他の馬との距離が近くても、尻込む様子はなかった。駈けてみてどうなのかは、レース直前の返し馬で確かめるしかなかった。


 小早川の声がかかり、運動を切り上げた。


 馬場の外に出て、担当の厩務員に手綱を預けてから、鞍を降りた。


「わ、たくさん人が来てる」


 あいは、調教スタンドの方へ向かって歩いていく一団に気づいた。


「競馬は興行だ。抽選で選ばれたあの人たちが、俺たちの初レースのお客さんになるわけか」

 大矢が隣に来て言った。


「足を運んでくれたあの人たちに、がっかりされないレースにするぞ」


「おい、正士郎、緊張させるようなこと言うんじゃねえよ」


「緊張していても出せる力が、ほんとうの実力だ。緊張していて思うような騎乗ができないというのは、単に実力不足なだけだ」


 わかりきったことを言っている、とあいは思った。平静に見えて、正士郎も余裕がないのかもしれない。


 出走の時間が近づいてきた。

 走路へ出て返し馬をし、ゲート裏に移動した。


「私ね、ずっと今日を楽しみにしていたの。いま、すごいわくわくしてる」

 あいは、馬に話しかけた。


「でも、それと同じぐらい、怖いんだ」


 二ヶ月後、中山競馬場で行う第六回模擬レースに、零が出てくる。


 すでにGⅠのタイトルすら獲っている零と、肩を並べて勝負するのなら、せめてそこまでの模擬レースは全勝しておきたかった。


 綾の背中で、乗馬を覚えた。競馬学校で、天道厩舎で、ひとつひとつ壁を乗り越えてきた。


 誇りを懸けて勝負に挑むのは、高揚する反面、恐怖も伴う。


 怯懦は、自身の内側に巣食う魔ものだ。その魔ものを克服するには、目を背けないことだった。目を背けた瞬間、心は魔ものに食い荒らされる。


 目を背けたところで、切り離せはしないのだ。魔ものは、自分自身でもある。


「負けたくないな。レースにも、自分にも」


 馬が、その場で軽いステップを踏んで、鞍上のあいを揺すった。


「励ましてくれてる? 優しいんだね」


 馬は、さらに耳を動かしてあいになにかを伝えてくる。温かなものが、胸の裡《うち》に広がった。


 担当の厩務員に促され、ゲート内に進んだ。内枠と外枠の、ほぼ中間である。両隣に正士郎と杉本がいて、外枠に大矢、小早川が入る。全八頭でのレースだ。


「目一杯楽しもう」

 あいの声かけに応じて、馬は蹄で砂を掻いた。


 ゲートが開いた。


 真横から、杉本が飛び出した。あいが、スタートに遅れたわけではない。杉本自身、驚いた気配があった。


 杉本の馬が先行し、二馬身空いて正士郎、大矢と続く。


 あいはその後方、中団の位置についた。やや内ラチに寄っているが、間隔はとれている。


 他の馬との間隔も測りつつ、前に出る機を待とう、と決めた。


 前方の大矢の馬が、コーナー手前でもたついた。先行していた杉本の馬の脚が落ち、真後ろにいた大矢がその対処に遅れたのだ。


 あいは馬首の後ろにぴたりとつけた拳の動きで、馬に、いまが機だ、と知らせた。


 平坦なダートで、第一回模擬レースの距離は千メートルしかない。ピッチを刻み、二頭を横目に一息で前へ出た。


 コーナーを抜け、順位が入れ替わる。

 先頭に立った。


 右後方に正士郎がぴたりとついてきている。確かめられるのはそれだけで、他の馬の位置がどうなっているのかはわからなかった。


 このまま逃げ切れると判断した。

 最終直線へ突っ込んでいく。


 ひやりと、首筋に白刃を当てられたような寒気がした。同期ではない。小早川。後ろを振り返る余裕はないが、確実に迫ってくる。


 あいは、直感で鞭を振っていた。序盤で溜めた脚を使いきるつもりで馬を追った。


 突き放すつもりで、ストライドを大きくとらせた。依然として、首筋に白刃を当てられているような感覚は消えない。


 これが、小早川なのか。


 二年前に、走路一周のタイムを競い合ったときに見せつけられた精密な馬のコントロールとも違う。もっと冷たく鋭い、研ぎ澄まされた気迫。


 ゴールまでが、近くて遠かった。


 首筋に感じていた冷たい気配が、ふっと消えた。


「届かなかったか」


 小早川の声。馬脚を緩めた。


 振り返ろうとした途端、腰砕けになり、鞍から転げ落ちそうになった。


「馬鹿者、なにをしている」

 大人の手に腕を掴まれ、鞍に引き上げられた。


「小早川教官、すみません。なんだか、身体の力が抜けてしまって」


「無理もない。模擬とはいえ、初のレースだったのだ」


「実習では日に五、六鞍くらい平気でこなせていたのに」


「レースでの消耗の仕方は、調教とはまるで違う」


「そうですね、はじめて知りました」


「デビュー後は、これを日に三、四回こなしたりする。第一レースから最終レースまで、出ずっぱりで乗る騎手もざらにいる」


「まだまだですね、私」


「ああ、まだ未熟だ。しかし、今日のレースで勝ったのは、お前だ」


「勝ったんですか」


 実感がなかった。ゴール直前では、小早川の馬に差されることしか頭になかった気がする。


「クビ差だったよ。三着は諏訪だ。杉本は、出だしがよかった分、落ち込んでいるな」


 杉本は、あれから大きく順位を落としたようだ。

 あと一ハロンの距離があれば、自分も小早川の馬に抜かれたはずだ。


 それでも、勝ったのだ。まず、一勝。


 馬はまだ荒い息をしていた。その首を軽く叩き、あいの求めに全身全霊で応えてくれた馬を労った。


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