果てなき大地
エマは、馬の背に揺られながら、草原を進んだ。
モンゴルに来て、四日目になる。
言い出したのは零で、あいに会いに行こうと言われた。その時は、まさか行き先がモンゴルだとは思わず、軽い気持ちで誘いに乗った。
「なぁ、あと何日かかるんだい」
先頭を行く現地ガイドが、ちょっと振り返ったが、すぐ前に向き直った。
陽に灼けて褐色な肌をした、五十絡みの男である。こちらは女二人だったが、関心はなさそうだった。
言葉は、英語が多少通じるが、長い会話となると先にガイドが辟易して、口を閉ざしてしまうのだった。暗い雰囲気はなく、物静かな印象の男である。
零も、草原に入ってからは、あまり口を開かなくなった。
したがって会話の端緒となるのは、この四日間、ほとんどエマだった。
「あと二日ぐらいだと思う」
「あやふやだな」
「私も、来るのははじめてなのよ。どうしても気になるなら、ガイドに確かめたら?」
それはそれで億劫だった。
気軽に零の誘いを受けてしまったことを、エマは後悔しはじめていた。
行き先がモンゴルだと聞いた時に、断っておけばよかったようなものだが、まさか四日も草原を馬で進むことになるなどとは思いもしなかったのだ。
日暮れ前に、いくつかのゲルが集まった集落に着いた。
水は近くの川から汲んで甕に蓄えられていて、それを使って布を湿らせ、髪や身体を拭った。
「まるで時代から切り取られているみたいな場所だ」
「私は、だんだんこの旅が楽しくなってきたわ。ここの、羊の内臓から骨からすべて鍋で煮て食べてしまうというのも、馴れてきたし」
「あたしは、そろそろステーキやフィッシュアンドチップスなんかが食いたくなってきたよ」
零は小さな笑い声をあげた。冗談だと思われたらしかった。
その夜、ガイドが呼びに来て、集落のまとめ役をしているらしい男を紹介された。
夕食を終えた後のことで、エマは星をながら酒を少し飲み、心地いい気分に浸っていたところだった。
集落で造られている、馬の乳を発酵させて何度か蒸留した酒だ。
二日前に立ち寄った集落で出されたものは、強烈な臭気で飲めたものではなかったが、ここの集落のものはあまり匂わなかった。
その代わり、喉が灼けるようなきつい酒だった。蒸留した回数で、度数とともに、風味が変わるのだろう、と想像できた。
まとめ役の男が、ゲルから楽器を持ち出していて、夜空の下で弾きはじめた。
二本の弦を張った楽器だ。
日本にも三味線という似た形の楽器がある、と零が小声で言った。
低く、哀しい音だった。
音色が、夜の闇になにかを満たしていく。
片方の目尻から、涙が一条零れた。自分が涙を流していたことに、エマは弦の音が熄んでから気づいた。
翌日、ガイドの男はいつまでも動こうとしなかった。
この先は、別の人間が案内する、というようなことを言っているのが、零とのやりとりでわかった。
しかたなく、零と集落にいる馬や羊の数を数えながら待った。人より、それらの数の方が多かった。
陽が中天に昇りきる前に、一人の男が現れた。
「おう、あんたらか、藤刀の嬢ちゃんに会いに来た客人ってのは」
大きな男だった。図体もだが、風格があった。
歳はそれほどいっていないように見えるが、顔半分が髭に隠れている。遊牧民と同じ衣装で、言葉を喋るまで、日本人であることもわからなかった。
「あなたは?」
零が、日本語で応じた。エマも、かろうじて日本語は聞き取れる。
「左門徹平。藤刀の嬢ちゃんが三年前から、ここに引退馬のための大きな牧をつくる事業をしているのは知っているよな」
「ええ」
エマより先に、零が頷いた。
あいが中央で通算八百勝を達成したのが、二年前だった。今年で、二十九歳になるのか。
国内外での騎乗をこなしつつ、引退馬のための活動をはじめた。
それ自体は珍しいことではなかったが、あいは、自らが稼いだ賞金をほぼ全て投じて、モンゴルに牧場をつくる会社を設立した。
福祉活動ではなく、事業である。
詳細は知らないが、経済活動を通して持続的に運営できるシステムを、あいは作るつもりのようだった。
そのことは、世界でちょっとしたニュースになった。
「俺はその事業の支援者だ。俺というより、俺たちの団体、といった方が正しいな。といっても、藤刀の嬢ちゃんは本業があるし、俺たちとやり取りをするのは、おもにこの事業の陣頭指揮を執っている山南という男なんだが」
「私たちは、あいに会いに来ただけで、あいがはじめた事業にも、あなたたちの団体にも、興味はないです」
「はっきり言うなぁ」
徹平は肩を揺らして笑った。
「いいだろう。ついてこい」
徹平は、集落の外に待たせていた馬の元まで戻ると、鮮やかに鞍に飛び乗った。現役の騎手でも真似できない、颯爽とした身のこなしだった。
「藤刀の嬢ちゃんの知り合いらしいが、二人とも、騎手なのか?」
「ええ」
零が答え、エマも頷いた。
徹平が、にやりと笑った。
「なら、駈けるぞ。まさか、素人の俺に遅れることはあるまい」
挑発する口調で言い、徹平が馬腹を蹴った。馬が駈け出し、やがて疾駆に変わった。
徹平の馬に後れを取ることはなかったが、それは馬の質が等しかったからだ。
徹平はエマが思わず感心してしまうほど馬を乗りこなしていた。
「見ろ」
地面に太い丸太の杭が打たれた場所があり、その手前で徹平が馬を止めた。
指差された先に、土煙が上がっているのが見えた。
馬群が、横に駈けて行く。二千頭はいるだろうか。
オーストラリアにも大きな牧はあるが、二千頭近くの馬の群が草原を駈けるさまは壮観で、エマはつい声を洩らした。
群の周りを動き回り、統率をとっている騎馬がいた。
「あい」
零が鞍上で歓声をあげた。馬群に向かって駈け出していく。あいも、零に気づき、馬首を巡らせた。
あいの他にも数人、統率役がいるらしく、あいが一人抜けても、馬群が乱れることはなかった。
あいと零が、草原で駈け合いをはじめた。
二匹の獣が無邪気に戯れているというように、エマの目には映った。
二人を一度、自分の家に招待したことがあった。もう八年近く前になる。
エマが世話をしている、二頭の引退馬に、二人を乗せてやった。
あのときも、二人は戯れるように駈け合い、エマはそれを遠目に眺めたものだった。
「どこまで行くつもりだい、あの二人は」
エマは呟いた。
二人の姿は豆粒のように小さくなっている。
広大な草原を自由に駈け回る二人に、心が洗われる気がした。
ここまで旅をしてきた甲斐があった、とエマは思った。




