第三話
私は……夫の事をはっきりと覚えていた。無論、前世の記憶があるのだから、覚えていて当然なのだけれど。
(忘れられなかった、と言ったほうがロマンチックかもしれないわね)
彼の元へ向かう馬車に揺られながら、そんなことを思った。
夫……もとい、今は王子様として居る彼は、私に「一目惚れ」だと言った。
あのパーティーの会場で、私達は結婚の約束をした。
とんでもないことをしたと思う。けれど、私には迷いがなかった。
彼が「私が良い」と言ってくれるのなら、断る理由がなかったのだ。
婚約をしても、すぐに一緒になれるわけではない。結婚までの間、私達は何度か逢瀬を重ねた。
彼は会うたびに私を抱きしめて、
「会いたかった」
「可愛い」
と、言ってくれる。それが何だかおかしかった。以前の夫からは、ほぼ聞いたことのないような言葉だったから。
そして、
「私も、お会いしたかったです」
そう、言ったこともないような声を返した。
私たちの会話は、今世の方がずっと多い。
けれど、前世のことは聞けなかった。
「私を……真理を、覚えていますか?」
と、そう聞くのが怖かった。
私が彼を覚えていたとしても、彼が私を覚えていてくれるとは限らない。
「それは、どなたですか?」
優しい彼の口から、そう紡がれるのが……怖かった。
彼と、お茶をするのが好きだった。お互いの日々を、教え合うのが好きだった。
午後の優しい陽だまりの中で、向かいあって談笑する。時折、木々がさわさわと音をたてて、風が髪をゆるく攫う。
私は持って来たバスケットを開いて、お菓子を取り出した。
「マリーが焼いたのかい?」
「ええ。ジュリオ様のお口に合えば嬉しいのですけれど」
少しだけ、緊張しながら彼の前に出した。前世のあなたが好きだった、かぼちゃのマフィン。
彼はゆっくりと手にとって、かぷりとそれを口にした。噛みしめるように咀嚼して、「美味しい」と呟く。
「良かった……」
私は心底安堵する。彼はまた、それを口に運んだ。
前世のあなたより、食べ方は上品。でも、口に入れるスピードは、少しだけ早いような気もする。
「かぼちゃのマフィン、好きでしょう?」
思わず言葉が出て、私は慌てて口元を覆った。
彼は驚いたように私を見ていた。
「い、いえ……すみません。なんとなく、そんな気がしただけで……」
私は頭を下げた。マリー、と彼が私を呼ぶ。
恐る恐る顔を上げると、彼は嬉しそうに笑っていた。
「いや……好きだよ。私の一番好きな、真理の作ったかぼちゃのマフィンだ」
「……純さん」
真理、と前世の私の名前が紡がれて、私も思わず夫の名前を呟く。
海のように深い碧色の彼の瞳が、憂いをのせて私を見る。
私の目からは、すでに涙がこぼれていた。ぽろぽろ、ぽろぽろ、何度も頬を伝って落ちる。
「君も……覚えていてくれたのか……?」
「……は…………」
はい、と返事をしたかったのに、言葉が出ない。
彼は静かに席を立つと、私の隣へやって来た。
泣きじゃくる私の横に片膝を立てて座ると、「真理……」と私の手を取る。
「会いたかった……。ずっと、ずっと探していたんだよ。また、君と一緒になりたくて」
「純さん……」
嬉しい。まさか、同じ気持ちでいてくれたなんて……。
彼の優しい唇が、私の手におちる。それは、この世界の、静かな誓いの証だ。
「愛している。マリー」
「……ジュリオ様……」
――呼び合って、前世の私たちが、今世の私たちに変わる。
「私も」と、唇を動かしたけれど、ちゃんと、音になっていたかしら……。




