盾
四月の終わりが近づいていた。
桜はほとんど散っていた。
校庭の隅には、灰と花びらが一緒に溜まっている。雨の翌日には薄い泥になり、靴の裏から体育館の床へ運ばれた。
朝の水は、もう手を切るほど冷たくなかった。
その代わり、体育館の裏で羽音がするようになった。
ごみ袋の口へ、黒いハエが集まっている。
生ごみ。
汚物袋。
使用済みの包帯。
発熱者区画から出た布。
中身を確かめられない袋。
最初は校庭の端へ寄せるだけだったものが、暖かくなるにつれて、置く場所を選ぶようになった。
理沙は、長い棒の先で地面を示した。
「ここから動かしてください」
高橋が校舎裏を見た。
「北側へ?」
「そこだと風が体育館へ戻ります」
「プールの横は」
「水に近すぎます」
「発熱者区画の裏」
「もっと駄目です」
小倉が二重にした袋の口を縛りながら言った。
「どこへ置いても、学校の中じゃないか」
「だから、少しでも離します」
理沙は答えた。
「臭いの問題だけじゃありません。袋が破れた時に、どこへ流れるかです」
水場から延びた濡れた足跡が、校舎脇を通っていた。
ごみ置き場を移すなら、その線をまたがない場所にしなければならない。
秋人は、板へ挟んだ分類表に書いた。
生ごみ。
可燃。
金属。
医療廃棄物。
汚物袋。
汚染疑い。
その下へ、
水場から離す。
と加えた。
二週間ほど前の発砲事案も、紙の上ではまだ終わっていなかった。
回収拳銃の出所。
発砲順序。
薬莢との対応。
灰犬側へ渡した照会欄には、返答がない。
銃声は毎日思い出すわけではなかった。
袋の口を縛る時や、机から鉛筆を落とした時に、指が一度止まる。
それと、時々校舎の裏側からたばこの臭いが漂ってきたとき。
それだけだった。
午前九時を過ぎた頃、校門の外で車のエンジンが止まった。
灰犬のワゴン車だった。
車体の下に灰と泥が残っている。後部には工具箱、封緘袋、折り畳んだ担架が積まれていた。
その上に、防水袋へ入った用紙の束がある。
警察備品確認票。
田辺が門の外へ出て、車両証明と乗員を確かめた。
三枝、榎本、灰犬隊員二名。
三枝は高橋へ任務票を渡した。
「北西方面の交番跡を確認する」
高橋は用紙へ目を落とした。
東京西部生存圏管理局。
警察施設残存確認任務。
対象。
北西方面連絡路沿い、交番跡一か所。
確認事項。
生存者。
遺体。
警察記録。
通信機器。
警察装備。
武器・弾薬。
「交番の場所は分かっているんですか」
「地図上では」
三枝が答えた。
「現地の道路が通れるかは未確認だ」
田辺は任務票を横から読んでいた。
「最後に連絡があったのは」
「今月の上旬。交番そのものからじゃない。巡回班が扉の閉鎖と、出入りの跡を報告した」
「中には入っていない」
「臭気があった。人手もなかった」
田辺は交番の識別番号を見た。
竹刀を持つ手が少し下がる。
三枝が聞いた。
「同行できるか」
「確認には警察勤務経験者が必要です」
田辺は高橋を見た。
「入口を空けます」
高橋はすぐに答えなかった。
朝の門には、給水容器を持った人が出入りしていた。
登録の確認、持ち込み品、発熱者の家族、外から戻った作業班。
田辺が立つようになってから、入口で怒鳴る人間は減っていた。
「給水班から二人、入口へ回します」
高橋が言った。
小倉は汚物袋から顔を上げた。
「二人とも、田辺さんの手順は知ってるんですか」
「出る前に引き継いでもらいます。夜勤表は組み直します」
田辺は竹刀を小倉へ渡さなかった。
「今日は持っていきません。入口記録だけ、あとで説明します」
三枝は次の用紙を出した。
「避難所側の記録補助も一名」
母が秋人の方を見た。
秋人はごみ分類表を持ったままだった。
三枝は秋人へ向けて言った。
「交番内の物を、警察側の確認票と荻窪側の受領記録へ分ける。前回と同じだ」
小倉が言った。
「俺も行く。瀬戸くんの横にいる」
前回と同じ。
外出同行票は、これで三枚目になる。
高橋が出した外出同行票は、前の二枚と同じ箱から出てきた。
旧児童館の紙。
乾物店倉庫の紙。
どちらも職員室の保管箱に綴じられている。
二枚目の結果欄には、武器接触なし、発砲事案遭遇あり、と書かれていた。
母が高橋の前まで来た。
「今回は、交番の中ですか」
「最初に入るのは成人だけです」
榎本が答えた。
「安全確認が終わるまで、瀬戸は外へ残します」
「終わったと誰が決めるんですか」
「自分と田辺さんです」
母は榎本の左脚を一度見た。
それから高橋が出した同行票を読んだ。
同行責任者、三枝吾郎。
成人保護担当、小倉。
専門立会人、田辺清作。
警察系確認者、任務時指定。
任務理由、交番跡の残存人員および警察備品確認。
帰着予定、十七時。
携行武器、なし。
武器接触、不可。
警察備品接触、不可。
建物内部、成人による安全確認後のみ。
記録位置、入口外を基本とする。
中止条件には、
武装者。
火災。
刺激臭。
構造危険。
感染危険。
とあった。
母の指が、一行で止まった。
「安全確認後のみ」
「はい」
高橋が答えた。
「前回も、条件はありました」
「はい」
「条件があっても、撃たれました」
高橋は否定しなかった。
「今回は田辺さんが必要です。瀬戸くんは、入口の外で記録します」
母は秋人を見た。
「行くの」
秋人は、分類表の下に書いた文字を見た。
水場から離す。
今朝まで、自分が書くのは袋の置き場所だった。
「行ける」
母の眉が動いた。
「それは聞いてない」
前にも同じことを言われた。
秋人は少し考えた。
「行きたいわけじゃない」
「なら」
「田辺さんが中を見る。俺は、外で書く」
母は同行票へ戻った。
「中へ入らないで」
「安全確認が終わるまでは」
「終わっても、必要がなければ入らないで」
秋人は頷いた。
母は通知確認欄へ名前を書いた。
瀬戸美紀。
備考欄には、
保護者は同行に反対。
と残った。
理沙は秋人の体温を測りながら、三枝へ言った。
「中に人がいたら、聞き取りより先に状態を見てください」
「生きていればな」
「生きている人がいたら、です」
三枝は頷いた。
「水は」
「少量ずつ。意識が悪ければ無理に飲ませない。発熱、嘔吐、出血があれば戻してください」
榎本が秋人へ言った。
「扉の正面に立つな。呼ぶまで近づくな。中で武器が見つかっても、位置だけ書け」
「はい」
「前回と同じだ」
秋人は頷いた。
同じという言葉は、少しずつ中身を変えていた。
車は大きな道を避け、北西へ進んだ。
道沿いの桜は葉へ変わっている。
門に「住人あり」と書かれた家。
庭へ浅い穴を掘った家。
玄関先に空容器を並べた家。
窓を板で塞いだ家。
道路脇には、ごみ袋がいくつも置かれていた。
破れた袋をカラスが突き、濡れた紙と食べ残しが車道へ広がっている。
理沙が見れば、また置き場所を変えろと言うだろうと秋人は思った。
交番は、小さな交差点の角にあった。
赤い回転灯は消えている。
白い外壁には雨の筋が残り、窓ガラスの一枚が割れていた。青い標識は灰をかぶっていたが、警視庁の文字は読めた。
ワゴン車は交番の正面を避け、道路の斜め向かいで止まった。
榎本が先に降りる。
交差点。
建物の左右。
屋根。
割れた窓。
扉。
順に見た。
「瀬戸は車両後方。小倉さんも」
秋人はワゴン車の後輪より内側へ移った。
交番の扉の前には、いくつもの足跡があった。
雨で崩れたもの。
新しいもの。
扉へ近づき、戻っているもの。
取っ手の下に、赤黒い汚れが残っている。
血か錆か、秋人の位置からは分からなかった。
榎本が手袋を替えた。
田辺は扉の縁と鍵を見た。
「鍵は外から壊されていません」
「中から閉めている?」
「そのようです」
隙間から、閉め切った部屋の臭いが出ていた。
埃。
古い消毒液。
湿った布。
その奥に、甘さの混じった臭いがある。
榎本が全員を扉の正面から外した。
三枝が声を上げる。
「中にいる者、聞こえるか。立川から確認に来た。灰犬だ」
返事はなかった。
風が、割れた窓の縁を鳴らした。
交番の中で、何かが床を擦った。
短い音だった。
榎本の右手が上がる。
灰犬隊員が小銃を構えた。銃口は扉より下へ向いている。
田辺が扉から距離を取り、呼びかけた。
「警察勤務経験者です。田辺といいます」
中の音が止まった。
「助けに来ました。中に人がいるなら、返事をしてください」
しばらくして、声がした。
「何人」
若い声だった。
掠れていた。
田辺が答える。
「外に七人。中へ入るのは、まず四人です」
「警察?」
「私は元警察です。警察の再編担当へつなぐために来ました」
返事はなかった。
田辺は続けた。
「怪我をしていますか」
「分からない」
「ほかに人は」
「一人」
「その人は話せますか」
長い間があった。
「話さない」
田辺は榎本を見た。
榎本が低く聞く。
「武器を持っているか」
「盾」
「盾以外は」
「ない」
榎本は灰犬隊員へ銃口をさらに下げさせた。
田辺が言った。
「扉を開けます。扉から離れられますか」
「椅子がある」
「動かせますか」
中で、また床を擦る音がした。
一度。
止まる。
もう一度。
息を吐く音まで扉越しに聞こえた。
「重い」
田辺は言った。
「無理に動かさなくていい。扉を少し押します。身体を扉の前から外してください」
榎本が位置を決めた。
田辺は取っ手の横。
三枝は壁側。
灰犬隊員一名は割れた窓と建物右側。
もう一名は道路側。
「瀬戸、そのまま」
「はい」
田辺が取っ手を押した。
扉は数センチだけ開き、内側の何かへ当たった。
木が床を引っかく。
椅子だった。
「押します」
田辺が中へ告げる。
榎本と二人で、ゆっくり扉を押した。
椅子が横へずれた。
開いた隙間から、暗い室内が見えた。
机の下には、空のペットボトルが三本転がっていた。
菓子の袋が一つ、破れている。
受付机の横に、折り畳まれた制服の上着があった。
床の一部だけ、埃が薄くなっている。
そこだけ、人が何度も座った跡のように見えた。
その中央に、黒い板のような物が立っていた。
人の胸から膝近くまでを隠す大きさだった。
上の方に、小さな窓がある。
窓の後ろから、目がこちらを見ていた。
盾の表面には、白っぽい円が一つ残っていた。
塗装が欠け、中心が浅く潰れている。
「防弾盾」
田辺が言った。
声が変わった。
榎本が隊員へ手を下ろさせる。
「銃を下げろ」
小銃の銃口が地面へ向いた。
田辺は両手を見える位置へ出した。
「盾は取りません」
窓の向こうの目は動かなかった。
「中に入ります。あなたには触りません」
黒い盾がわずかに傾いた。
その後ろにいたのは、秋人より少し背丈の低い少年だった。
髪が伸び、頬がこけている。唇の端が切れ、乾いた血が付いていた。
片方の肩が、盾の重さに引かれるように下がっている。
両手は裏側の保持具を掴んだままだった。
田辺、榎本、三枝、灰犬隊員一名が入った。
秋人は車両後方へ残った。
小倉が横に立っている。
交番内から、短いやり取りが聞こえた。
「名前は」
「柏木」
「下の名前」
「悠太」
「年齢」
「十五」
「怪我は」
「分からない」
「痛いところは」
柏木は答えなかった。
田辺が質問を変えた。
「盾の後ろから出なくていい。座れますか」
黒い盾の上端が少し下がった。
下の縁が床へ触れ、鈍い音がした。
柏木の膝が、その後ろで曲がる。
「水を渡します」
榎本が未開封の容器を見せた。
柏木は右手を保持具から離しかけた。
盾が横へ傾く。
すぐに手を戻した。
田辺が言った。
「下ろせとは言いません。下の縁を床につけてください」
柏木は田辺を見た。
「手は離さなくていい。重さだけ床へ預けます」
柏木は少しずつ盾を立て直した。
下端が床へ着く。
保持帯へ通した左腕は抜かなかった。
右手だけを離す。
榎本が蓋を開け、少量を小さなカップへ移した。
柏木はカップを受け取った。
口へ運ぶ手が震えている。
一度に飲み切ろうとした。
「ゆっくり」
田辺が止めた。
柏木は口を離した。
水を飲む間も、左腕は盾の裏から抜けなかった。
「奥の人は」
田辺が聞いた。
柏木はカップを持ったまま言った。
「警察の人」
「名前は」
「村瀬さん」
「話さないと言いましたね」
柏木の目が、奥の部屋へ動いた。
「死んだ」
秋人は車両の陰で、記録票へ書いた。
交番内、生存者一名。
柏木悠太。
十五歳。
奥室、警察関係者一名。
本人申告、死亡。
死亡確認前。
成人による内部確認が続いた。
榎本が、入口から外へ声をかける。
「瀬戸。入口まで」
秋人は小倉と一緒に道路を渡った。
交番へ入らず、開いた扉の外で止まる。
内部の臭いは外より濃かった。
奥室の入口近くに、血のついた包帯が落ちていた。
包帯というより、裂いたシャツの袖だった。
机の脚には、黒い盾を立てかけたような擦れ跡がある。
床には、引きずった跡が短く残っていた。
村瀬がどこで倒れ、どこまで動いたのか、秋人には分からなかった。
ただ、盾は入口の方を向いていた。
柏木が盾の後ろに座っている。
黒い表面の被弾痕は、近くで見ると指二本ほどの幅があった。
中心の塗装が剥がれ、周囲に細い筋が走っている。
裏までは抜けていない。
田辺が奥室から出てきた。
「遺体一名。位置を動かしていません」
三枝が秋人へ言った。
「見取図を作る。お前は入口と奥室の位置だけ書け」
秋人は交番の簡単な形を描いた。
入口。
受付机。
備品棚。
奥室。
遺体位置は、田辺が指示した場所へ印を付ける。
秋人から遺体の全身は見えなかった。
奥室の床に伸びた靴。
制服の裾。
胸のあたりまでかけられた毛布。
それだけだった。
田辺は新しい手袋へ替えた。
「現場死亡確認を行います。立会いをお願いします」
三枝と榎本が奥室へ入る。
秋人は入口に残った。
柏木も盾の後ろから動かなかった。
田辺の声が聞こえる。
「呼びかけ、反応なし」
間があった。
「呼吸なし。死後変化あり」
それ以上の状態は、声にしなかった。
田辺が息を整える音がした。
「現場死亡確認。正式検案未了」
時刻が告げられる。
秋人は書いた。
確認者、田辺清作。
警察系指定確認者。
立会人、三枝吾郎。
榎本徹。
田辺は名札を読み上げた。
「村瀬直也。巡査部長」
警察手帳の記載も照合する。
所属欄。
警視庁機動隊。
銃器対策部隊。
秋人は、先ほど書いた「警察関係者一名」を二本線で消した。
村瀬直也巡査部長。
名前が入ると、同じ場所を示しているのに、記録が別のものに見えた。
田辺は遺体管理番号を読み上げた。
番号は耐水札、毛布の端、所持品袋、見取図、死亡確認票へ同じものを付ける。
所持品。
警察手帳。
身分証。
鍵。
腕時計。
小型の手帳。
折り畳まれた応援派遣票。
応援派遣票には、
西部方面。
避難路・医療輸送路警戒。
と印字されていた。
小型の手帳の最後には、
道路閉塞。
班分離。
北西方面交番へ後退。
と短く残っていた。
拳銃帯は着いていた。
ホルスターは空だった。
「拳銃、所在確認できず」
榎本が言う。
「予備弾薬、確認できず。長物なし」
田辺は返事をせず、確認票へ書いた。
秋人も、入口の用紙へ写した。
携行武器。
所在未確認。
持出時刻。
持出者。
使用状況。
すべて空欄になった。
柏木が、カップを持ったまま奥室を見ていた。
田辺が戻る。
「柏木さん」
「はい」
「村瀬巡査部長から、何を言われましたか。全部でなくていい。覚えている順で」
柏木はすぐには答えなかった。
田辺は急かさなかった。
「家族と、駅の近くにいた」
柏木が言った。
「父さんと母さんと、弟」
「移動していたんですか」
「避難所を出た。別のところへ行く途中」
「家族と離れたのは、交番へ来た日ですか」
柏木は頷いた。
「ここへ来てから、何回暗くなりましたか」
「三回。たぶん」
「そこで村瀬さんに会った?」
「違う」
柏木はカップを床へ置いた。
右手が盾の保持具へ戻る。
「人が走って、離れた。あとで、音がした」
「銃声ですか」
「たぶん」
「見ましたか」
柏木は首を振った。
「村瀬さんが来た。伏せろって言った。俺の前にこれを置いた」
右手が、盾の裏を押した。
「どこから交番へ来ましたか」
「分からない。走った」
「村瀬さんと二人で?」
「途中から」
柏木は盾の前面を見られなかった。
裏側の傷んだ持ち手だけを見ている。
「音がして、これが殴られた」
被弾痕のことだと、秋人にも分かった。
「村瀬さんが押さえてた。俺を後ろに入れた」
「村瀬さんは、その時に怪我を?」
「分からない」
柏木の返事は速かった。
「交番に入ってから、血が出てた」
田辺はそれ以上、傷の場所を聞かなかった。
「村瀬さんは、盾をあなたへ渡した」
柏木は頷いた。
「腕、入れろって。ここを持てって」
左腕の保持帯を見せる。
帯の縁が前腕へ食い込み、皮膚が赤黒く擦れていた。
指は持ち手の形へ曲がったまま、すぐには開かなかった。
「音がしたら、扉へ向けろって」
柏木は続けた。
「返事がなくても、後ろから出るな。誰か来たら、名前を言えって」
「ほかには」
柏木の目が、小さな防弾窓へ上がった。
「前に出るためじゃない。下がる時間を作るために使え」
田辺は短く頷いた。
その言葉を繰り返さなかった。
「村瀬さんが亡くなった後、誰か来ましたか」
「一回」
柏木の両手に力が入った。
「扉を引いた。名前は言わなかった」
「声は」
「なかった」
「あなたは」
「これを扉に向けた」
それだけだった。
誰が取っ手を引いたのか。
なぜ声を出さなかったのか。
銃を持っていたのか。
柏木は知らなかった。
盾だけは、知っていた。
一度、弾を止めた。
村瀬が返事をしなくなった後も、扉と自分の間に置いた。
交番の備品確認が始まった。
田辺が記録類を分ける。
巡回日誌。
拾得物記録。
管内地図。
避難誘導メモ。
手書きの避難者一覧。
それらは現場の順序を崩さず、箱へ入れて封緘した。
警察再編側へ引き渡す記録類。
榎本は無線機、乾電池、警棒、鍵束、救急箱を確認する。
安全確保のため回収する備品。
使用許可は未決定。
備品棚の奥には、空の弾薬箱があった。
田辺は箱の番号と位置だけを記録した。
「交番備品か、村瀬巡査部長の携行品かは未確認です」
榎本が頷く。
「拳銃なし。弾薬なし。持出状態不明」
秋人はそのまま書いた。
盗難とは書かなかった。
柏木の盾は、最後に確認された。
田辺が正面へ回る。
柏木の身体が硬くなった。
「取りません」
田辺が先に言った。
「表面を見るだけです」
柏木は防弾窓から田辺を見た。
「触る?」
「あなたが持ったままでいい」
榎本が被弾痕へ近づく。
指では触れず、光を斜めから当てた。
「被弾痕一。表面損傷」
田辺が裏側を見た。
「貫通なし」
側面の表示と管理札を読む。
防弾盾。
小銃弾対応。
警視庁機動隊装備。
「継続使用は検査まで未判定」
榎本が言った。
柏木が聞いた。
「使えないの」
「一発止めた後だ。次も同じように止めるとは約束できない」
柏木は持ち手を離さなかった。
「でも、これは持っていく」
田辺は三枝を見た。
三枝が車両の積載を確かめる。
「移送中は本人携行。帰着後、警察備品として仮管理。番号を付ける」
「正式な使用許可ではありません」
田辺が言った。
「分かってる」
「柏木さんにも説明します」
田辺は柏木の前へ戻った。
「これは警察の物です」
柏木の指が、持ち手に強くかかった。
田辺は続けた。
「でも、ここでは取りません。荻窪まで持っていけます」
柏木は一度だけ頷いた。
「着いた後は、保管場所を決めます。勝手に外へ持ち出さない。人を殴るために使わない」
「はい」
「持ち続けて腕を傷める必要もありません。見えるところへ置きます」
柏木は返事をしなかった。
交番を出る準備をした。
村瀬の遺体は、その場へ残すことになった。
ワゴン車には、生存者と記録類、回収備品を分けるだけの区画しかない。遺体を覆い、固定し、柏木と衛生的に分けて運ぶ装備もなかった。
三枝が言った。
「今日は保護対象を先に運ぶ。遺体回収は別便を要請する」
田辺は奥室を見た。
反対はしなかった。
遺体管理番号を確認する。
所持品袋の封緘を確認する。
位置見取図の控えを机へ残す。
奥室の扉を閉め、外側へ告知を付けた。
現場死亡確認済。
正式検案未了。
遺体管理番号。
警察系回収要請中。
交番入口にも、同じ番号と立入制限を残した。
田辺は扉の前で一度止まった。
敬礼はしなかった。
奥室の取っ手が閉まっていることを確かめ、それから柏木の方へ戻った。
柏木は立ち上がろうとしていた。
盾の下端を持ち上げる。
肩が揺れた。
一歩目で、膝が止まる。
小倉が手を出した。
柏木は盾を引いた。
「取らない」
小倉は言った。
「下だけ持つ。君の手は離さなくていい」
柏木は小倉の手を見た。
次に田辺を見る。
田辺が頷いた。
柏木は盾の下側だけを小倉へ預けた。
保持帯から腕は抜かなかった。
二人で、狭い入口を通る。
交番を出る時、盾が先に外へ出た。
その後ろから、柏木が出た。
ワゴン車の後部では、盾を座席へ立て、固定帯を通した。
柏木は隣へ座った。
固定が終わっても、片手を裏側の持ち手へ置いている。
「外れません」
榎本が固定帯を示した。
柏木は手を離さなかった。
帰りの車内で、柏木は何度か目を閉じた。
車が段差を越えるたびに目を開け、盾があることを確かめる。
秋人は向かいで、保護記録の下書きを作った。
柏木悠太。
十五歳。
交番内で保護。
意識あり。
会話可能。
飲水不足。
左前腕、擦過および圧迫痕。
家族。
父。
母。
弟。
最終確認場所、駅周辺。
現在地、未確認。
詳しい聞き取りは帰着後。
村瀬直也巡査部長。
現場死亡確認。
正式検案未了。
防弾盾一。
小銃弾対応。
被弾痕一。
貫通なし。
継続使用可否、未判定。
柏木本人が移送中携行。
同じ交番から出た事実が、一枚には収まらなかった。
生きている人。
死んだ人。
家族が見つからない人。
武器が見つからないこと。
弾を止めた物。
それぞれ別の欄が必要だった。
荻窪小学校へ戻ったのは、夕方近くだった。
校門の内側には、移動されたごみ袋が新しい列になっていた。
水場から離れ、発熱者区画の風下も避けている。完全な場所ではなかったが、朝よりは遠かった。
田辺がいない間、入口には給水班から回された男性が二人立っていた。
ワゴン車が入ると、小倉は先に降りた。
「保護一名。十五歳。脱水の可能性あり」
高橋が入口を空ける。
理沙は柏木の姿より先に、盾を見た。
「それを持ったまま降りるの?」
柏木が頷く。
「そのままだと、腕を痛めます」
理沙は言った。
「下を誰かに持ってもらって。取り上げません」
小倉が先ほどと同じように盾の下側へ手を入れた。
柏木は一瞬止まったが、拒まなかった。
体育館の入口側まで運ぶ。
理沙は壁際を指した。
「ここへ下の縁をつけて。倒れないように押さえます」
柏木は盾を壁へ向けなかった。
入口へ正面が向く角度に置いた。
被弾痕が、校門の方を向く。
その後ろへ座る。
保持帯から左腕を抜こうとして、途中で止まった。
指が開かない。
理沙が膝をついた。
「無理に開かなくていい。まず右手」
柏木は右手を見せた。
掌に、持ち手の形の赤い跡が付いている。
「名前を言えますか」
「柏木悠太」
「年齢」
「十五」
「息苦しくない?」
「ない」
「吐き気」
「ない」
「どこか撃たれていない?」
柏木は首を振った。
「分からない、じゃなくて、今見える血はないということでいい?」
「はい」
理沙は目、唇、呼吸、体温を確認した。
左腕の保持帯を少し緩める。
柏木の肩が下がった。
「水を少しずつ。食べ物も一度に入れません」
柏木は頷いた。
「盾はここにあります。動かしません」
そこで初めて、柏木は左腕を保持帯から抜いた。
腕が外れると、盾は壁と床だけで立った。
柏木はすぐに持ち手へ右手を戻した。
理沙は止めなかった。
保持帯を抜いた後も、柏木の左腕には帯の形が残っていた。
赤い線ではなかった。
押しつぶされた皮膚が、そこだけ色を変えている。
理沙が指で触れようとすると、柏木は腕を引いた。
盾ではなく、自分の腕の方を。
「手は置いていていい。指だけ、少しずつ伸ばして」
真衣が母の横から盾を見ていた。
黒い板の上の、小さな窓。
その下の白い傷。
「これ、撃たれたの?」
柏木は真衣を見た。
「一回」
「壊れてない?」
「抜けてない」
「重い?」
「重い」
柏木の開かない指を見ていた。
高橋は職員室で報告を受けた。
秋人は下書きを分ける。
交番跡確認記録。
柏木悠太保護記録。
柏木家族未確認者照会。
村瀬直也巡査部長死亡確認票。
遺体回収要請。
警察記録封緘票。
警察備品仮管理票。
拳銃・弾薬所在照会。
高橋が柏木の家族欄を見た。
「詳しい特徴は、今夜聞かないでください」
「はい」
「本人の体調が先です。家族の照会票は、分かるところまで」
秋人は、弟の年齢欄を空欄にした。
真衣と同じくらいかもしれないと思った。
書かなかった。
田辺は警察備品確認票へ署名した。
防弾盾の欄には、
仮管理。
本人携行希望。
移送中携行承認。
継続使用可否未判定。
とある。
「本人携行希望では足りません」
田辺が言った。
秋人は顔を上げた。
「何を加えますか」
「心理的な理由ではなく、経緯を書いてください」
田辺は盾の被弾痕を見た。
「村瀬巡査部長が柏木保護時に使用したとの本人申告。被弾後、柏木へ保持方法を指示。村瀬死亡後も入口防護に使用」
秋人は書いた。
ただ離したくないのではなかった。
柏木は、使ったことがあった。
弾が当たった時も。
誰かが扉を引いた時も。
田辺の署名が終わると、三枝が防水袋から白い封筒を出した。
表に田辺清作と書かれていた。
その下に、
警察再編連絡。
経歴照会・移動要請。
とある。
高橋が封筒を見た。
「今日の報告で出たものですか」
「違う」
三枝が答えた。
「今朝、出る前から預かっていた。本人確認と、勤務状況の照会だ」
田辺は封筒を受け取った。
「先に言わなかった理由は」
「交番の確認を先に終わらせるためだ」
田辺は封を切った。
中の用紙を読む。
元警察勤務。
避難所門衛。
通行整理。
警察備品確認への立会い。
移動先の正式な部署名は書かれていなかった。
警察再編連絡先。
北西方面残存署との接続。
立川側受付。
「次の便は」
田辺が聞いた。
「明後日の朝」
三枝が答えた。
「それまでに荻窪側の引継ぎをする。移動を受けるかは、今日中に返答が要る」
高橋が言った。
「田辺さんは、入口勤務の中心です」
「照会にもそう書いてある」
「二日で代わりを作れません」
「代わりが完成してから人を動かせる場所は、いま少ない」
三枝の声は変わらなかった。
小倉が入口記録を持ってきた。
「夜は二人いないと無理です。田辺さんが抜けたら、俺と、あと誰を組ませるんですか」
高橋は答えられなかった。
田辺は照会文書をもう一度読んだ。
それから高橋へ返さず、自分の前へ置いた。
「行きます」
小倉が田辺を見た。
「すぐ決めるんですか」
「明後日までに、入口の手順を渡します」
「そういうことじゃなくて」
田辺は小倉の言葉を待った。
小倉は続けられなかった。
田辺が言った。
「ここで知っている手順を、向こうでも使えます。交番と警察備品の照会先も必要です」
高橋が聞いた。
「戻る予定は」
「書かれていません」
田辺は、ないものをあるようには言わなかった。
その日のうちに、入口勤務の引継ぎが始まった。
田辺は小倉へ、門の記録箱を開けた。
外出者。
帰着予定。
持ち込み品。
発熱申告。
武器申告。
夜間呼びかけ。
「一人で門を開けないでください」
「分かってます」
「相手が一人でもです」
「はい」
「夜は内側に一人、確認に一人。扉を開ける人と、記録する人を分ける」
「田辺さんは一人でやってたこと、あるでしょう」
「だから、やらないでください」
小倉は返事をしなかった。
田辺は竹刀を差し出した。
小倉が受け取る。
いつも田辺が持っていた物は、小倉の手に入ると少し長く見えた。
「振るためではありません」
「入口を測るため?」
「人との距離を残すためです」
小倉は竹刀を門の脇へ立てた。
夜になっても、柏木は盾のそばにいた。
理沙が敷いた毛布へ座り、少量の粥を食べている。
右手で匙を持ち、左手は盾の持ち手へ触れていた。
食べるたびに手を離し、飲み込むと戻す。
秋人は長机で、最後の記録を作った。
村瀬の死亡確認票には、氏名、所属、確認場所、確認者、立会人、遺体管理番号、所持品、回収要請を書く。
柏木の保護記録には、意識、飲水、負傷、保護先を書く。
家族の未確認者照会には、父、母、弟を書く。
警察備品仮管理票には、盾の番号と被弾痕を書く。
田辺の入口勤務表には、明日までの引継ぎを書く。
机の上で、紙だけが増えた。
柏木の紙。
村瀬の紙。
盾の紙。
田辺の紙。
同じ交番から来たものなのに、重ねると角がずれた。
秋人は公式の記録とは別に、ノートを開いた。
柏木悠太。
十五歳。
交番の中で村瀬が返事をしなくなった後も、扉の内側にいた。
誰かが取っ手を引いた時、盾を扉へ向けた。
秋人は一行だけ、間を空けて書いた。
柏木は、最後までいた。
鉛筆を置く。
体育館の壁際には、黒い盾が立っていた。
下の縁は床へ着き、小さな防弾窓が入口を向いている。
白い被弾痕も、入口を向いていた。
柏木の手は、まだ裏側の持ち手に触れていた。
入口勤務表では、明後日から先の田辺の欄が空いていた。




