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少年兵と、灰と青  作者: いちご牛乳
灰の東京
9/14

四月の終わりが近づいていた。


桜はほとんど散っていた。

校庭の隅には、灰と花びらが一緒に溜まっている。雨の翌日には薄い泥になり、靴の裏から体育館の床へ運ばれた。


朝の水は、もう手を切るほど冷たくなかった。

その代わり、体育館の裏で羽音がするようになった。


ごみ袋の口へ、黒いハエが集まっている。


生ごみ。

汚物袋。

使用済みの包帯。

発熱者区画から出た布。

中身を確かめられない袋。


最初は校庭の端へ寄せるだけだったものが、暖かくなるにつれて、置く場所を選ぶようになった。


理沙は、長い棒の先で地面を示した。


「ここから動かしてください」


高橋が校舎裏を見た。


「北側へ?」


「そこだと風が体育館へ戻ります」


「プールの横は」


「水に近すぎます」


「発熱者区画の裏」


「もっと駄目です」


小倉が二重にした袋の口を縛りながら言った。


「どこへ置いても、学校の中じゃないか」


「だから、少しでも離します」


理沙は答えた。


「臭いの問題だけじゃありません。袋が破れた時に、どこへ流れるかです」


水場から延びた濡れた足跡が、校舎脇を通っていた。

ごみ置き場を移すなら、その線をまたがない場所にしなければならない。


秋人は、板へ挟んだ分類表に書いた。


生ごみ。

可燃。

金属。

医療廃棄物。

汚物袋。

汚染疑い。


その下へ、


水場から離す。


と加えた。


二週間ほど前の発砲事案も、紙の上ではまだ終わっていなかった。


回収拳銃の出所。

発砲順序。

薬莢との対応。


灰犬側へ渡した照会欄には、返答がない。


銃声は毎日思い出すわけではなかった。

袋の口を縛る時や、机から鉛筆を落とした時に、指が一度止まる。

それと、時々校舎の裏側からたばこの臭いが漂ってきたとき。

それだけだった。


午前九時を過ぎた頃、校門の外で車のエンジンが止まった。

灰犬のワゴン車だった。


車体の下に灰と泥が残っている。後部には工具箱、封緘袋、折り畳んだ担架が積まれていた。

その上に、防水袋へ入った用紙の束がある。


警察備品確認票。


田辺が門の外へ出て、車両証明と乗員を確かめた。

三枝、榎本、灰犬隊員二名。

三枝は高橋へ任務票を渡した。


「北西方面の交番跡を確認する」


高橋は用紙へ目を落とした。


東京西部生存圏管理局。

警察施設残存確認任務。


対象。


北西方面連絡路沿い、交番跡一か所。


確認事項。


生存者。

遺体。

警察記録。

通信機器。

警察装備。

武器・弾薬。


「交番の場所は分かっているんですか」


「地図上では」


三枝が答えた。


「現地の道路が通れるかは未確認だ」


田辺は任務票を横から読んでいた。


「最後に連絡があったのは」


「今月の上旬。交番そのものからじゃない。巡回班が扉の閉鎖と、出入りの跡を報告した」


「中には入っていない」


「臭気があった。人手もなかった」


田辺は交番の識別番号を見た。

竹刀を持つ手が少し下がる。

三枝が聞いた。


「同行できるか」


「確認には警察勤務経験者が必要です」


田辺は高橋を見た。


「入口を空けます」


高橋はすぐに答えなかった。


朝の門には、給水容器を持った人が出入りしていた。

登録の確認、持ち込み品、発熱者の家族、外から戻った作業班。

田辺が立つようになってから、入口で怒鳴る人間は減っていた。


「給水班から二人、入口へ回します」


高橋が言った。

小倉は汚物袋から顔を上げた。


「二人とも、田辺さんの手順は知ってるんですか」


「出る前に引き継いでもらいます。夜勤表は組み直します」


田辺は竹刀を小倉へ渡さなかった。


「今日は持っていきません。入口記録だけ、あとで説明します」


三枝は次の用紙を出した。


「避難所側の記録補助も一名」


母が秋人の方を見た。


秋人はごみ分類表を持ったままだった。


三枝は秋人へ向けて言った。


「交番内の物を、警察側の確認票と荻窪側の受領記録へ分ける。前回と同じだ」


小倉が言った。


「俺も行く。瀬戸くんの横にいる」


前回と同じ。

外出同行票は、これで三枚目になる。


高橋が出した外出同行票は、前の二枚と同じ箱から出てきた。


旧児童館の紙。

乾物店倉庫の紙。


どちらも職員室の保管箱に綴じられている。

二枚目の結果欄には、武器接触なし、発砲事案遭遇あり、と書かれていた。


母が高橋の前まで来た。


「今回は、交番の中ですか」


「最初に入るのは成人だけです」


榎本が答えた。


「安全確認が終わるまで、瀬戸は外へ残します」


「終わったと誰が決めるんですか」


「自分と田辺さんです」


母は榎本の左脚を一度見た。


それから高橋が出した同行票を読んだ。


同行責任者、三枝吾郎。

成人保護担当、小倉。

専門立会人、田辺清作。

警察系確認者、任務時指定。

任務理由、交番跡の残存人員および警察備品確認。

帰着予定、十七時。

携行武器、なし。

武器接触、不可。

警察備品接触、不可。

建物内部、成人による安全確認後のみ。

記録位置、入口外を基本とする。


中止条件には、


武装者。

火災。

刺激臭。

構造危険。

感染危険。


とあった。


母の指が、一行で止まった。


「安全確認後のみ」


「はい」


高橋が答えた。


「前回も、条件はありました」


「はい」


「条件があっても、撃たれました」


高橋は否定しなかった。


「今回は田辺さんが必要です。瀬戸くんは、入口の外で記録します」


母は秋人を見た。


「行くの」


秋人は、分類表の下に書いた文字を見た。


水場から離す。


今朝まで、自分が書くのは袋の置き場所だった。


「行ける」


母の眉が動いた。


「それは聞いてない」


前にも同じことを言われた。


秋人は少し考えた。


「行きたいわけじゃない」


「なら」


「田辺さんが中を見る。俺は、外で書く」


母は同行票へ戻った。


「中へ入らないで」


「安全確認が終わるまでは」


「終わっても、必要がなければ入らないで」


秋人は頷いた。


母は通知確認欄へ名前を書いた。


瀬戸美紀。


備考欄には、


保護者は同行に反対。


と残った。


理沙は秋人の体温を測りながら、三枝へ言った。


「中に人がいたら、聞き取りより先に状態を見てください」


「生きていればな」


「生きている人がいたら、です」


三枝は頷いた。


「水は」


「少量ずつ。意識が悪ければ無理に飲ませない。発熱、嘔吐、出血があれば戻してください」


榎本が秋人へ言った。


「扉の正面に立つな。呼ぶまで近づくな。中で武器が見つかっても、位置だけ書け」


「はい」


「前回と同じだ」


秋人は頷いた。


同じという言葉は、少しずつ中身を変えていた。

車は大きな道を避け、北西へ進んだ。

道沿いの桜は葉へ変わっている。


門に「住人あり」と書かれた家。

庭へ浅い穴を掘った家。

玄関先に空容器を並べた家。

窓を板で塞いだ家。


道路脇には、ごみ袋がいくつも置かれていた。


破れた袋をカラスが突き、濡れた紙と食べ残しが車道へ広がっている。

理沙が見れば、また置き場所を変えろと言うだろうと秋人は思った。


交番は、小さな交差点の角にあった。


赤い回転灯は消えている。

白い外壁には雨の筋が残り、窓ガラスの一枚が割れていた。青い標識は灰をかぶっていたが、警視庁の文字は読めた。


ワゴン車は交番の正面を避け、道路の斜め向かいで止まった。


榎本が先に降りる。


交差点。

建物の左右。

屋根。

割れた窓。

扉。


順に見た。


「瀬戸は車両後方。小倉さんも」


秋人はワゴン車の後輪より内側へ移った。

交番の扉の前には、いくつもの足跡があった。


雨で崩れたもの。

新しいもの。

扉へ近づき、戻っているもの。


取っ手の下に、赤黒い汚れが残っている。

血か錆か、秋人の位置からは分からなかった。


榎本が手袋を替えた。

田辺は扉の縁と鍵を見た。


「鍵は外から壊されていません」


「中から閉めている?」


「そのようです」


隙間から、閉め切った部屋の臭いが出ていた。


埃。

古い消毒液。

湿った布。


その奥に、甘さの混じった臭いがある。

榎本が全員を扉の正面から外した。


三枝が声を上げる。


「中にいる者、聞こえるか。立川から確認に来た。灰犬だ」


返事はなかった。


風が、割れた窓の縁を鳴らした。


交番の中で、何かが床を擦った。


短い音だった。


榎本の右手が上がる。


灰犬隊員が小銃を構えた。銃口は扉より下へ向いている。


田辺が扉から距離を取り、呼びかけた。


「警察勤務経験者です。田辺といいます」


中の音が止まった。


「助けに来ました。中に人がいるなら、返事をしてください」


しばらくして、声がした。


「何人」


若い声だった。

掠れていた。

田辺が答える。


「外に七人。中へ入るのは、まず四人です」


「警察?」


「私は元警察です。警察の再編担当へつなぐために来ました」


返事はなかった。

田辺は続けた。


「怪我をしていますか」


「分からない」


「ほかに人は」


「一人」


「その人は話せますか」


長い間があった。


「話さない」


田辺は榎本を見た。

榎本が低く聞く。


「武器を持っているか」


「盾」


「盾以外は」


「ない」


榎本は灰犬隊員へ銃口をさらに下げさせた。

田辺が言った。


「扉を開けます。扉から離れられますか」


「椅子がある」


「動かせますか」


中で、また床を擦る音がした。

一度。


止まる。

もう一度。


息を吐く音まで扉越しに聞こえた。


「重い」


田辺は言った。


「無理に動かさなくていい。扉を少し押します。身体を扉の前から外してください」


榎本が位置を決めた。


田辺は取っ手の横。

三枝は壁側。

灰犬隊員一名は割れた窓と建物右側。

もう一名は道路側。


「瀬戸、そのまま」


「はい」


田辺が取っ手を押した。

扉は数センチだけ開き、内側の何かへ当たった。


木が床を引っかく。


椅子だった。


「押します」


田辺が中へ告げる。


榎本と二人で、ゆっくり扉を押した。

椅子が横へずれた。


開いた隙間から、暗い室内が見えた。


机の下には、空のペットボトルが三本転がっていた。

菓子の袋が一つ、破れている。

受付机の横に、折り畳まれた制服の上着があった。

床の一部だけ、埃が薄くなっている。


そこだけ、人が何度も座った跡のように見えた。


その中央に、黒い板のような物が立っていた。


人の胸から膝近くまでを隠す大きさだった。


上の方に、小さな窓がある。


窓の後ろから、目がこちらを見ていた。


盾の表面には、白っぽい円が一つ残っていた。


塗装が欠け、中心が浅く潰れている。


「防弾盾」


田辺が言った。


声が変わった。


榎本が隊員へ手を下ろさせる。


「銃を下げろ」


小銃の銃口が地面へ向いた。


田辺は両手を見える位置へ出した。


「盾は取りません」


窓の向こうの目は動かなかった。


「中に入ります。あなたには触りません」


黒い盾がわずかに傾いた。


その後ろにいたのは、秋人より少し背丈の低い少年だった。


髪が伸び、頬がこけている。唇の端が切れ、乾いた血が付いていた。


片方の肩が、盾の重さに引かれるように下がっている。


両手は裏側の保持具を掴んだままだった。


田辺、榎本、三枝、灰犬隊員一名が入った。


秋人は車両後方へ残った。

小倉が横に立っている。


交番内から、短いやり取りが聞こえた。


「名前は」


「柏木」


「下の名前」


「悠太」


「年齢」


「十五」


「怪我は」


「分からない」


「痛いところは」


柏木は答えなかった。


田辺が質問を変えた。


「盾の後ろから出なくていい。座れますか」


黒い盾の上端が少し下がった。

下の縁が床へ触れ、鈍い音がした。

柏木の膝が、その後ろで曲がる。


「水を渡します」


榎本が未開封の容器を見せた。

柏木は右手を保持具から離しかけた。


盾が横へ傾く。


すぐに手を戻した。

田辺が言った。


「下ろせとは言いません。下の縁を床につけてください」


柏木は田辺を見た。


「手は離さなくていい。重さだけ床へ預けます」


柏木は少しずつ盾を立て直した。

下端が床へ着く。

保持帯へ通した左腕は抜かなかった。


右手だけを離す。


榎本が蓋を開け、少量を小さなカップへ移した。

柏木はカップを受け取った。

口へ運ぶ手が震えている。


一度に飲み切ろうとした。


「ゆっくり」


田辺が止めた。

柏木は口を離した。


水を飲む間も、左腕は盾の裏から抜けなかった。


「奥の人は」


田辺が聞いた。

柏木はカップを持ったまま言った。


「警察の人」


「名前は」


「村瀬さん」


「話さないと言いましたね」


柏木の目が、奥の部屋へ動いた。


「死んだ」


秋人は車両の陰で、記録票へ書いた。


交番内、生存者一名。


柏木悠太。

十五歳。


奥室、警察関係者一名。

本人申告、死亡。


死亡確認前。


成人による内部確認が続いた。

榎本が、入口から外へ声をかける。


「瀬戸。入口まで」


秋人は小倉と一緒に道路を渡った。

交番へ入らず、開いた扉の外で止まる。

内部の臭いは外より濃かった。


奥室の入口近くに、血のついた包帯が落ちていた。

包帯というより、裂いたシャツの袖だった。


机の脚には、黒い盾を立てかけたような擦れ跡がある。

床には、引きずった跡が短く残っていた。


村瀬がどこで倒れ、どこまで動いたのか、秋人には分からなかった。

ただ、盾は入口の方を向いていた。


柏木が盾の後ろに座っている。

黒い表面の被弾痕は、近くで見ると指二本ほどの幅があった。

中心の塗装が剥がれ、周囲に細い筋が走っている。


裏までは抜けていない。


田辺が奥室から出てきた。


「遺体一名。位置を動かしていません」


三枝が秋人へ言った。


「見取図を作る。お前は入口と奥室の位置だけ書け」


秋人は交番の簡単な形を描いた。


入口。

受付机。

備品棚。

奥室。


遺体位置は、田辺が指示した場所へ印を付ける。


秋人から遺体の全身は見えなかった。


奥室の床に伸びた靴。

制服の裾。

胸のあたりまでかけられた毛布。


それだけだった。


田辺は新しい手袋へ替えた。


「現場死亡確認を行います。立会いをお願いします」


三枝と榎本が奥室へ入る。


秋人は入口に残った。


柏木も盾の後ろから動かなかった。


田辺の声が聞こえる。


「呼びかけ、反応なし」


間があった。


「呼吸なし。死後変化あり」


それ以上の状態は、声にしなかった。


田辺が息を整える音がした。


「現場死亡確認。正式検案未了」


時刻が告げられる。


秋人は書いた。


確認者、田辺清作。

警察系指定確認者。


立会人、三枝吾郎。

榎本徹。


田辺は名札を読み上げた。


「村瀬直也。巡査部長」


警察手帳の記載も照合する。


所属欄。


警視庁機動隊。

銃器対策部隊。


秋人は、先ほど書いた「警察関係者一名」を二本線で消した。


村瀬直也巡査部長。


名前が入ると、同じ場所を示しているのに、記録が別のものに見えた。


田辺は遺体管理番号を読み上げた。


番号は耐水札、毛布の端、所持品袋、見取図、死亡確認票へ同じものを付ける。


所持品。


警察手帳。

身分証。

鍵。

腕時計。

小型の手帳。

折り畳まれた応援派遣票。


応援派遣票には、


西部方面。

避難路・医療輸送路警戒。


と印字されていた。


小型の手帳の最後には、


道路閉塞。

班分離。

北西方面交番へ後退。


と短く残っていた。


拳銃帯は着いていた。


ホルスターは空だった。


「拳銃、所在確認できず」


榎本が言う。


「予備弾薬、確認できず。長物なし」


田辺は返事をせず、確認票へ書いた。


秋人も、入口の用紙へ写した。


携行武器。

所在未確認。


持出時刻。

持出者。

使用状況。


すべて空欄になった。


柏木が、カップを持ったまま奥室を見ていた。


田辺が戻る。


「柏木さん」


「はい」


「村瀬巡査部長から、何を言われましたか。全部でなくていい。覚えている順で」


柏木はすぐには答えなかった。


田辺は急かさなかった。


「家族と、駅の近くにいた」


柏木が言った。


「父さんと母さんと、弟」


「移動していたんですか」


「避難所を出た。別のところへ行く途中」


「家族と離れたのは、交番へ来た日ですか」


柏木は頷いた。


「ここへ来てから、何回暗くなりましたか」


「三回。たぶん」


「そこで村瀬さんに会った?」


「違う」


柏木はカップを床へ置いた。


右手が盾の保持具へ戻る。


「人が走って、離れた。あとで、音がした」


「銃声ですか」


「たぶん」


「見ましたか」


柏木は首を振った。


「村瀬さんが来た。伏せろって言った。俺の前にこれを置いた」


右手が、盾の裏を押した。


「どこから交番へ来ましたか」


「分からない。走った」


「村瀬さんと二人で?」


「途中から」


柏木は盾の前面を見られなかった。


裏側の傷んだ持ち手だけを見ている。


「音がして、これが殴られた」


被弾痕のことだと、秋人にも分かった。


「村瀬さんが押さえてた。俺を後ろに入れた」


「村瀬さんは、その時に怪我を?」


「分からない」


柏木の返事は速かった。


「交番に入ってから、血が出てた」


田辺はそれ以上、傷の場所を聞かなかった。


「村瀬さんは、盾をあなたへ渡した」


柏木は頷いた。


「腕、入れろって。ここを持てって」


左腕の保持帯を見せる。


帯の縁が前腕へ食い込み、皮膚が赤黒く擦れていた。


指は持ち手の形へ曲がったまま、すぐには開かなかった。


「音がしたら、扉へ向けろって」


柏木は続けた。


「返事がなくても、後ろから出るな。誰か来たら、名前を言えって」


「ほかには」


柏木の目が、小さな防弾窓へ上がった。


「前に出るためじゃない。下がる時間を作るために使え」


田辺は短く頷いた。


その言葉を繰り返さなかった。


「村瀬さんが亡くなった後、誰か来ましたか」


「一回」


柏木の両手に力が入った。


「扉を引いた。名前は言わなかった」


「声は」


「なかった」


「あなたは」


「これを扉に向けた」


それだけだった。


誰が取っ手を引いたのか。

なぜ声を出さなかったのか。

銃を持っていたのか。


柏木は知らなかった。


盾だけは、知っていた。


一度、弾を止めた。


村瀬が返事をしなくなった後も、扉と自分の間に置いた。


交番の備品確認が始まった。


田辺が記録類を分ける。


巡回日誌。

拾得物記録。

管内地図。

避難誘導メモ。

手書きの避難者一覧。


それらは現場の順序を崩さず、箱へ入れて封緘した。

警察再編側へ引き渡す記録類。

榎本は無線機、乾電池、警棒、鍵束、救急箱を確認する。

安全確保のため回収する備品。

使用許可は未決定。

備品棚の奥には、空の弾薬箱があった。


田辺は箱の番号と位置だけを記録した。


「交番備品か、村瀬巡査部長の携行品かは未確認です」


榎本が頷く。


「拳銃なし。弾薬なし。持出状態不明」


秋人はそのまま書いた。

盗難とは書かなかった。


柏木の盾は、最後に確認された。

田辺が正面へ回る。

柏木の身体が硬くなった。


「取りません」


田辺が先に言った。


「表面を見るだけです」


柏木は防弾窓から田辺を見た。


「触る?」


「あなたが持ったままでいい」


榎本が被弾痕へ近づく。

指では触れず、光を斜めから当てた。


「被弾痕一。表面損傷」


田辺が裏側を見た。


「貫通なし」


側面の表示と管理札を読む。


防弾盾。

小銃弾対応。

警視庁機動隊装備。


「継続使用は検査まで未判定」


榎本が言った。


柏木が聞いた。


「使えないの」


「一発止めた後だ。次も同じように止めるとは約束できない」


柏木は持ち手を離さなかった。


「でも、これは持っていく」


田辺は三枝を見た。


三枝が車両の積載を確かめる。


「移送中は本人携行。帰着後、警察備品として仮管理。番号を付ける」


「正式な使用許可ではありません」


田辺が言った。


「分かってる」


「柏木さんにも説明します」


田辺は柏木の前へ戻った。


「これは警察の物です」


柏木の指が、持ち手に強くかかった。

田辺は続けた。


「でも、ここでは取りません。荻窪まで持っていけます」


柏木は一度だけ頷いた。


「着いた後は、保管場所を決めます。勝手に外へ持ち出さない。人を殴るために使わない」


「はい」


「持ち続けて腕を傷める必要もありません。見えるところへ置きます」


柏木は返事をしなかった。

交番を出る準備をした。

村瀬の遺体は、その場へ残すことになった。


ワゴン車には、生存者と記録類、回収備品を分けるだけの区画しかない。遺体を覆い、固定し、柏木と衛生的に分けて運ぶ装備もなかった。


三枝が言った。


「今日は保護対象を先に運ぶ。遺体回収は別便を要請する」


田辺は奥室を見た。


反対はしなかった。


遺体管理番号を確認する。

所持品袋の封緘を確認する。

位置見取図の控えを机へ残す。


奥室の扉を閉め、外側へ告知を付けた。


現場死亡確認済。

正式検案未了。

遺体管理番号。

警察系回収要請中。


交番入口にも、同じ番号と立入制限を残した。


田辺は扉の前で一度止まった。


敬礼はしなかった。


奥室の取っ手が閉まっていることを確かめ、それから柏木の方へ戻った。

柏木は立ち上がろうとしていた。

盾の下端を持ち上げる。


肩が揺れた。


一歩目で、膝が止まる。

小倉が手を出した。

柏木は盾を引いた。


「取らない」


小倉は言った。


「下だけ持つ。君の手は離さなくていい」


柏木は小倉の手を見た。

次に田辺を見る。

田辺が頷いた。


柏木は盾の下側だけを小倉へ預けた。

保持帯から腕は抜かなかった。


二人で、狭い入口を通る。


交番を出る時、盾が先に外へ出た。


その後ろから、柏木が出た。


ワゴン車の後部では、盾を座席へ立て、固定帯を通した。


柏木は隣へ座った。


固定が終わっても、片手を裏側の持ち手へ置いている。


「外れません」


榎本が固定帯を示した。

柏木は手を離さなかった。


帰りの車内で、柏木は何度か目を閉じた。

車が段差を越えるたびに目を開け、盾があることを確かめる。


秋人は向かいで、保護記録の下書きを作った。


柏木悠太。

十五歳。

交番内で保護。

意識あり。

会話可能。

飲水不足。

左前腕、擦過および圧迫痕。


家族。


父。

母。

弟。


最終確認場所、駅周辺。

現在地、未確認。


詳しい聞き取りは帰着後。


村瀬直也巡査部長。

現場死亡確認。

正式検案未了。


防弾盾一。

小銃弾対応。

被弾痕一。

貫通なし。

継続使用可否、未判定。


柏木本人が移送中携行。


同じ交番から出た事実が、一枚には収まらなかった。


生きている人。

死んだ人。

家族が見つからない人。

武器が見つからないこと。

弾を止めた物。


それぞれ別の欄が必要だった。


荻窪小学校へ戻ったのは、夕方近くだった。


校門の内側には、移動されたごみ袋が新しい列になっていた。


水場から離れ、発熱者区画の風下も避けている。完全な場所ではなかったが、朝よりは遠かった。


田辺がいない間、入口には給水班から回された男性が二人立っていた。


ワゴン車が入ると、小倉は先に降りた。


「保護一名。十五歳。脱水の可能性あり」


高橋が入口を空ける。

理沙は柏木の姿より先に、盾を見た。


「それを持ったまま降りるの?」


柏木が頷く。


「そのままだと、腕を痛めます」


理沙は言った。


「下を誰かに持ってもらって。取り上げません」


小倉が先ほどと同じように盾の下側へ手を入れた。

柏木は一瞬止まったが、拒まなかった。

体育館の入口側まで運ぶ。


理沙は壁際を指した。


「ここへ下の縁をつけて。倒れないように押さえます」


柏木は盾を壁へ向けなかった。

入口へ正面が向く角度に置いた。

被弾痕が、校門の方を向く。


その後ろへ座る。


保持帯から左腕を抜こうとして、途中で止まった。

指が開かない。


理沙が膝をついた。


「無理に開かなくていい。まず右手」


柏木は右手を見せた。


掌に、持ち手の形の赤い跡が付いている。


「名前を言えますか」


「柏木悠太」


「年齢」


「十五」


「息苦しくない?」


「ない」


「吐き気」


「ない」


「どこか撃たれていない?」


柏木は首を振った。


「分からない、じゃなくて、今見える血はないということでいい?」


「はい」


理沙は目、唇、呼吸、体温を確認した。


左腕の保持帯を少し緩める。


柏木の肩が下がった。


「水を少しずつ。食べ物も一度に入れません」


柏木は頷いた。


「盾はここにあります。動かしません」


そこで初めて、柏木は左腕を保持帯から抜いた。

腕が外れると、盾は壁と床だけで立った。

柏木はすぐに持ち手へ右手を戻した。

理沙は止めなかった。


保持帯を抜いた後も、柏木の左腕には帯の形が残っていた。


赤い線ではなかった。

押しつぶされた皮膚が、そこだけ色を変えている。


理沙が指で触れようとすると、柏木は腕を引いた。

盾ではなく、自分の腕の方を。


「手は置いていていい。指だけ、少しずつ伸ばして」


真衣が母の横から盾を見ていた。


黒い板の上の、小さな窓。


その下の白い傷。


「これ、撃たれたの?」


柏木は真衣を見た。


「一回」


「壊れてない?」


「抜けてない」


「重い?」


「重い」


柏木の開かない指を見ていた。


高橋は職員室で報告を受けた。


秋人は下書きを分ける。


交番跡確認記録。

柏木悠太保護記録。

柏木家族未確認者照会。

村瀬直也巡査部長死亡確認票。

遺体回収要請。

警察記録封緘票。

警察備品仮管理票。

拳銃・弾薬所在照会。


高橋が柏木の家族欄を見た。


「詳しい特徴は、今夜聞かないでください」


「はい」


「本人の体調が先です。家族の照会票は、分かるところまで」


秋人は、弟の年齢欄を空欄にした。


真衣と同じくらいかもしれないと思った。


書かなかった。


田辺は警察備品確認票へ署名した。


防弾盾の欄には、


仮管理。

本人携行希望。

移送中携行承認。

継続使用可否未判定。


とある。


「本人携行希望では足りません」


田辺が言った。


秋人は顔を上げた。


「何を加えますか」


「心理的な理由ではなく、経緯を書いてください」


田辺は盾の被弾痕を見た。


「村瀬巡査部長が柏木保護時に使用したとの本人申告。被弾後、柏木へ保持方法を指示。村瀬死亡後も入口防護に使用」


秋人は書いた。

ただ離したくないのではなかった。

柏木は、使ったことがあった。


弾が当たった時も。

誰かが扉を引いた時も。


田辺の署名が終わると、三枝が防水袋から白い封筒を出した。


表に田辺清作と書かれていた。


その下に、


警察再編連絡。

経歴照会・移動要請。


とある。


高橋が封筒を見た。


「今日の報告で出たものですか」


「違う」


三枝が答えた。


「今朝、出る前から預かっていた。本人確認と、勤務状況の照会だ」


田辺は封筒を受け取った。


「先に言わなかった理由は」


「交番の確認を先に終わらせるためだ」


田辺は封を切った。


中の用紙を読む。


元警察勤務。

避難所門衛。

通行整理。

警察備品確認への立会い。


移動先の正式な部署名は書かれていなかった。


警察再編連絡先。

北西方面残存署との接続。

立川側受付。


「次の便は」


田辺が聞いた。


「明後日の朝」


三枝が答えた。


「それまでに荻窪側の引継ぎをする。移動を受けるかは、今日中に返答が要る」


高橋が言った。


「田辺さんは、入口勤務の中心です」


「照会にもそう書いてある」


「二日で代わりを作れません」


「代わりが完成してから人を動かせる場所は、いま少ない」


三枝の声は変わらなかった。


小倉が入口記録を持ってきた。


「夜は二人いないと無理です。田辺さんが抜けたら、俺と、あと誰を組ませるんですか」


高橋は答えられなかった。


田辺は照会文書をもう一度読んだ。


それから高橋へ返さず、自分の前へ置いた。


「行きます」


小倉が田辺を見た。


「すぐ決めるんですか」


「明後日までに、入口の手順を渡します」


「そういうことじゃなくて」


田辺は小倉の言葉を待った。


小倉は続けられなかった。


田辺が言った。


「ここで知っている手順を、向こうでも使えます。交番と警察備品の照会先も必要です」


高橋が聞いた。


「戻る予定は」


「書かれていません」


田辺は、ないものをあるようには言わなかった。

その日のうちに、入口勤務の引継ぎが始まった。


田辺は小倉へ、門の記録箱を開けた。


外出者。

帰着予定。

持ち込み品。

発熱申告。

武器申告。

夜間呼びかけ。


「一人で門を開けないでください」


「分かってます」


「相手が一人でもです」


「はい」


「夜は内側に一人、確認に一人。扉を開ける人と、記録する人を分ける」


「田辺さんは一人でやってたこと、あるでしょう」


「だから、やらないでください」


小倉は返事をしなかった。

田辺は竹刀を差し出した。

小倉が受け取る。

いつも田辺が持っていた物は、小倉の手に入ると少し長く見えた。


「振るためではありません」


「入口を測るため?」


「人との距離を残すためです」


小倉は竹刀を門の脇へ立てた。


夜になっても、柏木は盾のそばにいた。

理沙が敷いた毛布へ座り、少量の粥を食べている。

右手で匙を持ち、左手は盾の持ち手へ触れていた。

食べるたびに手を離し、飲み込むと戻す。


秋人は長机で、最後の記録を作った。

村瀬の死亡確認票には、氏名、所属、確認場所、確認者、立会人、遺体管理番号、所持品、回収要請を書く。


柏木の保護記録には、意識、飲水、負傷、保護先を書く。

家族の未確認者照会には、父、母、弟を書く。

警察備品仮管理票には、盾の番号と被弾痕を書く。

田辺の入口勤務表には、明日までの引継ぎを書く。


机の上で、紙だけが増えた。


柏木の紙。

村瀬の紙。

盾の紙。

田辺の紙。


同じ交番から来たものなのに、重ねると角がずれた。


秋人は公式の記録とは別に、ノートを開いた。


柏木悠太。

十五歳。


交番の中で村瀬が返事をしなくなった後も、扉の内側にいた。

誰かが取っ手を引いた時、盾を扉へ向けた。

秋人は一行だけ、間を空けて書いた。


柏木は、最後までいた。


鉛筆を置く。

体育館の壁際には、黒い盾が立っていた。


下の縁は床へ着き、小さな防弾窓が入口を向いている。

白い被弾痕も、入口を向いていた。

柏木の手は、まだ裏側の持ち手に触れていた。


入口勤務表では、明後日から先の田辺の欄が空いていた。


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