表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
少年兵と、灰と青  作者: いちご牛乳
灰の東京
10/14

牛乳の値段

柏木は、すぐには眠れるようにならなかった。


体育館の壁際に毛布を敷かれても、先に見たのは床ではなかった。


入口までの距離。

人が通る幅。

盾の下端を置ける場所。


黒い防弾盾は、壁へ斜めに立てられた。


正面は体育館の入口へ向いている。小さな防弾窓も、白い被弾痕も、同じ方向を向いていた。


倒れ止めには、物資箱を縛っていた荷紐を使った。


田辺が盾の持ち手へ紐を通し、壁の金具へ結ぶ。


「眠る時は、保持帯へ腕を入れないでください」


柏木は盾の裏を見た。


「動かされたら」


「紐が鳴ります」


田辺は結び目を引いた。


「身体へ倒れる向きにも置きません。通路も塞がない。起きたら、固定と表面を確認してください」


柏木は頷いた。


「はい」


その夜、柏木は左腕を保持帯へ通さなかった。


片手だけを持ち手へ置いた。


体育館の入口が開くたび、目を開ける。


水を運ぶ足音。

便所へ向かう足音。

夜間門衛が交代する声。


危険のない音だと分かってから、また目を閉じた。


眠れていた時間は短かった。


それでも、盾を膝へ立てたまま起きているよりは、身体を横にできた。


真衣は翌朝、柏木のそばへ来た。


柏木は粥の椀を持っている。右手で匙を使い、左手は毛布の上に置いていた。


指を伸ばそうとすると、途中で止まる。


「まだ開かないの?」


真衣が聞いた。


「開く」


柏木は指を動かした。


完全には伸びなかった。


「それ、なんで入口に向けてるの」


真衣は盾を指した。


「そこから人が来るから」


「窓も?」


「見るため」


「寝てる時、見えないじゃん」


柏木は匙を止めた。


「音がしたら起きる」


真衣は少し考えた。


「眠い?」


「眠い」


「じゃあ寝ればいいのに」


柏木は答えなかった。


真衣も、もう聞かなかった。


田辺が荻窪小学校を出たのは、その次の朝だった。


灰犬のワゴン車が校門前へ来た。


田辺の荷物は多くなかった。


着替えを入れた布袋。

警察再編連絡の封筒。

入口手順の控え。


竹刀は小倉の手元に残った。


田辺は出発前に、入口記録をもう一度確認した。


外出者。

帰着予定。

持ち込み品。

発熱申告。

武器申告。

夜間呼びかけ。


小倉が記録箱を持っている。


「夜は二人」


田辺が言った。


「分かってます」


「門を開ける人と、記録する人を分ける」


「それも」


「相手が急いでいても、一人で開けない」


小倉は少しだけ顔をしかめた。


「全部、昨日も聞きました」


「今日から、私がいません」


小倉は返事をしなかった。


田辺は体育館の入口へ目を向けた。


柏木の盾が壁際にある。


柏木はその横へ立っていた。


田辺が近づく。


「固定は」


「緩んでない」


「被弾痕は」


「変わってない」


「保持帯へ腕を入れたまま眠っていませんね」


「入れてない」


田辺は頷いた。


「警察備品としての管理は、高橋さんへ引き継ぎます。外へ持ち出さないでください」


「はい」


柏木は、戻るのかとは聞かなかった。


田辺も、戻るとは言わなかった。


「村瀬巡査部長の遺体回収と、盾の照会は私からも出します」


「はい」


それだけだった。


ワゴン車が校門を出る。


小倉は車が角を曲がる前に、入口勤務表を見た。


田辺の名前があった欄へ、別の二人の名前を書き入れる。


一人分の空欄を埋めるために、二人必要だった。


その日の夕方、給水から戻った三人が門の外で待たされた。


入口へ回された二人のうち、一人は帰着時刻を確認し、もう一人は持ち込み品の袋を見ようとした。どちらも相手の返事を聞いていたが、記録箱へ書く者がいなかった。


小倉が体育館から呼ばれた。


「一人が聞いて、一人が書く。袋を見るなら、そのあと」


田辺から聞いた手順を、自分の言葉で言い直す。


門が開く音で、柏木が目を覚ました。


盾へ手を伸ばし、入口側へ傾いていないことを確かめる。


門衛が二人になっても、田辺一人がいた時と同じにはならなかった。


校庭では、ごみ集積所の移動が終わっていた。


杭と縄で、生ごみ、金属、瓶、医療廃棄物の位置が分けられている。乾いた可燃物を少量だけ焼く試行日も決まり、消火用の水と門衛を付けることになった。


暖かくなっても、楽になる仕事ばかりではなかった。


四月の終わりから五月の初めにかけて、荻窪駅の向こうにある交換場の噂が広がり始めた。


最初に聞いた話は、


「菓子と電池を交換している」


だった。


次の日には、


「粉乳がある」


に変わった。


給水から戻った人は、


「子ども用の粉ミルクを見た」


と言った。


昼頃には、


「駅の向こうで牛乳が配られるらしい」


という話になっていた。


配るという言葉は、どこから加わったのか分からなかった。


高橋は秋人へ情報票を渡した。


受信時刻。

発信元。

一次情報か伝聞か。

場所。

内容。

確認手段。

対応。


秋人は、同じ噂を一つへまとめなかった。


給水帰路、本人伝聞。

駅西側。

菓子、電池の交換。


避難者から聴取。

発信元不明。

粉乳ありとの話。


給水列。

複数人から伝聞。

粉ミルク、子ども用との話。


体育館内。

発信元不明。

牛乳配布予定との話。


最後の行には、


配布予定、確認できず。


と書いた。


真衣は秋人の横から用紙を見た。


「牛乳あるの?」


「まだ物も見てない」


「粉って書いてある」


「言った人がいるだけ」


「飲める?」


「分からない」


「また?」


「まだ見てないから」


真衣は、牛乳配布予定の行を見た。


「配るって」


「確認できず、って書いてある」


「でも、書いてある」


秋人は返事に詰まった。


書いてあるというだけなら、どちらも同じだった。


牛乳配布予定。

確認できず。


真衣は前の方だけを読んだ。


その日の午後、灰犬が市場確認任務票を持ってきた。


車両はなかった。


三枝、榎本、灰犬隊員二名が徒歩で校門へ来た。


三枝は高橋へ任務票を渡した。


対象。


荻窪駅西側、旧バス停付近。


確認事項。


出店数。

主要品目。

武器・弾薬。

医薬品。

燃料。

出所不明食品。

通行証、給水票、配給票。

身分登録または移送枠の取引。

暴力、強奪。

帰路の危険。


「市場を閉じるんですか」


高橋が聞いた。


「確認する」


三枝は答えた。


「衣類や容器まで止めるつもりはない。禁止品と書類の取引を見る」


「車は」


「出さない。市場へ車を入れると、買い付けか回収に見える」


榎本が言った。


「人も寄ります。退路も塞がる」


高橋は市場記録票を見た。


「荻窪側の記録も必要ですね」


三枝の視線が秋人へ向いた。


第四回外出同行票が出された。


同行責任者、三枝吾郎。

成人保護担当、小倉。

任務理由、非登録交換場の実態および禁止品取引確認。

移動、徒歩。

帰着予定、十六時。

携行武器、なし。

単独行動、不可。

交渉、不可。

交換、不可。

品物接触、不可。

書式見本提示、不可。

記録位置、交渉地点より後方。


母は、「交渉、不可」の行で指を止めた。


「話しかけられても?」


榎本が答えた。


「任務上の質問は、成人側がします。瀬戸は相手と条件を決めません」


「紙を見せることは」


「ありません」


「持っている用紙を取られそうになったら」


「記録板を閉じて下がらせます」


母は秋人を見た。


「自分で答えないで」


「うん」


通知確認欄へ、瀬戸美紀と書く。


備考。


保護者は同行に反対。


同じ文は四枚目にも残った。


柏木は盾のそばから任務票を見ていた。


「駅の西?」


秋人が頷く。


「うん」


柏木は何か言いかけた。


口を閉じる。


「何」


秋人が聞いた。


「別に」


柏木は盾の固定紐を引いた。


「戻ったら、聞く」


何を聞くのかは言わなかった。


一行は歩いて駅西側へ向かった。


三枝。

榎本。

灰犬隊員二名。

小倉。

秋人。


車がない分、灰犬は目立たなかった。


それでも、小銃と腕章を見れば人は避けた。


駅前に近づくにつれて、道端に座る人が増えた。


袋を膝へ置く人。

空容器を持つ人。

靴を脱いで足を見ている人。

何も持たず、通る人の手だけを見る人。


旧バス停の一つ手前で、灰犬隊員一名が止まった。


「ここで待機」


榎本が言う。


隊員は角の壁際へ移り、駅側と帰路の両方が見える位置に立った。


秋人は小倉と一緒に、その前を通る。


「退路ですか」


「そうです」


榎本は短く答えた。


交換場は、使われなくなったバス停の周囲にできていた。


屋根の下へ布が敷かれている。


外された棚板。

壊れた机。

扉だった板。


それぞれの上に物が並ぶ。


洗ったペットボトル。

衣類。

片方だけの手袋。

乾電池。

自転車の部品。

石鹸の欠片。

縫い直した袋。


少し離れた布には、飴、茶葉、インスタントコーヒーがあった。


値札はない。


一人が電池を差し出し、別の人が靴下と交換する。


空容器二本と、針金の束。


子どもの上着と、石鹸。


同じ物でも、相手によって交換条件が違っていた。


年配の女性が、破れた上着を膝へ広げていた。


縫い直す代わりに石鹸の欠片を受け取っている。隣では、自転車の鎖を直した男が、米ではなく空の灯油容器を選んだ。


幼い子どもを連れた女性は、靴下を差し出して蓋つきの瓶を受け取った。瓶の口を何度も確かめ、割れがないことを見てから袋へ入れる。


公式配給の列には、縫い物も、空容器の蓋も、自転車の修理も並ばない。


ここでは、そういう不足が別の不足と交換されていた。


同じ電池でも、服と替える者がいた。


水を求める者もいた。


決まった値段はなかった。


市場の端には、立川側の掲示があった。


武器・弾薬の無許可取引禁止。

医薬品・燃料の無届売買禁止。

通行証、給水票、配給票の譲渡・偽造禁止。

暴力、強奪禁止。


掲示は剥がされていなかった。


その前でも、取引は続いている。


三枝は市場の入口で止まり、全体を見た。


「出店数」


秋人が数える。


固定した台が九。

布だけの場所が四。

持ち歩いている者は数えきれない。


「固定または半固定、十三前後」


秋人は書いた。


三枝は灰犬隊員へ言った。


「武器を探して回るな。見えた物と申告だけ取れ」


榎本は小倉へ秋人の停止位置を示した。


「この板より前へ出さないでください」


地面に倒れた看板だった。


秋人はその後ろで記録板を開いた。


市場の中央では、薬瓶らしいものを隠す男がいた。


別の台には、灯油缶が一つ置かれている。


灰犬隊員が売り手へ届け出の有無を聞く。


怒鳴り声にはならなかった。


品物を布で隠す者。

台ごと移動する者。

申告する者。


反応は分かれた。


白い粉は、旧バス停の標識に近い台にあった。


売り手は、黒い帽子をかぶった男だった。


頬がこけ、指の爪に黒い汚れが入っている。


台には、小さな菓子、砂糖の袋、茶葉、缶詰が並んでいた。


端に、白い粉の袋がある。


一つは元の包装らしい。


上部が切られ、口を折って紐で縛ってある。表示は半分破れ、「脱脂」の二文字だけが残っていた。


もう一つは透明な小袋だった。


輪ゴムで口を閉じている。


白い粉の中に、小さな固まりがある。


三枝が聞いた。


「何だ」


男は答えた。


「脱脂粉乳」


「元の袋か」


「そうだ」


「どこから」


「倉庫」


「どこの」


「そこまで言ったら持ってくだろ」


三枝は袋を見た。


触れなかった。


榎本が横から表示を読む。


「開封日は」


「知らない」


「保管場所」


「濡れてない場所」


「温度は」


男は笑った。


「冷蔵庫が動いてるなら、こっちが買う」


秋人は書いた。


乳製品様粉末。

売り手申告、脱脂粉乳。

元包装らしき袋、一。

小分け透明袋、複数。

出所、詳細申告なし。

開封日、不明。

保管温度、不明。

湿気による固まりあり。

摂取可否、未判定。


粉は白かった。


水へ溶かせば、白くなるのかもしれない。


牛乳と呼べるのかは分からない。


真衣は、飲めるのと聞いた。


秋人は、まだ見ていないと答えた。


いま見ても、答えは増えなかった。


小倉が聞いた。


「何と交換する」


男は小倉の持ち物を見た。


「弾があるなら弾」


「ない」


「薬」


「出さない」


「燃料」


「持ってない」


男の視線が、三枝の腕章へ移る。


「通行証なら」


三枝は答えなかった。


「給水票でもいい。配給票でも」


「譲渡禁止だ」


榎本が言った。


男は肩をすくめた。


「こっちじゃ禁止札は腹に入らない」


視線が、秋人へ移った。


青い布。

記録板。

鉛筆。


男は、粉の袋ではなく、秋人の腕を見るようになった。


「その番号を書いたのは、お前か」


秋人は答えなかった。


同行票には、交渉不可とある。


男は記録板を指した。


「字は書けるんだろ」


小倉が秋人の前へ半歩出た。


「こいつに話すな」


男は小倉を見ずに続けた。


「通行証の写し、一枚。給水票の控えでもいい」


秋人は記録板を持ったままだった。


「世帯を一つ足せるか」


男の声は大きくなかった。


周囲の二、三人が顔を向けた。


秋人の指が、板の縁を強く押した。


世帯を一つ。


名前。

年齢。

家族。

人数。


空いている欄へ、字を入れる。


仮の書式なら、秋人は知っていた。


給水票の番号も、世帯票の並びも見てきた。


似た字を書けるかもしれない。


避難所内の控えは、手書きが多かった。


押印のない用紙もある。


急いで作った仮番号なら、字の形と並びが似ているだけで、列の途中では通るかもしれない。


一人分を足す。


水の残量は増えない。


配給の袋も増えない。


それでも、名前を書いた瞬間には、まだ誰の分が減るのか見えない。


真衣が白い粉を飲めるなら。


その考えは、答えになる前の形で頭へ浮かんだ。


「瀬戸」


榎本の声。


秋人は顔を上げた。


「記録板を閉じろ」


秋人は板を閉じた。


「返事をするな。小倉さんの後ろへ」


一歩下がる。


小倉の肩が、男と秋人の間に入った。


榎本は男へ聞いた。


「いま要求したのは、通行証の写し、給水票の控え、世帯登録への追加で間違いないか」


男は笑った。


「聞いただけだ」


「要求として記録する」


「勝手にしろ」


榎本は秋人を振り返った。


「記録板を開け。今の言葉だけ書け」


秋人は小倉の後ろで板を開いた。


偽造要求。


通行証の写し。

給水票の控え。

世帯登録、一件追加。


要求者、氏名申告なし。

記録補助、応答なし。

書式見本、提示なし。


鉛筆の先が、最後の字で少し欠けた。


市場の横から声がした。


「本当に足せるのか」


別の男だった。


その後ろでも、誰かが秋人の青い布を見ている。


榎本が秋人の記録板を手で覆った。


「ここまで。位置を下げる」


小倉が秋人を市場入口側へ移す。


灰犬隊員が、声をかけた男と白い粉の売り手の間へ立った。


小銃は吊ったままだった。


銃口を上げなくても、人の輪は少し広がった。


男が聞いた。


「それで、粉は要らないのか」


三枝が答えた。


「安全確認用の見本なら受ける」


「金は」


「払わない」


「じゃあ何が返る」


「受領票。確認できた内容は次回伝える。安全証明は約束しない」


男は顔をしかめた。


「受領票を食えって?」


「嫌なら出さなくていい」


三枝は市場の周囲を見た。


「ただし、子ども用、医療用と称して売るなら、次は袋と出所を全部確認する」


男は黙った。


周囲の客が、白い粉の袋を見ている。


安全だと認められれば、売りやすくなる。


認められなければ、価値が下がる。


男は、その両方を量るように袋を見た。


男は透明な小袋を一つ取り上げた。


「これだけだ」


三枝は受け取らなかった。


榎本が新しい手袋を出し、試料用封緘袋を開いた。


男に、その中へ小袋を入れさせる。


秋人は試料受領票を書いた。


品目。

乳製品様粉末。


売り手申告。

脱脂粉乳。


数量。

小袋一。


受領区分。

無償見本。


目的。

表示、状態、安全確認可否の照会。


安全証明。

約束なし。


一般配給。

不可。


返還。

状態により不可の場合あり。


売り手は氏名欄へ名前を書かなかった。


代わりに、


旧バス停、黒帽子。


と秋人が備考へ記した。


市場全体は閉鎖されなかった。


三枝は灰犬隊員へ指示した。


「今日は売り手と場所を残す。衣類、容器、修理品には触るな」


「薬と燃料は」


「申告を取る。弾薬が見えたら止める。通行証と給水票の取引は次回確認対象」


小倉が聞いた。


「解散させないんですか」


「ここで散らせば、家の中へ移る」


三枝は市場の路地を見た。


「今日は位置が見えている方がいい」


三枝たちが移動すると、止まっていた取引が少しずつ戻った。


衣類が持ち上げられる。

電池が数えられる。

容器の口が確かめられる。


白い粉の台には、人がすぐには戻らなかった。


市場を出る時、秋人は掲示の下を見た。


通行証、給水票、配給票の譲渡・偽造禁止。


文字は朝からそこにあったはずだった。


売り手も、周囲の人も読めないわけではない。


読めても、必要が消えるわけではなかった。


帰路、榎本は秋人へ同行票を返さなかった。


結果欄を書くため、自分で持っていた。


「男の要求に、返事はしていませんね」


「はい」


「書式を見せていない」


「はい」


「作れると思いましたか」


秋人は歩きながら、すぐには答えられなかった。


「似たものなら」


榎本は責めなかった。


「給水票を一枚作れば、受け取る水が一人分増えます」


「はい」


「水の量は増えない」


秋人は頷いた。


「世帯を一つ足せば、配給も一世帯分動く。偽物が通った後は、本物も疑われます」


秋人は左腕の青い布を見た。


文字は手書きだった。


荻小。

仮〇〇七。

記録補助。


同じ布とペンがあれば、似たものは作れる。


「俺の字なら、本物に見えますか」


「見える可能性があります」


榎本は答えた。


「だから、今日の要求を高橋さんへ渡します。仮番号と書式の扱いを変える必要があります」


秋人は返事をしなかった。


役に立つ字と、偽物を本物に見せる字は、同じ手から出る。


荻窪小学校へ戻る前に、噂の方が先に着いていた。


校門近くで、避難者が高橋へ聞いている。


「粉ミルクを持ってきたんだって?」


「子どもへ配るんですか」


「病人が先だろ」


「名簿に入ればもらえるって聞いた」


高橋は答えを繰り返さなかった。


掲示板へ新しい用紙を貼った。


確認済み。


白色粉末の見本、一袋。

出所、安全性、成分、未確認。


未確認。


粉ミルクであること。

乳幼児用であること。

配給予定。

医療用途。


対応。


一般配給なし。

乳幼児使用不可。

医療机で隔離保管。


次回更新。


明日正午。


真衣は掲示より、榎本が持っている封緘袋を見た。


「あれ?」


秋人は頷いた。


「白い粉」


「飲める?」


理沙が先に答えた。


「飲ませません」


真衣は理沙を見た。


「なんで」


「何が入っているか、安全かどうか、確かめる方法がないからです」


「牛乳じゃないの」


「売っていた人は脱脂粉乳だと言いました。でも、乳幼児用の粉ミルクとは別の物です。袋の中が表示どおりかも分かりません」


真衣は封緘袋へ近づかなかった。


「白いのに」


「色だけでは決めません」


理沙は手袋を替え、封緘袋の外から確認した。


輪ゴム。

湿気た固まり。

小さな黒い点。


袋は開けなかった。


食品隔離箱へ入れ、蓋を閉める。


乳製品様粉末。

摂取不可。

開封禁止。


と札を付けた。


秋人は、三月に持ち帰ったいちご牛乳を思った。


あれも、店に残っていたから安全だったわけではない。


冷蔵棚は止まり、飲めるか分からなかった。


見つかったことと、安全なことは、別だった。


真衣は食品隔離箱を見た。


「じゃあ、捨てるの?」


「すぐには捨てません」


理沙が答えた。


「表示と出所を照会します。使わないまま終わることもあります」


真衣は不満そうだった。


それでも、箱へ手を伸ばさなかった。


高橋は第四回外出同行票の結果欄を埋めた。


帰着時刻。

十五時四十分。


本人負傷。

なし。


交渉。

なし。


交換。

なし。


品物接触。

なし。


備考。


市場売り手から、通行証、給水票、世帯登録の偽造要求あり。

記録補助は応答せず。

成人保護担当により位置変更。


母は結果欄を読んだ。


「交渉、なし」


その行の下に、偽造要求ありと書かれている。


条件どおりであることと、何も起きなかったことは、また別だった。


柏木は体育館の壁際にいた。


盾の正面は入口を向いている。


秋人が戻ると、柏木は立ち上がらなかった。


「駅の人、いたか」


「いた」


「家族のこと、聞けた?」


秋人は首を振った。


「市場の確認だけだった。家族のことまでは聞けなかった」


柏木は頷いた。


「そう」


それ以上は聞かなかった。


盾の下端が、通路へ数センチ出ていた。


柏木は固定紐を緩め、壁側へ寄せる。


人が通れる幅を確かめてから、もう一度結んだ。


夜、秋人は市場記録を清書した。


場所。

荻窪駅西側、旧バス停付近。


形態。

半固定交換場。


固定または半固定出店。

十三前後。


主要品目。

衣類、容器、電池、修理部品、石鹸、菓子、茶、缶詰。


禁止品または要届出品。

医薬品らしき瓶。

燃料容器。

弾薬取引の申告。

通行証、給水票、配給票、世帯登録の取引要求。


暴力。

確認なし。


拘束。

なし。


市場閉鎖。

なし。


試料受領。

乳製品様粉末、一袋。

売り手申告、脱脂粉乳。

出所不明。

開封日不明。

摂取可否未判定。

一般配給不可。

乳幼児使用不可。


偽造要求記録。


通行証の写し。

給水票の控え。

世帯登録、一件追加。


記録補助、応答なし。

書式見本、提示なし。


高橋は最後の欄を二度読んだ。


秋人の青い布を見る。


「番号と表示方法を変える必要があります」


「いつ」


秋人が聞いた。


「立川へ照会します。正式な登録書式が届くなら、そちらへ合わせます」


高橋は仮青布番号の控えを閉じた。


「少なくとも、手書きの布だけでは足りません」


秋人は左腕を見た。


外では効かない印だと思っていた。


市場では、別の効き方をした。


書類を作れる人間だと見つける印になった。


公式記録を渡した後、秋人は自分のノートを開いた。


白い粉。


売り手は脱脂粉乳と言った。

理沙は使わないと言った。

真衣は飲めるか聞いた。


男が要求したものを書く。


弾薬。

薬。

燃料。

通行証。

給水票。

配給票。

世帯登録。


その下へ、真衣の名前を書きそうになった。


書かなかった。


真衣は、交換する物ではなかった。


秋人は少し間を空けて、一行だけ書いた。


牛乳の値段。


その下へ金額の欄を作ろうとして、鉛筆を止めた。


金額を書く場所ではなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ