未確認者
昼を過ぎても、冷蔵庫の音は戻らなかった。
朝までは低く唸っていた。台所に入れば聞こえ、気にしなければ忘れていられる音だった。
それが止まっていた。
瀬戸秋人は冷蔵庫の扉を開けた。
中には、麦茶、卵、開封済みの味噌、小さなヨーグルトが残っていた。冷気はまだ少しある。
扉のゴムから、冷蔵庫の中の湿った匂いがした。昨日までなら気にならなかった匂いだった。
牛乳はなかった。
真衣は食卓の椅子に座り、いつもより小さく足を揺らしていた。
「ない?」
「ない」
「ヨーグルト、食べていい?」
「母さんに聞きな」
「食べちゃっていいよ」
居間から母の声がした。
秋人はヨーグルトを取り出し、すぐ扉を閉めた。冷気を逃がすなと、何度も言われてきた。電気が戻らなければ同じかもしれない。それでも、開けたままにはできなかった。
真衣が蓋を剥がし、一口食べた。
プラスチックの匙が容器の底を擦る音だけが、止まった冷蔵庫の前で大きく聞こえた。
母は居間で防災用のラジオを回していた。父が何年か前に買った、懐中電灯のついた手回し式だった。
ざりざりという音の間に、途切れた声が混じる。
「……不要な外出は控え……」
「……都心部の被害は……」
「……各自治体の指示に……」
自治体。
杉並区。東京都。国。
どれも知っている言葉だった。いま、どこから何を指示できるのかは分からなかった。
母はラジオを置き、スマートフォンを見た。画面はつく。通話はできない。
「お父さんからは」
秋人が聞いた。
母は首を振った。
「会社も駄目。メールも送れない」
画面を伏せた後も、母の指は端末の縁に触れたままだった。
真衣が空の容器を流し台へ置いた。
秋人は廊下の方を見た。父が鍵を回す音も、階段を上がる足音もない。真衣が容器を置いた音で、自分がラジオではなく玄関を聞いていたことに気づいた。
「お父さん、帰ってくる?」
母は少し遅れて答えた。
「帰ってくる」
真衣だけを見ていた。
窓の外は白く濁っていた。灰のようなものはまだ降っている。ベランダの手すりと植木の葉に、薄く積もっていた。
不意に道路から声が聞こえた。
「避難所、開いたって」
「小学校?」
「荻窪小。水があるかは分からない」
母が顔を上げた。
すぐには立たなかった。窓の外と、玄関へ続く廊下を一度ずつ見た。
家にいれば、父が戻った時に分かる。
しかし、電話は通じず、電気も止まった。水道はまだ出るが、いつまで出るか分からない。食べ物も多くない。
小学校なら、少なくとも人がいる。名簿へ名前を残せば、父が別の場所へ戻った時にも、家族の行先を照会できるかもしれない。水や情報が集まる可能性もあった。
安全だからではなかった。
家にいるより、探す場所を一つにできる。
父を待つ場所を離れることになる。秋人はそのことを考えたが、母へは言わなかった。母が見ていた廊下も、もう音を返さなかった。
母は立ち上がった。
「防災袋を出しましょう」
それで決まった。
押し入れの袋には、期限を過ぎた保存水が二本、乾パン、軍手、古いタオル、懐中電灯、ビニール袋、絆創膏が入っていた。
母は保存水の日付を見た。
「入れ替えておけばよかった」
「水なら出る」
「今はね」
秋人は自分の学校用リュックを使おうとして、教室へ置いてきたことを思い出した。財布も定期も弁当箱も、その中にある。
手元にあるのはスマートフォンと、日本史のノートだけだった。
「鞄は?」
「学校」
「全部?」
「ノートだけ持ってきた」
母は何か言いかけ、やめた。
真衣はランドセルを背負おうとした。
「それは置いていく」
「教科書は?」
「いらない」
「宿題」
「今はいい」
真衣は食卓の漢字ノートを見た。秋人も見た。
「一冊だけなら」
秋人が言うと、真衣はすぐにノートを取った。
「鉛筆も」
「一本」
真衣は三本入れた。
「折れたら困るから」
秋人は返さなかった。
母は飴、塩せんべい、未開封のビスケットを袋へ入れた。冷蔵庫も一度開けたが、持ち出すものはなかった。
「牛乳は?」
真衣が聞いた。
「ない」
「買いに行く?」
「店が閉まってる」
秋人が答えた。
真衣は秋人を見た。
「でも、お兄ちゃん買うって言った」
「買えなかった」
「学校だったから?」
「うん」
「じゃあ仕方ないね」
本当に納得したのか、そう言うことにしたのかは分からなかった。
母はリュックの口を閉めた。
玄関を出る前に、冷蔵庫へ貼ってあったメモ用紙を一枚取った。
荻窪小学校へ行きます。
秋人、真衣と一緒です。
美紀。
母は少し考えてから、その下へ書いた。
必ず来て。
紙は玄関の内側に貼った。外からは見えない位置だった。
母は真衣の靴紐を結び、タオルを口元へ巻いた。秋人にも渡した。
「して」
「大丈夫」
「して」
秋人は口と鼻を覆った。
外の空気は粉っぽかった。
外は、灰が降る以外いつもの道だった。駐車場の車も、植木鉢も、閉じたクリーニング店も昨日と同じ場所にある。
だが、人の流れは逆だった。
マスクのある人はマスクをし、ない人はタオルや袖を口へ当てていた。駅へ向かう人、駅から戻る人、小学校へ行く人が同じ道ですれ違う。誰も散歩の速さでは歩いていなかった。
タオルの内側へ自分の息が戻り、すぐ湿った。粉の匂いは薄くなったが、喉のざらつきは消えない。小学校へ向かう人が一番多かった。
マンションの前で、老婦人が座り込んでいた。隣の女が、誰か手を貸してください、と呼んでいる。
母は足を止めた。
老婦人の顔は白く、額に汗が浮いていた。別の男が肩を貸し、立たせようとしている。
母は保存水を一本出しかけた。
二本しかなかった。
老婦人を見た。
真衣を見た。
手の中の水を見た。
結局、袋へ戻した。
ペットボトルが袋の中の乾パンへ当たり、鈍い音がした。母は歩き出してからも、リュックの肩紐を握り直していた。
「おばあちゃん、大丈夫?」
真衣が聞いた。
「あの人たちが見てくれてる」
母はそう言って歩き出した。
答えではなかった。
荻窪小学校の門前には人が集まっていた。
体育館が開き、校庭には避難者の列ができている。教師のほかに、町内会の腕章をつけた大人が動いていた。
門の横に手書きの紙が貼られていた。
避難者受付。
世帯ごとに記入。
負傷者、体調不良者は先に申告。
水の配布は準備中。
母は真衣の手を握り、列へ並んだ。秋人は後ろに立った。
前の女は赤ん坊を抱いていた。赤ん坊は泣かず、背中を叩かれても目を開けなかった。
長机の上には、学校の印刷用紙を裏返した紙が何枚も置かれていた。
氏名。
年齢。
住所。
連絡先。
家族。
負傷。
持病。
必要な薬。
一緒にいない家族。
母がペンを取った。
瀬戸美紀。
四十二歳。
瀬戸秋人。
十六歳。
瀬戸真衣。
十歳。
父の欄で手が止まった。
瀬戸雅之。
四十六歳。
勤務先、大手町方面。
三月二日朝、荻窪駅で別れ。
連絡不能。
受付の男が別の紙を出した。
「ご主人は、こちらにもお願いします」
未確認者照会票。
その見出しは、秋人が家のノートへ書いた言葉と似ていた。だが、枠と欄の中に置かれると、別のものに見えた。
母は父の名前をもう一度書いた。
最終確認場所。
服装。
所持品。
勤務先。
家族の避難先。
「確認が取れたら、掲示か呼出しで知らせます」
男は紙を受け取った。
母の字で書かれた父の名前が、別の紙束へ移った。
受付の男が次の世帯を呼び、母は長机から離れた。秋人は父の名前が紙束の下へ隠れるまで見ていた。
真衣に袖を引かれて、自分だけ受付の前に残っていたことに気づいた。
秋人たちは体育館の入口近くへ案内された。ブルーシートの区画は狭く、家族三人が座ると、通路へ膝が出た。
壁には卒業式の横断幕が残っていた。
卒業おめでとう。
その下で、老人が咳をしていた。
三月の体育館は冷えた。床から上がる冷気を、薄いブルーシートは止めなかった。
濡れた靴下、古い毛布、消毒液、汗の匂いが混じっていた。人が増えるたびに声は大きくなったが、天井が高いため、誰の言葉も途中で薄くなった。
奥では、机を並べて怪我人を見ていた。
養護教諭らしい女。
つなぎを着た男。
灰色のパーカーに黄色いビブスを重ねた若い女。
若い女は、指先の余った手袋で老人の額へ触れていた。
「血は止まっています。気分が悪くなったら呼んでください。水は少しずつ」
「先生ですか」
「医者ではありません。看護学生でした」
言い慣れているのに、言うたび疲れる声だった。
母が真衣の額へ触れた。
「熱はないと思うけど……」
真衣は黙っていた。
顔色は悪かった。歩いて疲れたのか、怖かったのか、灰を吸ったのか、分からない。
母は立ち上がり、奥の机へ行った。
「すみません。子どもを見てもらえますか」
若い女性がこちらを見た。
「怪我ですか」
「怪我はないと思います。灰を吸ったかもしれなくて」
「咳は?」
「少し」
彼女は小さな懐中電灯を持って近づいてきた。
「名前は」
母が答えようとすると、真衣が自分で言った。
「瀬戸真衣」
「真衣ちゃんね」
若い女性はしゃがんだ。
「私は佐伯理沙。少し見るね」
理沙は目と喉を見た。聴診器はなく、胸の動きと呼吸の速さを見て、指先を押した。
「息苦しい?」
「ちょっと」
「胸は痛い?」
「痛くない」
「気持ち悪い?」
「牛乳がない」
理沙の手が一瞬止まった。
「それは、困ったね」
「お兄ちゃんが買えなかった」
理沙が秋人を見た。
「お兄ちゃん?」
「はい」
「名前は」
「瀬戸秋人です」
「秋人くん」
理沙はすぐ名前で呼んだ。
それが少し変に聞こえた。
学校でも、避難の列でも、秋人は名字で呼ばれることが多かった。
「咳が増えたらすぐ連れてきて。口と鼻は覆って。水が出たら、タオルを少し湿らせてください」
母が言った。
「水、二本しかなくて」
「分かりました。乾いたままでも、ないよりはいいです。口と鼻を覆ってください。水が配られたら、少しだけ湿らせて」
「ありがとうございます」
「診断はできません。苦しそうなら、また呼んでください」
母は言い直した。
「それでも、ありがとうございます」
理沙は少しだけ目を伏せた。
「具合が悪くなったら呼んでください」
理沙は次の人へ戻った。
その時、体育館の入口で声が上がった。
列が崩れた。受付にいた大人が立ち、入口へ向かう。男が一人、倒れ込むように入ってきた。
スーツは裂け、髪と肩に白い粉がついていた。顔の片側は赤い。片方の靴がなく、靴下の足が黒く汚れている。
男は床に手をついた。
「水」
誰かが紙コップを持って近づこうとした。
別の誰かが叫んだ。
「触るな」
「放射能だろ」
「外に出せ」
「子どもがいるんだぞ」
母が真衣を背後へ下げた。
真衣は母の服を握った。
秋人も動けなかった。
男は顔を上げた。
「大手町」
秋人の胸が一度詰まった。
「丸の内……会社に、まだ」
父ではない。
黒いコートでもない。父より若く見える。そう分かっているのに、目を離せなかった。
母が秋人の袖を引いた。その時になって、真衣を背後へ下げる人の流れの中で、自分だけ入口へ近づいていたことに気づいた。
秋人は一歩戻った。男の足から落ちた黒い水が、床の溝をこちらへ流れてきた。
理沙が入口へ向かった。
「子どもを下げて。通路を空けてください」
「近づくなって」
「患者です」
「汚れてるだろ」
「分かりません。だから、ここから先へ人を入れないで」
理沙は男の横へしゃがんだ。手袋の指先が余っていた。それでも額へ触れ、呼びかけた。
「お名前は」
理沙が聞いた。
男は唇を動かした。
「大手町」
「お名前」
「会社に、まだ」
「どちらから来ましたか」
「地下に、人が」
男は水を見た。
紙コップが口元に近づけられる。
男はそれを飲もうとして、すぐに吐いた。
床へ広がった水に、赤いものが混じった。
周囲の人が下がった。
理沙は声を上げた。
「急に飲ませないで。横にします。頭をこちらへ」
「佐伯さん、これ、火傷ですか」
町内会の男が聞いた。
「分かりません」
理沙は言った。
「火傷かもしれません。粉を吸ったのかもしれません。熱かもしれない。被ばくかもしれない。でも、ここでは分かりません」
被ばく。
体育館の中で、その言葉だけが少し重くなった。
誰かがまた言った。
「外に出せよ」
理沙はその人を見た。
「外に出したら、もっと早く死にます」
静かな声だった。
秋人たちの受付をした男、高橋と名札をつけた受付の男が来た。
「器具室の横を空けます。そこまでの通路を使わないでください」
高橋は入口の床と、奥の器具室を見比べた。
「田辺さん、一般の人を反対側へ。小倉さん、大きい袋とシートを」
白髪の男が入口へ立ち、人を押し戻した。町内会の腕章はなく、古い警察用の笛を首から下げていた。
「靴のまま下がって。ここを踏まないでください」
小倉と呼ばれた、町内会の腕章をつけた中年の男がブルーシートとごみ袋を運んできた。
完全な区画は作れなかった。入口脇の床へシートを敷き、椅子を横倒しにして人を近づけないようにした。器具室までの通路にも机を置いた。
理沙は男の上着を脱がせた。高橋が袋へ入れる。
「靴も別に」
「片方しかありません」
「片方でも」
財布らしい黒い物と鍵が出た。触った人がどこへ置くか迷った。
高橋は紙を一枚取り、上へ書いた。
荻小・氏名不詳一。
同じ文字を、上着の袋、靴の袋、所持品の袋にも書いた。
「測るものは?」
誰かが聞いた。
「ありません」
高橋は答えた。
「だから、付着疑いで分けます」
理沙と小倉が男を器具室横へ移した。通った床は新聞紙で覆われ、その上へ別のシートが置かれた。正しい処理なのか、秋人には分からなかった。
少なくとも、人がそこを歩かない形にはなった。
秋人がその様子を見ていると、高橋が秋人を見た。
「瀬戸くん、だったよね。すまないんだけれど、手伝ってもらえるかな」
驚きながらも、秋人はうなづいた。
狭いブルーシートに座って何もしないでいるより良いことな気がした。
「字は書ける?」
「書けます」
「聞こえたことだけ書ける? 考えたことは混ぜないで」
秋人は日本史のノートを開いた。高橋は裏紙とペンを渡した。
高橋は秋人を立ち上がらせると、器具室横まで連れて行った。
母が何か言いかけた気がしたが、秋人は振り返らずついて行った。
器具室横で小倉が男のコートや靴を脱がして袋に詰めていた。
高橋もそれを手伝いはじめる。
「瀬戸君、そこからお願い、無理に近づかなくていいから」
秋人がうなずくのを見た理沙が、男の様子を見てそれを口に出した。
男性。
氏名不明。
大手町、丸の内、会社、地下等の断片的発語。
嘔吐。
顔面発赤。
水、飲み込めず。
衣服と髪に白い粉状物付着。
片靴なし。
意識混濁。
医療確認中。
秋人は書いた。
被ばく、とは書かなかった。
理沙はそう言っていない。
ペンを離すと、握っていた指が汗ばんでいた。
指先は少しだけ冷たい。
父ではないと分かった後も、胸の詰まりだけが残っていた。
高橋は紙を読んだ。
「読みやすい」
それから一行を指した。
「『顔面発赤』は誰が言った?」
「理沙さんが、赤いって」
「なら残す。『被ばく』は?」
「書いてません」
高橋は頷いた。
「いいことだね。書かないことは意外と難しいから」
その紙は、氏名不詳一の所持品袋と同じ机へ置かれた。
「ありがとう。助かったよ」
高橋はそう言い、秋人は頷くと母と真衣のところへ戻った。
体育館の中では、人が少しずつ元の場所へ戻っていた。
元の場所へ戻っても、入口の机とシートを誰も見ないふりはできなかった。
真衣が母の後ろから聞いた。
「あの人、お父さんのところから来たの」
秋人は答えられなかった。
母が言った。
「分からない」
夕方近くになり、水が配られた。
子ども、老人、負傷者が先だった。一人につき、紙コップの底が隠れる程度だった。
真衣は両手で持った。
「牛乳じゃない」
「今は水を飲んで」
「白くない」
「うん」
「味もない」
「うん」
真衣は少し飲み、母へ差し出した。
「真衣が飲んで」
「お母さんは」
「あとで」
秋人にも差し出した。
「いらない」
喉は乾いていた。
断ったあと、舌が上顎に貼りついた。それでも、真衣の紙コップへ手を伸ばす気にはならなかった。
真衣は納得しない顔で、残りを飲んだ。
「瀬戸くん」
高橋が声をかけながら近づいてきた。
こちらに軽く一礼すると高橋が話し出す。
「お母さま、先ほどは急に瀬戸くんをお借りしてすみませんでした」
母も頷いた。
「いえ」
「実は、もう一度瀬戸君をお借りできないかと思いまして」
秋人は瞬きをした。母を見る。
表情は硬かった。
「先ほどの記録、瀬戸君は簡潔に上手くまとめてくれました。それを見込んで、受付を手伝っていただけないかと」
「受付、ですか」
「はい」
母が秋人を見た。
「秋人は、手伝いたい?」
秋人は頷いた。
やはり、小さなブルーシートの上に座っているだけは落ち着かないままだった。
頷く秋人を見て、母が言った。
「……先ほどのようなことは」
「お約束はできませんが、危険なことは私や大人がやります」
「わかりました。では、よろしくお願いいたします」
秋人は高橋に付いて長机へと行った。
長机の上には、避難者の紙が積まれていた。
受付の大人たちは足りていなかった。同じことを何度も聞き、同じ欄を何度も指差している。
「この人、こっちでは未確認です」
受付を手伝う女が言った。
「本人が今いるなら、消さないで線を引いて。在所確認へ」
高橋が答えた。
「消しゴムは?」
「使わない。後で、どう変わったか分からなくなる」
秋人はそのやり取りを聞いていた。
紙の上で、一人の人間が二人になっていた。
いる人。
いない人。
高橋が秋人へ一世帯分の紙を差し出した。
「試しに、これを清書して」
世帯番号。
氏名。
年齢。
住所。
状態。
備考。
秋人は、元の紙と見比べながら書いた。
山田久子。
七十八歳。
天沼。
歩行困難。
山田明美。
五十一歳。
天沼。
付き添い。
小林直人。
三十六歳。
荻窪。
左前腕裂傷。
名前は、思ったより重かった。
知らない人の名前だった。
それでも、書くとそこにいるように見えた。
紙の上で、山田久子は歩行困難になった。
小林直人は左前腕裂傷になった。
秋人は字を崩さないようにした。
高橋が時々横から見た。
「読みやすいな」
秋人は返事をしなかった。
推測は足さなかった。読めない字は高橋へ聞いた。
高橋は書き上がった紙を確認した。
「続けられる?」
「はい」
「間違えたら一本線。元の字を読めるように残す。未確認者は別紙。死亡はまだ触らない」
まだ。
秋人はその言葉を聞いた。
次の世帯票には、祖母未確認、とあった。
未確認者照会票を取る。
佐藤千代。
八十二歳。
自宅。
連絡不能。
その紙束の中に、父の名前があった。
瀬戸雅之。
四十六歳。
大手町方面。
黒いコート。
黒い鞄。
連絡不能。
「それ、僕の父です」
高橋は手を止めた。
「自分で書く?」
秋人は頷いた。
新しい整理票へ写す。
瀬戸雅之。
四十六歳。
大手町方面勤務。
三月二日朝、荻窪駅で最終確認。
連絡不能。
家族、荻窪小学校避難所。
状態、未確認。
最後の三文字だけ、線が太くなった。
ペン先が紙へ沈み、裏の用紙にも跡がついた。高橋に言われるまで、秋人は同じ三文字を押さえ続けていたことに気づかなかった。
高橋が言った。
「こういう記録はね、力を入れすぎると、続かない」
「力を?」
「これから、たくさん書くことになる。力んで書くと、続かない」
高橋は待っている人の列を見た。
「続けないと、配る物も、探す人も、呼ぶ名前もずれる」
秋人は父の名前を見た。
軽くは書けなかった。
体育館の奥で理沙が声を上げた。
「こっち、包帯足りません。タオルでもいいです。清潔そうなもの。持っている方がいれば分けていただけませんか」
長机から、母がリュックからタオルを一枚出し、医療机へ渡すのが見えた。
それは真衣のために持ってきたタオルだった。
さっき、老婦人へ水は渡せなかった。
今は、タオルを渡した。
どこで線を引くのかは、紙に書いてなかった。
夜になっても、父は来なかった。
毛布は一世帯に一枚だった。母は真衣へかけ、自分は横に座った。秋人は壁にもたれた。
床の冷たさは、座っているうちに足の感覚を鈍くした。誰かが寝返りを打つたびにブルーシートが擦れ、入口が開くたび、秋人は父の靴音かもしれないと顔を上げた。
ときどき名前が呼ばれた。
別の避難所で確認された人。
病院へ運ばれた人。
家族が迎えに来た人。
呼ばれるたび、紙の状態が線で変えられた。
父の名前は呼ばれなかった。
器具室横では、氏名不詳一が寝かされていた。上着、片方の靴、財布、鍵は別々の袋に入り、同じ仮番号が書かれている。
理沙が水を含ませた布で唇を湿らせた。
男は時々、断片的に言った。
「駅が、白く」
「地下に、人が」
「会社に、まだ」
名前は言わなかった。
秋人は自分のノートを開いた。
荻窪小学校避難所。
母、確認。
真衣、確認。
父、未確認。
水、紙コップ半分以下。
名簿作成補助。
荻小・氏名不詳一。
大手町方面。
水、飲めない。
衣服・髪、白い粉状物付着。
その下へ書いた。
牛乳、なし。
父の名前より小さな字になった。
小さいから、必要がないわけではなかった。
真衣は毛布の中で眠りかけていた。
母は目を閉じていたが、眠ってはいなかった。スマートフォンを手に持ったままだった。画面は暗い。
秋人は父の名前をもう一度見た。
瀬戸雅之、未確認。
未確認は、死亡ではない。
未確認は、生存でもない。
未確認は、待つための言葉だった。
待つしかない人を、紙の上に置いておくための言葉だった。
体育館の奥で、理沙が誰かに言った。
「熱が上がったら呼んでください。私は医者じゃないので、できることは限られます」
また同じ言葉だった。
その声も、少し枯れていた。
高橋が長机の前で、紙を束ねていた。




