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少年兵と、灰と青  作者: いちご牛乳
灰の東京
2/14

未確認者

昼を過ぎても、冷蔵庫の音は戻らなかった。


朝までは低く唸っていた。台所に入れば聞こえ、気にしなければ忘れていられる音だった。


それが止まっていた。


瀬戸秋人は冷蔵庫の扉を開けた。


中には、麦茶、卵、開封済みの味噌、小さなヨーグルトが残っていた。冷気はまだ少しある。


扉のゴムから、冷蔵庫の中の湿った匂いがした。昨日までなら気にならなかった匂いだった。


牛乳はなかった。


真衣は食卓の椅子に座り、いつもより小さく足を揺らしていた。


「ない?」


「ない」


「ヨーグルト、食べていい?」


「母さんに聞きな」


「食べちゃっていいよ」


居間から母の声がした。


秋人はヨーグルトを取り出し、すぐ扉を閉めた。冷気を逃がすなと、何度も言われてきた。電気が戻らなければ同じかもしれない。それでも、開けたままにはできなかった。


真衣が蓋を剥がし、一口食べた。


プラスチックの匙が容器の底を擦る音だけが、止まった冷蔵庫の前で大きく聞こえた。


母は居間で防災用のラジオを回していた。父が何年か前に買った、懐中電灯のついた手回し式だった。


ざりざりという音の間に、途切れた声が混じる。


「……不要な外出は控え……」


「……都心部の被害は……」


「……各自治体の指示に……」


自治体。


杉並区。東京都。国。


どれも知っている言葉だった。いま、どこから何を指示できるのかは分からなかった。


母はラジオを置き、スマートフォンを見た。画面はつく。通話はできない。


「お父さんからは」


秋人が聞いた。


母は首を振った。


「会社も駄目。メールも送れない」


画面を伏せた後も、母の指は端末の縁に触れたままだった。


真衣が空の容器を流し台へ置いた。


秋人は廊下の方を見た。父が鍵を回す音も、階段を上がる足音もない。真衣が容器を置いた音で、自分がラジオではなく玄関を聞いていたことに気づいた。


「お父さん、帰ってくる?」


母は少し遅れて答えた。


「帰ってくる」


真衣だけを見ていた。


窓の外は白く濁っていた。灰のようなものはまだ降っている。ベランダの手すりと植木の葉に、薄く積もっていた。


不意に道路から声が聞こえた。


「避難所、開いたって」


「小学校?」


「荻窪小。水があるかは分からない」


母が顔を上げた。


すぐには立たなかった。窓の外と、玄関へ続く廊下を一度ずつ見た。


家にいれば、父が戻った時に分かる。


しかし、電話は通じず、電気も止まった。水道はまだ出るが、いつまで出るか分からない。食べ物も多くない。


小学校なら、少なくとも人がいる。名簿へ名前を残せば、父が別の場所へ戻った時にも、家族の行先を照会できるかもしれない。水や情報が集まる可能性もあった。


安全だからではなかった。


家にいるより、探す場所を一つにできる。


父を待つ場所を離れることになる。秋人はそのことを考えたが、母へは言わなかった。母が見ていた廊下も、もう音を返さなかった。


母は立ち上がった。


「防災袋を出しましょう」


それで決まった。


押し入れの袋には、期限を過ぎた保存水が二本、乾パン、軍手、古いタオル、懐中電灯、ビニール袋、絆創膏が入っていた。


母は保存水の日付を見た。


「入れ替えておけばよかった」


「水なら出る」


「今はね」


秋人は自分の学校用リュックを使おうとして、教室へ置いてきたことを思い出した。財布も定期も弁当箱も、その中にある。


手元にあるのはスマートフォンと、日本史のノートだけだった。


「鞄は?」


「学校」


「全部?」


「ノートだけ持ってきた」


母は何か言いかけ、やめた。


真衣はランドセルを背負おうとした。


「それは置いていく」


「教科書は?」


「いらない」


「宿題」


「今はいい」


真衣は食卓の漢字ノートを見た。秋人も見た。


「一冊だけなら」


秋人が言うと、真衣はすぐにノートを取った。


「鉛筆も」


「一本」


真衣は三本入れた。


「折れたら困るから」


秋人は返さなかった。


母は飴、塩せんべい、未開封のビスケットを袋へ入れた。冷蔵庫も一度開けたが、持ち出すものはなかった。


「牛乳は?」


真衣が聞いた。


「ない」


「買いに行く?」


「店が閉まってる」


秋人が答えた。


真衣は秋人を見た。


「でも、お兄ちゃん買うって言った」


「買えなかった」


「学校だったから?」


「うん」


「じゃあ仕方ないね」


本当に納得したのか、そう言うことにしたのかは分からなかった。


母はリュックの口を閉めた。


玄関を出る前に、冷蔵庫へ貼ってあったメモ用紙を一枚取った。


荻窪小学校へ行きます。

秋人、真衣と一緒です。

美紀。


母は少し考えてから、その下へ書いた。


必ず来て。


紙は玄関の内側に貼った。外からは見えない位置だった。


母は真衣の靴紐を結び、タオルを口元へ巻いた。秋人にも渡した。


「して」


「大丈夫」


「して」


秋人は口と鼻を覆った。


外の空気は粉っぽかった。


外は、灰が降る以外いつもの道だった。駐車場の車も、植木鉢も、閉じたクリーニング店も昨日と同じ場所にある。


だが、人の流れは逆だった。


マスクのある人はマスクをし、ない人はタオルや袖を口へ当てていた。駅へ向かう人、駅から戻る人、小学校へ行く人が同じ道ですれ違う。誰も散歩の速さでは歩いていなかった。


タオルの内側へ自分の息が戻り、すぐ湿った。粉の匂いは薄くなったが、喉のざらつきは消えない。小学校へ向かう人が一番多かった。


マンションの前で、老婦人が座り込んでいた。隣の女が、誰か手を貸してください、と呼んでいる。


母は足を止めた。


老婦人の顔は白く、額に汗が浮いていた。別の男が肩を貸し、立たせようとしている。


母は保存水を一本出しかけた。


二本しかなかった。


老婦人を見た。

真衣を見た。

手の中の水を見た。


結局、袋へ戻した。


ペットボトルが袋の中の乾パンへ当たり、鈍い音がした。母は歩き出してからも、リュックの肩紐を握り直していた。


「おばあちゃん、大丈夫?」


真衣が聞いた。


「あの人たちが見てくれてる」


母はそう言って歩き出した。


答えではなかった。


荻窪小学校の門前には人が集まっていた。


体育館が開き、校庭には避難者の列ができている。教師のほかに、町内会の腕章をつけた大人が動いていた。


門の横に手書きの紙が貼られていた。


避難者受付。

世帯ごとに記入。

負傷者、体調不良者は先に申告。

水の配布は準備中。


母は真衣の手を握り、列へ並んだ。秋人は後ろに立った。


前の女は赤ん坊を抱いていた。赤ん坊は泣かず、背中を叩かれても目を開けなかった。


長机の上には、学校の印刷用紙を裏返した紙が何枚も置かれていた。


氏名。

年齢。

住所。

連絡先。

家族。

負傷。

持病。

必要な薬。

一緒にいない家族。


母がペンを取った。


瀬戸美紀。

四十二歳。

瀬戸秋人。

十六歳。

瀬戸真衣。

十歳。


父の欄で手が止まった。


瀬戸雅之。

四十六歳。

勤務先、大手町方面。

三月二日朝、荻窪駅で別れ。

連絡不能。


受付の男が別の紙を出した。


「ご主人は、こちらにもお願いします」


未確認者照会票。


その見出しは、秋人が家のノートへ書いた言葉と似ていた。だが、枠と欄の中に置かれると、別のものに見えた。


母は父の名前をもう一度書いた。


最終確認場所。

服装。

所持品。

勤務先。

家族の避難先。


「確認が取れたら、掲示か呼出しで知らせます」


男は紙を受け取った。


母の字で書かれた父の名前が、別の紙束へ移った。


受付の男が次の世帯を呼び、母は長机から離れた。秋人は父の名前が紙束の下へ隠れるまで見ていた。


真衣に袖を引かれて、自分だけ受付の前に残っていたことに気づいた。


秋人たちは体育館の入口近くへ案内された。ブルーシートの区画は狭く、家族三人が座ると、通路へ膝が出た。


壁には卒業式の横断幕が残っていた。


卒業おめでとう。


その下で、老人が咳をしていた。


三月の体育館は冷えた。床から上がる冷気を、薄いブルーシートは止めなかった。


濡れた靴下、古い毛布、消毒液、汗の匂いが混じっていた。人が増えるたびに声は大きくなったが、天井が高いため、誰の言葉も途中で薄くなった。


奥では、机を並べて怪我人を見ていた。


養護教諭らしい女。

つなぎを着た男。

灰色のパーカーに黄色いビブスを重ねた若い女。


若い女は、指先の余った手袋で老人の額へ触れていた。


「血は止まっています。気分が悪くなったら呼んでください。水は少しずつ」


「先生ですか」


「医者ではありません。看護学生でした」


言い慣れているのに、言うたび疲れる声だった。


母が真衣の額へ触れた。


「熱はないと思うけど……」


真衣は黙っていた。

顔色は悪かった。歩いて疲れたのか、怖かったのか、灰を吸ったのか、分からない。


母は立ち上がり、奥の机へ行った。


「すみません。子どもを見てもらえますか」


若い女性がこちらを見た。


「怪我ですか」


「怪我はないと思います。灰を吸ったかもしれなくて」


「咳は?」


「少し」


彼女は小さな懐中電灯を持って近づいてきた。


「名前は」


母が答えようとすると、真衣が自分で言った。


「瀬戸真衣」


「真衣ちゃんね」


若い女性はしゃがんだ。


「私は佐伯理沙。少し見るね」


理沙は目と喉を見た。聴診器はなく、胸の動きと呼吸の速さを見て、指先を押した。


「息苦しい?」


「ちょっと」


「胸は痛い?」


「痛くない」


「気持ち悪い?」


「牛乳がない」


理沙の手が一瞬止まった。


「それは、困ったね」


「お兄ちゃんが買えなかった」


理沙が秋人を見た。


「お兄ちゃん?」


「はい」


「名前は」


「瀬戸秋人です」


「秋人くん」


理沙はすぐ名前で呼んだ。

それが少し変に聞こえた。


学校でも、避難の列でも、秋人は名字で呼ばれることが多かった。


「咳が増えたらすぐ連れてきて。口と鼻は覆って。水が出たら、タオルを少し湿らせてください」


母が言った。


「水、二本しかなくて」


「分かりました。乾いたままでも、ないよりはいいです。口と鼻を覆ってください。水が配られたら、少しだけ湿らせて」


「ありがとうございます」


「診断はできません。苦しそうなら、また呼んでください」


母は言い直した。


「それでも、ありがとうございます」


理沙は少しだけ目を伏せた。


「具合が悪くなったら呼んでください」


理沙は次の人へ戻った。


その時、体育館の入口で声が上がった。


列が崩れた。受付にいた大人が立ち、入口へ向かう。男が一人、倒れ込むように入ってきた。


スーツは裂け、髪と肩に白い粉がついていた。顔の片側は赤い。片方の靴がなく、靴下の足が黒く汚れている。


男は床に手をついた。


「水」


誰かが紙コップを持って近づこうとした。


別の誰かが叫んだ。


「触るな」


「放射能だろ」


「外に出せ」


「子どもがいるんだぞ」


母が真衣を背後へ下げた。


真衣は母の服を握った。

秋人も動けなかった。


男は顔を上げた。


「大手町」


秋人の胸が一度詰まった。


「丸の内……会社に、まだ」


父ではない。


黒いコートでもない。父より若く見える。そう分かっているのに、目を離せなかった。


母が秋人の袖を引いた。その時になって、真衣を背後へ下げる人の流れの中で、自分だけ入口へ近づいていたことに気づいた。


秋人は一歩戻った。男の足から落ちた黒い水が、床の溝をこちらへ流れてきた。


理沙が入口へ向かった。


「子どもを下げて。通路を空けてください」


「近づくなって」


「患者です」


「汚れてるだろ」


「分かりません。だから、ここから先へ人を入れないで」


理沙は男の横へしゃがんだ。手袋の指先が余っていた。それでも額へ触れ、呼びかけた。


「お名前は」


理沙が聞いた。


男は唇を動かした。


「大手町」


「お名前」


「会社に、まだ」


「どちらから来ましたか」


「地下に、人が」


男は水を見た。


紙コップが口元に近づけられる。

男はそれを飲もうとして、すぐに吐いた。


床へ広がった水に、赤いものが混じった。


周囲の人が下がった。


理沙は声を上げた。


「急に飲ませないで。横にします。頭をこちらへ」


「佐伯さん、これ、火傷ですか」


町内会の男が聞いた。


「分かりません」


理沙は言った。


「火傷かもしれません。粉を吸ったのかもしれません。熱かもしれない。被ばくかもしれない。でも、ここでは分かりません」


被ばく。


体育館の中で、その言葉だけが少し重くなった。


誰かがまた言った。


「外に出せよ」


理沙はその人を見た。


「外に出したら、もっと早く死にます」


静かな声だった。


秋人たちの受付をした男、高橋と名札をつけた受付の男が来た。


「器具室の横を空けます。そこまでの通路を使わないでください」


高橋は入口の床と、奥の器具室を見比べた。


「田辺さん、一般の人を反対側へ。小倉さん、大きい袋とシートを」


白髪の男が入口へ立ち、人を押し戻した。町内会の腕章はなく、古い警察用の笛を首から下げていた。


「靴のまま下がって。ここを踏まないでください」


小倉と呼ばれた、町内会の腕章をつけた中年の男がブルーシートとごみ袋を運んできた。



完全な区画は作れなかった。入口脇の床へシートを敷き、椅子を横倒しにして人を近づけないようにした。器具室までの通路にも机を置いた。


理沙は男の上着を脱がせた。高橋が袋へ入れる。


「靴も別に」


「片方しかありません」


「片方でも」


財布らしい黒い物と鍵が出た。触った人がどこへ置くか迷った。


高橋は紙を一枚取り、上へ書いた。


荻小・氏名不詳一。


同じ文字を、上着の袋、靴の袋、所持品の袋にも書いた。


「測るものは?」


誰かが聞いた。


「ありません」


高橋は答えた。


「だから、付着疑いで分けます」


理沙と小倉が男を器具室横へ移した。通った床は新聞紙で覆われ、その上へ別のシートが置かれた。正しい処理なのか、秋人には分からなかった。


少なくとも、人がそこを歩かない形にはなった。


秋人がその様子を見ていると、高橋が秋人を見た。


「瀬戸くん、だったよね。すまないんだけれど、手伝ってもらえるかな」


驚きながらも、秋人はうなづいた。

狭いブルーシートに座って何もしないでいるより良いことな気がした。


「字は書ける?」


「書けます」


「聞こえたことだけ書ける? 考えたことは混ぜないで」


秋人は日本史のノートを開いた。高橋は裏紙とペンを渡した。

高橋は秋人を立ち上がらせると、器具室横まで連れて行った。


母が何か言いかけた気がしたが、秋人は振り返らずついて行った。


器具室横で小倉が男のコートや靴を脱がして袋に詰めていた。

高橋もそれを手伝いはじめる。


「瀬戸君、そこからお願い、無理に近づかなくていいから」


秋人がうなずくのを見た理沙が、男の様子を見てそれを口に出した。


男性。

氏名不明。

大手町、丸の内、会社、地下等の断片的発語。

嘔吐。

顔面発赤。

水、飲み込めず。

衣服と髪に白い粉状物付着。

片靴なし。

意識混濁。

医療確認中。


秋人は書いた。


被ばく、とは書かなかった。


理沙はそう言っていない。


ペンを離すと、握っていた指が汗ばんでいた。

指先は少しだけ冷たい。

父ではないと分かった後も、胸の詰まりだけが残っていた。


高橋は紙を読んだ。


「読みやすい」


それから一行を指した。


「『顔面発赤』は誰が言った?」


「理沙さんが、赤いって」


「なら残す。『被ばく』は?」


「書いてません」


高橋は頷いた。


「いいことだね。書かないことは意外と難しいから」


その紙は、氏名不詳一の所持品袋と同じ机へ置かれた。


「ありがとう。助かったよ」


高橋はそう言い、秋人は頷くと母と真衣のところへ戻った。



体育館の中では、人が少しずつ元の場所へ戻っていた。

元の場所へ戻っても、入口の机とシートを誰も見ないふりはできなかった。


真衣が母の後ろから聞いた。


「あの人、お父さんのところから来たの」


秋人は答えられなかった。


母が言った。


「分からない」


夕方近くになり、水が配られた。


子ども、老人、負傷者が先だった。一人につき、紙コップの底が隠れる程度だった。


真衣は両手で持った。


「牛乳じゃない」


「今は水を飲んで」


「白くない」


「うん」


「味もない」


「うん」


真衣は少し飲み、母へ差し出した。


「真衣が飲んで」


「お母さんは」


「あとで」


秋人にも差し出した。


「いらない」


喉は乾いていた。


断ったあと、舌が上顎に貼りついた。それでも、真衣の紙コップへ手を伸ばす気にはならなかった。


真衣は納得しない顔で、残りを飲んだ。


「瀬戸くん」


高橋が声をかけながら近づいてきた。

こちらに軽く一礼すると高橋が話し出す。


「お母さま、先ほどは急に瀬戸くんをお借りしてすみませんでした」


母も頷いた。


「いえ」


「実は、もう一度瀬戸君をお借りできないかと思いまして」


秋人は瞬きをした。母を見る。

表情は硬かった。


「先ほどの記録、瀬戸君は簡潔に上手くまとめてくれました。それを見込んで、受付を手伝っていただけないかと」


「受付、ですか」


「はい」


母が秋人を見た。


「秋人は、手伝いたい?」


秋人は頷いた。

やはり、小さなブルーシートの上に座っているだけは落ち着かないままだった。


頷く秋人を見て、母が言った。


「……先ほどのようなことは」


「お約束はできませんが、危険なことは私や大人がやります」


「わかりました。では、よろしくお願いいたします」



秋人は高橋に付いて長机へと行った。


長机の上には、避難者の紙が積まれていた。

受付の大人たちは足りていなかった。同じことを何度も聞き、同じ欄を何度も指差している。


「この人、こっちでは未確認です」


受付を手伝う女が言った。


「本人が今いるなら、消さないで線を引いて。在所確認へ」


高橋が答えた。


「消しゴムは?」


「使わない。後で、どう変わったか分からなくなる」


秋人はそのやり取りを聞いていた。


紙の上で、一人の人間が二人になっていた。


いる人。

いない人。


高橋が秋人へ一世帯分の紙を差し出した。


「試しに、これを清書して」


世帯番号。

氏名。

年齢。

住所。

状態。

備考。


秋人は、元の紙と見比べながら書いた。


山田久子。

七十八歳。

天沼。

歩行困難。


山田明美。

五十一歳。

天沼。

付き添い。


小林直人。

三十六歳。

荻窪。

左前腕裂傷。


名前は、思ったより重かった。


知らない人の名前だった。

それでも、書くとそこにいるように見えた。


紙の上で、山田久子は歩行困難になった。

小林直人は左前腕裂傷になった。


秋人は字を崩さないようにした。


高橋が時々横から見た。


「読みやすいな」


秋人は返事をしなかった。

推測は足さなかった。読めない字は高橋へ聞いた。


高橋は書き上がった紙を確認した。


「続けられる?」


「はい」


「間違えたら一本線。元の字を読めるように残す。未確認者は別紙。死亡はまだ触らない」


まだ。


秋人はその言葉を聞いた。


次の世帯票には、祖母未確認、とあった。


未確認者照会票を取る。


佐藤千代。

八十二歳。

自宅。

連絡不能。


その紙束の中に、父の名前があった。


瀬戸雅之。

四十六歳。

大手町方面。

黒いコート。

黒い鞄。

連絡不能。


「それ、僕の父です」


高橋は手を止めた。


「自分で書く?」


秋人は頷いた。


新しい整理票へ写す。


瀬戸雅之。

四十六歳。

大手町方面勤務。

三月二日朝、荻窪駅で最終確認。

連絡不能。

家族、荻窪小学校避難所。

状態、未確認。


最後の三文字だけ、線が太くなった。


ペン先が紙へ沈み、裏の用紙にも跡がついた。高橋に言われるまで、秋人は同じ三文字を押さえ続けていたことに気づかなかった。


高橋が言った。


「こういう記録はね、力を入れすぎると、続かない」


「力を?」


「これから、たくさん書くことになる。力んで書くと、続かない」


高橋は待っている人の列を見た。


「続けないと、配る物も、探す人も、呼ぶ名前もずれる」


秋人は父の名前を見た。


軽くは書けなかった。


体育館の奥で理沙が声を上げた。


「こっち、包帯足りません。タオルでもいいです。清潔そうなもの。持っている方がいれば分けていただけませんか」


長机から、母がリュックからタオルを一枚出し、医療机へ渡すのが見えた。


それは真衣のために持ってきたタオルだった。


さっき、老婦人へ水は渡せなかった。


今は、タオルを渡した。


どこで線を引くのかは、紙に書いてなかった。


夜になっても、父は来なかった。


毛布は一世帯に一枚だった。母は真衣へかけ、自分は横に座った。秋人は壁にもたれた。


床の冷たさは、座っているうちに足の感覚を鈍くした。誰かが寝返りを打つたびにブルーシートが擦れ、入口が開くたび、秋人は父の靴音かもしれないと顔を上げた。


ときどき名前が呼ばれた。


別の避難所で確認された人。

病院へ運ばれた人。

家族が迎えに来た人。


呼ばれるたび、紙の状態が線で変えられた。


父の名前は呼ばれなかった。


器具室横では、氏名不詳一が寝かされていた。上着、片方の靴、財布、鍵は別々の袋に入り、同じ仮番号が書かれている。


理沙が水を含ませた布で唇を湿らせた。


男は時々、断片的に言った。


「駅が、白く」


「地下に、人が」


「会社に、まだ」


名前は言わなかった。


秋人は自分のノートを開いた。


荻窪小学校避難所。

母、確認。

真衣、確認。

父、未確認。

水、紙コップ半分以下。

名簿作成補助。

荻小・氏名不詳一。

大手町方面。

水、飲めない。

衣服・髪、白い粉状物付着。


その下へ書いた。


牛乳、なし。


父の名前より小さな字になった。

小さいから、必要がないわけではなかった。


真衣は毛布の中で眠りかけていた。

母は目を閉じていたが、眠ってはいなかった。スマートフォンを手に持ったままだった。画面は暗い。


秋人は父の名前をもう一度見た。


瀬戸雅之、未確認。


未確認は、死亡ではない。

未確認は、生存でもない。

未確認は、待つための言葉だった。


待つしかない人を、紙の上に置いておくための言葉だった。


体育館の奥で、理沙が誰かに言った。


「熱が上がったら呼んでください。私は医者じゃないので、できることは限られます」


また同じ言葉だった。

その声も、少し枯れていた。


高橋が長机の前で、紙を束ねていた。

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