連載記事 存在しなかった少年兵たち
立川政府は子どもを戦場に送ったのか
「未成年者の徴兵は存在しなかった」
立川政府は、これまで一貫してそう説明してきた。内戦終結から十年以上が過ぎた現在も、この公式見解は変わっていない。学校の歴史教科書でも、国立再建記念館の展示でも、初期立川政権は「崩壊した首都圏で避難民を保護し、補給線を維持し、内戦を終結へ導いた臨時政府」として語られている。
だが、その公式史には、いまも正面から扱われていない疑惑がある。
少年兵動員である。
政府の説明によれば、混乱期に存在したのは「未成年補助員」だった。彼らは避難所運営、物資配布、記録、連絡、救護補助などを担っただけであり、兵士ではない。戦闘への組織的投入も確認されていない。これが、政府答弁で繰り返されてきた基本線である。
しかし、開示資料を追うと、その説明だけでは片づけにくい言葉が現れる。
外部同行。
帰着未了。
武器貸与例外。
発砲記録別紙。
未成年武装補助者。
資料名の一部には、現在も扱いの難しい組織である灰犬の名も含まれている。
これらの記載は、ただちに「未成年者が兵士として徴用された」ことを意味するわけではない。資料の多くは黒塗りで、氏名や年齢、具体的な任務内容が確認できないものも多い。現時点で、これを少年兵動員の決定的証拠と呼ぶことはできない。
それでも、疑問は残る。
避難所内の手伝いだったはずの未成年者に、なぜ外部同行の記録があるのか。なぜ帰着に関する記載があるのか。なぜ武器貸与や発砲記録に関係する資料群の中に、未成年補助員を示す語が残っているのか。
本誌は、初期立川政権に関する開示資料、私蔵された写し、関係者への取材記録をもとに、長く噂されながら十分に検証されてこなかった未成年補助員制度の実態を追う。
これは、立川政府が語ってきた「保護」の歴史と、資料の中に残された不都合な言葉との食い違いを検証する連載である。
子どもたちは、本当に守られていただけだったのか。
それとも、混乱の中で、別の役割を背負わされていったのか。
*
その書き出しは、私が書いた。
少し強すぎると思った。
けれど、弱く書けば誰も読まないとも思った。
読まれなければ、問いは残らない。
問いが残らなければ、答えがないことにも気づかれない。
私は混乱期を知らない。
生まれた時には、内戦はもう終わっていた。半島方面の戦後処理も、私がものごころつく頃には新聞の小さな欄へ移っていた。学校で習った立川政権は、国家をつなぎ止めた側の名前だった。
避難民を数えた。
水を配った。
補給線を守った。
東京西部から行政を再建した。
内戦を終わらせた。
教室の壁に貼られていた年表では、そういう矢印でつながっていた。
その横に、小さく別の説明もあった。
初期統治においては、一部に強権的措置も見られた。
一部。
強権的措置。
便利な言葉だった。
誰が命令したのか。
誰が従ったのか。
誰が連れていかれたのか。
誰が戻らなかったのか。
その全部を、二つの単語が片づけていた。
公文書館の閲覧室は、静かだった。
窓は厚く、外の音はほとんど入ってこない。再建された官庁街の道路では、朝から車が流れているはずだった。駅前の大きな画面には、今日も政府広報か、どこかの記念式典の映像が流れているはずだった。
ここには届かない。
机の上には、鉛筆、手袋、閲覧票、資料箱が一つ。
箱には古い分類番号と、新しい分類番号が貼られていた。古い方は手書きで、新しい方は印字だった。どちらも途中で訂正されている。
中身は、ほとんどが写しだった。
開示決定通知。
不開示部分一覧。
添付資料目録。
保存状態不良。
判読不能。
機密指定継続。
再審査対象外。
本文が残っている紙は少なかった。
日付だけが読めるもの。
件名だけが読めるもの。
欄の線だけが残っているもの。
誰かの印だけが押されているもの。
私は、目録から読んだ。
未成年補助員。
避難所運営補助。
外部同行。
帰着未了。
発砲関係。
負傷後送。
死亡確認。
灰犬。
東部方面。
相模原。
町田。
浜松。
名古屋。
箱根。
言葉は並んでいる。
だが、つながらない。
つながらないように、残されている。
当時の関係者には、何度も取材を申し込んだ。
元灰犬中隊員の一人からは、返事がなかった。
初期立川の記録担当者だった人物は、覚えていない、とだけ答えた。
核攻撃直後から医療現場にいたとされる女性には、三度質問票を送った。三度とも戻らなかった。
未成年補助員だったと噂される者たちの多くは、死亡、行方不明、改姓、所在不明、または現役公務を理由に取材不可となっていた。
現役公務。
その四文字は、何度も出てきた。
生きているのか。
どこにいるのか。
何をしているのか。
それも分からない。
広報室は、存否を含めて回答できない、と書いた。
別の部署は、該当記録を保有していない、と書いた。
三つ目の部署は、問い合わせ先が違う、と書いた。
声は取れない。
だから、紙を見るしかなかった。
資料箱の底に、手書きの現地レポートが何枚か混じっていた。
正式な報告書ではない。
清書前の控えか、現場で取ったメモの写しだと思われた。
紙は薄かった。
端が少し焼けているものもあった。
水を吸って乾いた跡もあった。
黒いシミもあった。
折り目のところで、文字が欠けていた。
鉛筆の線は、ところどころ薄い。
それでも、字は読みやすかった。
急いで書かれている。
だが、崩れていない。
人名と数字だけは、特に丁寧だった。
誰がいたか。
誰が戻ったか。
誰が未確認か。
どの欄が空いたままか。
誰が見たのか。
誰がまだ見ていないのか。
判断は少ない。
断定も少ない。
ただ、残そうとしている。
報告者名の欄は、黒く塗られていた。
別の紙では、写しの端が切れていて、そこだけ読めなかった。
最初から名前欄のないものもあった。
私は、その数枚を別の束へ移した。
理由はなかった。
ただ、その字だけが、目に残った。
混乱期の資料に、叫び声は残らない。
泣き声も、銃声も、足音も残らない。
残るのは、欄と線と、誰かが書いた名前だけだ。
私は、もう一度その紙を見た。
人名と数字だけが、ほかの文字より少し濃い。
その濃さが、目に残った。




