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サニーは脱衣所に置かれたココロの着替え、下着や新しいチューブトップ、橙色のツナギを手に取り、完全に脱力したココロに着せ、抱きかかえた。
一冊のノートと蝋燭を手にしたマリオの案内で、地下へ降りた。
胸の中にいるココロは少しだけ温かく、鼓動も緩やかではあるが、確かに生きている。
マリオが階段を降りてすぐの壁に備え付けられた燭台に蝋燭の火を移した。
部屋がぼんやり照らされると、マリオはそのまま暗がりへと進み、脇の壁や、奥のテーブルに置かれたランプ等に蝋燭の火を移していった。部屋全体があたたかい光で照らし出されると、マリオは蝋燭を置いて、ベッドを手で指した。
地下室は縦に長い間取りで、石壁に囲われ、壁に沿って本棚があり、簡易な木製ベッドと、デスク、椅子が二つと、ストーブがあった。サニーはココロをベッドに寝かせると、ブランケットを胸までかけた。
「……サニーさん、少し、いいかな」
「ええ」サニーはマリオの要求を黙認した。
「自分の家族に触れるのすら自由にならないなんて、おかしな話だな」
「すみません」
「いや、仕方のない、ことなんだろうな。わしらは、知っているようで何も知らんってことを思い知らされたよ。今なら、あの子の気持ちもわかる」
「……あの子?」
マリオはココロのそばに椅子を運び、ココロの顔から視線を外さずに腰掛けた。
指の甲で頬に触れてみても、ココロが感染者になったなんてわかりはしなかったし、信じられなかった。瞼を閉じて静かに息をする様子は、眠っているようにしか見えない。いっそのこと、キスをして自分も感染者になり、この家ごと燃やされるのも悪くないと、そんなことを考えた。
「マリオさん」
コツコツ、と杖を突きながら、リチャードが地下へ降りてきた。足元にはミートもいた。
ミートはココロを見つけると、嬉しそうに翼を羽ばたきながら駆け寄って、重たいお尻を持ち上げてベッドに飛び乗り、嘴で頬を突いた。ココロが目を覚まさないとわかると、枕元に頭を乗せて、顔をぴたっとくっつけるようにして瞼を閉じた。
「彼も心配していたようです。私も、ここにいても?」
「ええ、どうぞ」
マリオが快く頷くと、リチャードは階段に腰を下ろし、遠巻きにココロを見つめた。
「ココロちゃんの怪我は」
「さっき確認しましたが、既に塞がっていました」サニーは答えた。
「治った、ということかい?」
「ええ」
「どういう状態だったんだ。隠さず教えてくれないか」
マリオが訊くと、サニーは少し躊躇ってから、正直に伝えた。
「頭蓋骨、肋骨に大腿骨、肩甲骨の骨折や靭帯の損傷などです。私が駆けつけたときには既に感染していて、ここへ連れてくる間に、それらの傷も治ったようで」
「……痛かったろうに」
マリオはココロの頭を優しく撫でた。
そんな大怪我を負って、よく帰って来てくれた。
そう思いながらも、ココロが今、その傷で苦しまずに済んでいるのは感染しているからなのだと考えると、複雑だった。どういった経緯で感染したとしても、結果として死が待っていたのなら、感染したことは救いだったのかもしれない。しかし、それを認めたくはなかった。
「それにしては、傷が治るのが早すぎはしないかね?」
リチャードが訊くと、マリオは「そうなのかい?」とサニーを見た。
「はい。大怪我を負った状態での感染例は多く、骨折レベルの外傷の場合、その傷が癒えるのはたいてい、症状が表面化したあとのことです。通常で症状の表面化まで一週間から二週間。ココロちゃんの場合は、例外と考えるべきでしょうね」
感染者として言葉を失い、自我を失うまでの時間も、それに比例する可能性がある。
「例外か……ココロは、この子はこれから、どういう扱いを受けるんだね?」
「残念ですが、感染者はそうなった時点で死亡扱いになります。親族であるマリオさんには、ココロちゃんを火葬するか、『黄昏の葬』に出すかを、決めてもらう必要があります」
「……そうかい」
ここにこうして、息をして存在しているのに、世間では死者として扱われる。
そんなことは、ステラやジョンの件でじゅうぶんわかっているつもりだったが、こうして触れられる距離にいると、まるでその実感が湧かなかった。どの道、ココロをどうするかなんて、今は答えられない。
「失礼ですが、マリオさんはココロちゃんが壁の外で何をしていたのか、ご存知ないですか?」
「聞いてはいない。だが、今日見つけたんだ、この子の部屋でね」
マリオはココロが行方不明になった時、部屋で見つけたビデオカメラを自室のテレビへ繋ぎ、中身を確認した。そして、ベッドの下から発見したケースの中から、感染者の無数の写真と、日記を発見した。ビデオは何かの手がかりになるかとクリアへ渡し、手元には日記がある。
マリオは、タイトルが黒いペンで塗りつぶされたノートを差し出した。
サニーはそれを受け取ると、そっとページを開いた。
「幼い頃のこの子は、親の墓を暴いて壁の外へ冒険に出るような、そういう子だった。大きくなってからも、壁の外でよく遊んでいたよ。まさか、そんなことしてるとは思いもしなかったけれどね。恋人の一人くらい作って、乙女らしい一面もあるのかな、なんて思ったらこれだ。驚きよりも先に、この子の傍に居て、気づいてあげられなかった事が何より辛い」
マリオの言う、気づいてあげられなかったものはしかし、ココロが見つからないように隠し続けてきたものだ。ノートを見れば、その理由がよくわかる。
「昨日の夜、この子に両親が生きていると思うかと聞かれたよ。わしは、生きていると願っていると答えた。だがこの子は、信じていると言って欲しかったんだと思う。だが、わしには言えなかった。わしに残された人生は、二人が残していったこの子の成長を見守り続けていくことで、じゅうぶん満たされていたし、どこかを彷徨ってるであろう二人にも、きっと守ると、そう誓った」
けれど結果はご覧のとおりだ、とマリオは深い溜息を吐いた。
「もっと早くに、ここのことを、二人のことを、教えてあげるべきだったのかもしれない」
「マリオさん、この部屋はいったい、なぜ地下に?」
「ステラとジョンの秘密の部屋だ。わしでさえ滅多に入らなかった。昨日、話したろう」
「奥様が、死化したコロニーの生き残りである、という話ですね」
本棚に並ぶ本は、古い医学書や、細菌やウィルス、微生物に関する書物ばかりで、中には人体蘇生や、カルト的な儀式を含む本もあった。『人体の仕組み』に関する本もあり、それだけを見れば、二人が医学を志した医者か何かに思われるだろうが、現実は違う。
「……サニーさん、この子は、いつ目を覚ますのかな」
「いつ、とは言えませんが、このまま眠り続けるということもない、と思います」
「目を覚ましたとして、どの程度、この子はこの子でいられる?」
「通常であれば、二週間前後で人としての人格は失われます。ただ、ココロちゃんは傷の治りが早いので、汚染速度も比例して速いと思われます。なので、通常よりも」
人格を保持できる時間は短いだろう。とサニーは告げた。
「……なら、目覚めてくれれば、両親のことを話してあげることもできるか」
「ご両親の、お話」
「昨日の夜に、約束したんですよ。今日、帰ってきたらお互いに秘密を打ち明けようとね。ま、結果的にそうなったわけだが、恥ずかしい話、わしはこの子に両親のことをあまり話したことが無い。それは、二人が旅立った理由だけじゃなくて、二人の青春時代や、どんなものが好きで、嫌いで、どんなことで喧嘩してたとか、笑ったかとか、些細なことも含めて、あまり語り聞かせなかった」
マリオはそこで言葉を区切ると、ココロの頬を指で撫で、弱弱しく笑んだ。
「だから、この子はずっと二人を探していたんでしょうな。わしは、気づいているのに、気づかないふりを続けて。この場所も、いつか本当に教えようと思っていた。ただ、わしは怖かったんですわ。両親がなぜ旅立ったのかを知ったら、この子まで旅立ってしまうような気がして」
「ご両親はここでなにをしていたんですか?」
サニーが訊くと、マリオは大罪を告白する人のように、瞼を閉じた。
「感染者を救うための、いや、感染者を身内に持つ人々の心を救うための活動」
「心を救う為の、活動」
サニーには、その言葉がとても他人事には思えなかった。
ただ、マリオはそれ以上のことを口にしようとはしなかった。
これはココロとの約束だ。両親の話は、この子に語り聞かせてあげたい。
そんな風に願って瞼を開けると、ココロの瞼もゆっくりと開いた。
首を微かに傾けて、その翠色の瞳でマリオを見つめ、「聞かせて」と言った。
「ココロ、目が覚めたのか?」
「うん、まだぼーっとするけどね」
いつもの調子でココロは答えた。
マリオはほっとして目に涙を浮かべると、指でそれを擦り取って、顔を近づけた。
「体の具合は、痛くはないか?」
「……痛くない。けど、ちょっと動けないかな。お爺ちゃん歯磨いた? ちょっと臭いよ」
本当にいつもの調子で、マリオの狂いそうな調子も、いつも通りへと引っ張られた。
マリオは口の前に手を翳して息を吐き、確かに臭いなと顔を顰めた。
「何か欲しいモノは」
「うーん……それより、エルマー達は?」ココロは瞼を閉じた。
「無事ですよ」サニーが答えた。
「そっか、よかった」
ココロが静かに微笑むと、「いいもんか」とマリオは眉を吊り上げた。
「だね。ごめんね、お爺ちゃん。リチャードさんも、心配かけちゃったみたいで」
ココロが首を軽く持ち上げると、リチャードは杖を握り直し、「おかえり」と微笑を湛えた。
「ココロちゃん、今、なぜ自分がベッドに寝ているか、わかりますか?」
サニーが床に膝を突いて問いかけると、ココロは瞼を閉じた。
眼球をゴロゴロと動かしながら、エルマー達と山へ入り、そこで大変なことが起きたことを大雑把に答え、「それから――」と記憶が曖昧になった。酷い夢を見ていたような気分で、自分が自分でないような気さえした。思い出そうとすると、どれが現実で夢だったのか、わからなくなった。言葉に出来ない光景が次々と脳裏に過ぎり、胸が苦しくなった。
「……そうだ、イヴ」
「イヴ? 誰だ?」
マリオが眉を顰めると、ココロはその顔を見て、しまったと顔を顰めた。
「そのイヴというのは、このノートに記されている感染者の少女のことですね?」
サニーが手にしたノートを掲げると、ココロは大きな溜息を吐いた。
「ああ、ウソでしょ。お爺ちゃんさ」
「文句なら聞かんぞ、悪い子め」
「……あの、サニーさん、でしたっけ」
「ええ、サニー・サンセットです。会うのは二回目ですね」
「イヴは」
「私は会っていませんが、体の大きな感染者に連れ去られたと、ジャックさんが」
「……ジャック、さん」
誰だ、とココロは悩ましげな表情で首をコテンと傾けた。
「大丈夫か?」
「……うん、感染したことはわかってる位には正気だよ」
「そのことについてだがな、言いたいことが山ほどあるぞ」
マリオが怒った声を出すと、ココロはだよねと笑った。
「あたしも、言わなきゃいけないこと、たくさんある」
「だろうな」
「ねえ、お父さんとお母さんのこと、聞かせてくれる?」
マリオは困った顔をサニーに向けた。
サニーとしては、これまでの経緯を話した方がいいかとも思ったが、ココロの意識は戻ったばかりだ。記憶も確かな部分はあるが、まだ感覚としてぼんやりした受け答えが目立つ。ただ、今はココロの調子に合わせるのが一番いいと判断して、頷いた。
マリオは腰を上げると、デスクの上にある封の切られた手紙を手に取り、ココロに差し出した。
「これは?」
「読めるか?」
「馬鹿にしてるの?」
ココロは体を起こそうと力を込めた。
「おい、無理するなよ?」
「平気だって」
ココロはサニーの手を借りて上体を起こし、鼾をかくミートの姿に微笑むと、体の向きを変えて壁に背をもたれ、手紙を受け取った。目を通そうとしてみたが、字がぼやける。
「お爺ちゃん読んで、なんか目が霞む」
ココロが手紙を返すと、マリオはそれを受け取って椅子に腰掛けた。
それから、はやく読んでよ、と眉を上げるココロの姿を一瞥し、手紙を読み上げた。
君がこの件から手を引くと決意してくれて、正直わたしはほっとした。
けれど、わたしは君たちの幸せのために、もう少しだけ戦おうと思う。
もう会うことはないだろうけれど、どうか娘さんや旦那さんと、新しい人生を歩んでほしい。
一度はこんな道へ巻き込んでしまったわたしが言うのもおかしな話だが、君は悪夢から解放されて、君の幸せを願う人たちと幸せになるべき人だ。
どうか、いつか君の胸の傷が癒えて、あの笑顔を取り戻せるようにと、遠くから祈っている。
さよならステラ、君の想いは、わたしが引き継ぐ――ロウマンより。
と、いう訳だ。とマリオが顔を上げると、ココロは微妙な表情を浮かべ、耳を傾けていたサニーも不可解な面持ちになった。
「……これは誰かの遺言、ですか?」
「暗いわ」
二人のコメントに、マリオは小さく溜息を吐いた。
「ステラと同じ、コロニーの生き残りの手紙だよ」
なんにしても、二人の旅路にはその『ロウマン』という人物が深く関わっているということはわかった。
正直ピンと来ていないココロと、立ち会う形で話を聞いたサニーはいまいち先が読めなかったが、ただ一人、リチャードだけはその手紙の内容から、二人が辿った道を察することができていた。




