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口の中に広がる不快な鉄の臭いと、体が半分水に浸かった感覚のなかで意識にスイッチが入った。息苦しくて喉に溜まったものを飲み込むと、どろっと生臭い感覚にむせた。首に力が入ると、これが体に響いて酷く痛んだ。
ココロは顔を叩く冷たい雨粒に眉を顰め、瞼を開けた。左目だけがうまく開かず、目に映った世界はぐるぐると回って見えた。放射状に迫る雨粒と、時折瞼に真っ直ぐ落ちてくる雫の先、木々の隙間からのぞいた空に、丸くて青い月があった。雨の勢いも、弱まってきている。
ココロは自分が足を踏み外したと思われる斜面の輪郭をぼんやりと眺めた。
その先から、銃声が響く。
あそこから落ちたんだ、とココロは冷静に状況を分析しつつ、よく生きてたもんだなと自分のしぶとさに驚いてから、次第に落ちたという現実に気づき、意識がはっきりした。
夢じゃない。
イヴを庇って崖から落ちたのは、紛れもない現実だ。
そう気づいてから、途端に五感が蘇ってくるように全身を襲った。
息を吸い込むと、冷えた空気が胸に取り込まれると同時に激痛が走り、血の臭いや味がはっきりとわかった。今の今まで、意識は朦朧としていたのだと、気づいてからが地獄だった。
首の裏筋から脳へ向けて杭を打ち込まれる様な痛みが走り、奥歯が軋んだ。段々とどこが痛くて、どこに自分の体があるのか、わからなかった。イヴを探して首を回そうとすると激痛が走り、痛みでまた意識が遠のく。
「くぅっ――体、動かないし」
無理に動こうとすれば、痛みに気を失いかねない。
かといって、動かないわけにもいかない。
じっとしていると痛みはぼやけるが、同時に強い眠気に襲われた。
痛みを恐れれば、確実に意識が飛ぶ。
動けば痛みで意識が一瞬で飛びそうになる。
堪ったものじゃない。
「……イヴ」
ココロは呼びながら、ああ、これはまずい、と感じた。
死ぬのかもしれない。
そう思うと、怖くてたまらなかった。
けれど同時に、これで終わるなら、それもありか、とも思ってしまった。
こんな状態になってようやく、ココロは自分の本心に気づいた。
両親の墓を暴いたあの日から、家族で暮らす日々を諦め切れず、過ぎていく時間と共に、諦める理由を探していたということに。
両親を探すと誓った幼い頃の自分は今では眩しすぎて、だから騙し続けて、自分に嘘を吐き続けた。そうして、ぼんやりとした感覚のまま大人になって、結婚したり、家族を作ったりして、大切な何かを見つけることで、願いを捨てていいと思えるだけの理由が欲しかった。
我ながら驚くほどの、たいした執着だ。
自分が感染者になったら、きっとその強い執念に従って、両親を探して彷徨うに違いない。
きっと誰もが、その最後の最後まで、自分の執着するものに気づかない。
或いはその最後が来ても、自分が最も求めていたものに気づかないのかもしれない。
でもそれはきっと、自分に嘘をついて生きてきた人だけだ。
ココロは微かに動いた左腕を地面に這わせ、無意識にカメラを探して、そういえば置いてきたんだった、と胸の中で笑った。
目が霞んでくると、もうすぐ終わるんだ、と感じた。
覚悟なんてできてない。
死んでいく人は、皆こんな気持ちになるんだろうか、とココロはぼんやり考えた。
「ココロちゃん! ちょっと、しっかりして!」
そんなエミリの声に、ココロの目に力が戻った。
視界いっぱいにエミリの不安そうな顔が映った。
そうだ。あたしは一人じゃない。
まだ、諦めちゃいけない。
ココロは気を強く持って、賢明に脳から伝達した。
まだ死ぬな。生きろ。何か、エミリに伝えるんだ。
「く、かあだ、うごかない」
ダメだ。さっきより呂律が回らない。
「なに? なんです?」エミリが顔を近づけた。
「――っは」
もう一度声を出そうとしたが、もう出来なかった。
話そうとするだけで、頭の骨が軋むように痛む。
けれど、さっきよりはマシだ。首から下の痛みがなくなってきた。
白い光が顔の前を掠めた。駆けつけたエルマーの懐中電灯の光だ。
「エミリ! ココロは!」
「体が動かないようです! 怪我をしているみたいで、光をください、私のはこの雨で」
「テム、ライト持ってろ」
そう言ってエルマーが懐中電灯をテムに持たせた。
瞬間、エルマーとエミリの表情が露骨に歪んだ。
「やだ、血がこんなに、どこから……とにかく止血をしないと」
ココロは二人の会話から自分の状態を推測しながら、人形のように身を委ねた。
エミリはココロの体をゆっくり地面に降ろし、今にも泣き出しそうな子供のような声で言った。
「いや、いやだよぉ。ダメ、ぜったいダメ」
情けない声、とココロは思わず笑って、いつ、と顔を顰めた。
けれど、エルマーやテム、エミリが傍にいるのを感じられて、それだけで気持ちが安らいで、胸も楽になった。痛みが消え、景色が消え、音だけの世界になってから、それも次第に消えていき、脈打つ鼓動も、静かになっていった。
夢なら醒めてほしいけれど、これはこれで、悪くはない。
そう思えた。
そう思える人生は、割と悪くなかったんじゃないかな。
ねえ、そう思うでしょ、お父さん、お母さん。




