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「エミリ! エルマー達と離れすぎたらまずいって!」
走りながら、ココロは訴えかけた。
「いいから早く山を降りますわよ! わたくし達がもたもたしてる間にエルマーくん達が逃げ遅れます! とにかく急いでください! あなたが思うよりこの状況はヤバいんですのよ!」
ココロは歯を食いしばってエミリの後を必死に追った。
廃工場の広場を離れ、木々の隙間を縫って駆けるエミリは、まるで景色が全て見えている獣のようで、滑るように斜面を下っていく。その後をトレースするように追走したが、イヴを背負っていると思うように体が動かない上に、踏ん張ると足元が滑って何度も尻餅を突いた。イヴの手が握るアリソンの耳と、ブリキの玩具が顔の前でチラチラ跳ねるのを気にしながら、ココロは走った。
再び響いた乾いた銃声が、空に吸い込まれていった。
大丈夫、まだ二人は無事だ。
そう冷静に捉えながら、ふと、なんでこんな所で、こんなに必死になっているんだろう、と思った。
自分達にはあたたかい家があって、怖い思いなんてしないで済む世界が傍にあるのに、なんでこんな冷たい雨の中を、感染するリスクまで冒して、感染者の子を背負って走っているんだろう。見捨てられないという気持があったとしても、状況が悪くなればなるほど、バカなことをしたんじゃないかと思えてくる。
背後から、エルマーの銃声が連続して聞こえた。
雨音に混じって、エルマーとテムの声が聞こえる。
ココロは木の幹に体をぶつけるようにして止まると、背後を振り返って二人の名前を呼んだ。
「ココロさん! 止まらないで!」
「でも二人が」
言いかけた時、多少闇になれてきた目が、追いかけてくる二人の影を捉えた。エルマーもテムも血相を変え、自動小銃も放り出し、テムにいたってはリュックすら持っていない。ポケットいっぱいにライフルの弾倉を詰め込んで、エルマーのあとをぜいぜい言いながら追っていた。
「ココロ、ライフル貸してくれ!」
「熊は!? やっつけた!?」
「熊じゃなかった! でかい感染者だ! 多分ビッグフットだ。動きは早くないけど追って来てる! マシンガンじゃビクともしなかった!」
エルマーが振り向くと、暗闇の向こうに大きな影が現れ、こっちを凝視したのがわかった。
ココロは肩に引っ掛けたライフルをエルマーに渡した。
「あたしたちだけじゃやばいって、こんなのさ!」
「これだけ撃ってりゃ銃声がアンティコパにも届いてるはずだ! それに賭けるしかない!」
「そっか、アンティコパが来てくれれば」
「そうならない可能性も考えないといけないけどな。エミリ、ライフル!」
「はい、はい!」
先を行っていたエミリが肩からライフルを降ろして投げた。エルマーはそれをキャッチすると、弾倉を抜いてポケットへ捻じ込み、もう一丁を構えた。ボルトを引いて、大きな影に向けて三発撃った。ココロの目から見ても、その弾丸は当たったように見えたが、ビッグフットはまったく動じず、斜面をゆっくり降りて来た。
「ちょっと、なんで当てないのよ!」
「当たっても足止めにならないんだよ! いいから行けよ!」
「じゃあ一緒に逃げようよ!」
「囮になって時間稼ぐくらいできる! テム、俺の傍を離れるなよ!」
「ココロさん! こっちです!」
「そっち逆じゃん!」
「そっちは感染者がうろついているんです! 転んだりしたら捕まりますわよ!」
「エルマー、ルート変わるって」
「わかったから急げよ、ケツ蹴り飛ばすぞ!」
ココロは息を整え、ぐっと足に力を入れてエミリの後を追いかけた。
後ろから散発的に銃声が聞こえる。
なんだかもう、現実感がない。自分が立っている所すら、どこなのかもわからない。
いっそ、これが夢であってくれたらと思う。昨日マリオと整備を終えて帰って、ベッドに入って見ている長い夢。そうであれば、もう一度――。そこまで考えて、もう一度やり直せたとしたら、いったい何処からやり直せばいいんだ、と思考が止まった。
どこまで遡れば、今のこの状況に辿り着かない道を選べるんだろう。
もし、その道を選んだとしたら、こんな状況にはならなかったかもしれないけれど、今までの嬉しかったことも、苦しかったことも、悲しかったことも、楽しかったことも、全てなくなるのだろうか。エルマーやテムと、エミリとも、今とは違った出会い方をして、違う関わり方をしていたのだろうか。
ああ、それはイヤだな。
お父さんもお母さんもいないけど、あたしは今のエルマーやテム、エミリが好きだ。
そう感じることが出来る自分が、今がいい。
「――あっ!」
不意に足元から地面がなくなって、バランスを崩した。
「ココロさん!」
先を行っていたエミリが踵を返した。
ココロは傾いた体を支えようとして、懐中電灯から手を離した。闇の中を手で探り、指先が木の幹を引っ掻いた。まずい。背中を何かに引っ張られたように、体が一気に傾く。負ぶっていたイヴが、背中から離れた。ココロは反射的に体を反転させ、イヴを抱き寄せて体を丸めた。
そしてそのまま、ただ祈った。
暗闇の底へ引きずりこまれていくのがわかる。風を切る音がする。
「ココロちゃん!」
エミリの声を最後に、全身から怖い音を聞いた。
肌を切り、骨を打ち、鈍い痛みと衝撃が、音と一緒に全身を駆け巡った。
ココロは息が詰まるような衝撃を背中に受けるのを最後に、完全に意識を失った。




