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エミリの正確な先導のお陰で廃工場が見える距離まで辿り着いた。
木々の傘がなくなった開けた土地には、雨が強く降り注いでいて目を開けていられなかった。
下着も服もすっかり水浸しで、衣服が肌に張り付く感触も気持ちが悪い。
しかしそれ以上に、夜間の廃工場の雰囲気に呑まれた。工場の周りには幾人かの感染者の影が動き、そこが遊び場にしていた秘密基地だとはとても思えなかった。
「夜はまるで別世界だな」
エルマーの言葉には、ココロも納得できた。
人が足を踏み入れるような場所じゃない。
そこが誰にも守られていない場所であることを、こうして目の前にしてようやく理解した。
「ゾンビ、いっぱいいるよ」テムが不安そうに言って、垂れた鼻水を啜った。
「この雨なら俺達の足音もいい具合に消えるな、真っ直ぐイヴの所へ向うぞ。感染者がうろうろしてるから、絶対に気を抜くなよ」
「わかった」
エルマーは肩に提げていた自動小銃を前に持ってくると、スライドを引いて弾丸を薬室へ込めた。エミリと位置を入れ替えたエルマーが草を掻き分けて進み、ココロ達もその後に続いた。
「うわっ――!」
ぬかるんだ大きな水溜りに足を取られてテムが転んだ。
ココロが立たせ、「泥もこの雨で落ちちゃうね」と笑いかけ、エルマー達に遅れないように急いだ。工場の周りに確認した感染者の数は六体で、この雨音の中でもこちらの気配を察知したようで、すぐに向ってくる素振りを見せた。
「俺のせいかな、さっき転んで、声出しちゃったから」テムが声を潜めた。
「違うよ」ココロは言った。
感染者の習性や特性の記録はあくまで昼間に限定されている。全てが闇に包まれたこの環境で、彼等の行動がどう変化するかはわからない。聴力や視力、運動能力、思考力、それら全てが昼間とは違う可能性もある。ただ、見てわかる程に動きが機敏になっているわけではないので、注意を払っておけば襲われる心配はなさそうだ。とはいえ、いつもと勝手が違うぶんの怖さはある。
「ココロ、テム、こっちだ」
先に廃工場の屋根の下へ駆け込んだエルマーに呼ばれて、ココロとテムも後に続いた。
四人は息を整えながら、衣服に溜まった水を叩き、絞り出した。エルマーと、ココロ、エミリが服の水気を絞る中、いち早く動いたのはテムだった。やはりイヴのことは心配だったようで、終始怯えっぱなしでも、ここに来て男を見せた。
「テム、一人で行くな。奴らがその辺に――」
言い終わる前に、イヴの為にこしらえたバリケードの前に駆けつけたテムが叫んだ。
「兄ちゃん大変だ!」
「どうした」
「バリケードが壊されてる!」
それを聞いて、ココロ達は崩れたバリケードの前に駆けつけ、愕然とした。
急ごしらえとはいえ、決して軽くは無いガラクタを積み上げたバリケードが簡単に崩されるはずは無い。
少なくとも、イヴにも、他の感染者にも不可能だ。
しかし現にバリケードは何者かの手によって崩されていた。ドラム缶やロッカーやデスクといった大きな物が動かされている。バランスを崩して自重で潰れた可能性もあるが、これを組み上げた時、蹴ったり押したりして、簡単に崩れないか確認した。
「ココロ、そっち持て、持ち上げるぞ」
「わかった」
ココロとエルマーは荷物と銃を置いて、部屋の入口を塞いでいた廃材を持ち上げた。すかさずテムが身を屈めてその下を潜り、イヴを匿っていた部屋まで頭を突っ込んだ。
「テム、イヴは!?」
「いない!」
「こっちにも居ません!」
辺りの機材の影を探していたエミリが言った。
テムが戻ってくると、ココロとエルマーは腕から力を抜いた。廃材が落ちた衝撃で、バリケード全体が完全に崩れた。
「もしかしてアンティコパが……いや、マンイーターがまだいたのか?」
「それはありません、バリケードには爪痕もありませんし、もしも獣の仕業なら、あの子が襲われたということです。でもここには、血の痕すら見当たりません」
エミリがバリケードや地面に光を走らせて言った。
エルマーは頭から滴る雨を手でぬぐい、頷いた。
「探そう、近くに居るかもしれない」
四人は懐中電灯で辺りを照らしながら、手分けしてイヴを探した。
容赦なく降り続ける大粒の雨は、それだけで視界を遮る。懐中電灯の灯りを頼りに探すしかないにしても、その光がチカチカと反射して、目を霞ませる。ココロは掌を傘代わりにするようにおでこに当て、イヴの姿を探した。
「イヴ! どこにいるの!」
廃工場の裏手に回れば、木々の影に別の感染者の影が動いた。
ここまで来るといちいちビクついてもいられず、あいつでもない、こいつでもないと動く影を探した。遠くでエルマーやテム、エミリが必死にイヴの名を呼ぶ声がする。長く雨にさらされたせいで体温が下がっていくのを感じる。ココロは口で息を吐きながら、周囲にゆっくりと光を当てて目を凝らした。カラカラ、と小さな音が聞こえた。光を当てると、茂みの影からずぶ濡れになったイヴが姿を見せた。アリソンとブリキの人形を腕に抱えていて、怪我もなさそうだ。
「イヴ」
よかった。とココロは胸を撫で下ろし、エルマー達にイヴを見つけたことを知らせた。イヴの手を引いて、屋根の下まで連れて行き、水浸しになったイヴの髪を持ち上げて軽く絞った。体に触れると酷く冷たいが、寒がっている様子もなければ震えてもいない。
「イヴは寒くないの?」
瞳を覗き込んで訊いてみたが、イヴは応えなかった。衣服を絞るココロの真似をしてアリソンの腕を絞って水を出した。本当に真似が上手になった。ココロがそうしていると、エミリとエルマーが戻ってきた。
「見つかったか」
「うん」
「ひとまず安心ですわね、そういえばテムくんは?」
「あいつどこまで探しに行ったんだ?」
それほど遠くへは行ってないはずだが、この雨の中だ、声が掻き消されたとしても仕方が無い。
エルマーが両手でメガホンを作ってテムを呼んだ。返事が無い。ココロは懐中電灯の光を空に向けて振ってみた。声が届かないなら、光が合図になるはずだ。すると、向こうの茂みからがさがさと何かが走ってくる気配がした。ココロが光を当てると、テムが必死に走ってくる姿が見えた。ただ、その形相は何かから必死に逃げているようだった。
「なんか様子が変、っていうか顔が変」
「あいつまた何か見つけたんじゃ」
のんきに言っていると、テムが叫んだ。
「兄ちゃん! やばい! 逃げて! 熊だっ!!」
それを聞いてココロ達は戦慄した。
「熊は背中を向けて逃げたらいけませんのよ!」エミリが叫んだ。
今、このタイミングでマンイーターと遭遇するなんて冗談じゃない。テムが見つけて連れてきたんじゃないかと思ったが、今の今まで何かの気配がしていたのは、その熊のせいだったのかもしれない。
エルマーはすぐに荷物を降ろすと、自動小銃を構え、テムの背後に照準を合わせた。
「エミリ! お前が目になってココロ達と先に行け! 銃は捨てるなよ!」
「エルマーくんは!?」
「足止めする! 急げ! テム! こっちだ!」
「ココロさん、行きますわよ!」
エルマーとエミリの判断は早かった。
ココロははっとしてリュックを放り、腰を屈めてイヴを呼んだ。
「イヴ、乗って」
「何してるんです!」
「イヴはこの状況が危ないってわからない、負ぶって行く!」
言うと、突っ立ったままのイヴの手をエミリが引いて、ココロの背中に押し付け、両腕をココロの肩に引っ掛けさせた。ココロも腕に力を入れてイヴを背負って立ち上がると、片手に懐中電灯を持ち、エミリが先導する背中を照らして追いかけた。
そしてすぐ、背後から張り詰めたエルマーの声と、銃声が聞こえた。
「そのまま真っ直ぐ駆け抜けろ!」




