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夢と現が入れ替わるように覚醒したココロは、異様な息苦しさを覚えて体を起こした。
喉に詰まる異物感に喉を鳴らし、吐き気をこらえて、喉の中に指を差し込んだ。
口の中になにかある。唇と舌に、何かが纏わりついている。
ココロはそれを手で掴み、ぺっぺっと吐き出した。
「――な、なにっ?!」
見ると、口に入っていたのは、黒い羽だった。
寝惚けていたココロは、なんで自分の口から黒い羽がと目を疑い、悪夢を見たのは、もしかして悪魔にとり憑かれたからなんじゃないかと、ファンタジーな想像を膨らませた。
「ックエ、ックエ、ッツエ」
その声に目をやれば、枕元で熟睡していたミートが寝言を言って嘴をカツコツと鳴らしていた。
「ミートの羽か」
寝惚けていたとはいえ、かなり恥ずかしい妄想をしてしまった。
そう理解した途端、悪夢の内容はすっかり忘れてしまっていた。
酷い夢だった気がするのに、どんな夢だったかまったく思い出せない。酷く後味の悪い、それでいて、どこか心地いい夢。そんな感覚だけがぼんやりと胸に残っている。
しかしそれがまさか、飼っている鳥のせいとは思いもしなかった。
「……こいつめ」
恨めしく見たが、ミートの腹に顔をうずめて眠っていたのは自分のほうだ。
それが証拠に、ミートのぷよぷよの腹には、自分の涎がべっとりとついている。ココロは手についた涎をミートの体で拭い、ほっと息を吐いて窓に目を向けた。
ココッ、と雨粒が当たる音がする。
ココロはベッドから出て、カーテンを開けた。
「日脚だ」
雲の隙間から日脚が差していた。
昨晩、疲れ果ててすぐにベッドに入ったが、落ちる寸前に雨粒が窓を叩く音を聞いた。夜のうちにかなり降ったようで、窓にも沢山の水滴が滴っているが、外はそれほど降っていなかった。
窓を開けると、湿った風が部屋に流れ込んできた。
緑色の草原が、雲間から差す日脚の光りを浴びて翠色の海を思わせるように輝き、波打った。
脚を生やした雲が、コロニーを覆っていく。
そんな美しい景色に、寝覚めの悪さもすっと晴れた。
ココロは鼻を啜ると一階へ降りて、洗面所で顔を洗った。
リビングで時計を確認すると、針は七時半を指していた。
マリオはもう仕事に出ているようで、居ないとわかるとほっとした。
グレイスがうまく言ってくれたとは思うが、自分から嘘がバレないとも限らない。
特に昨日のことがあって、今は気持ちにも余裕がない。
「ココロちゃん」
階段を降りてきたリチャードに声をかけられ、ココロは振り向き、見上げた。
杖を突いたリチャードが目をパッチリと開き、ゆっくりと階段を降りてきた。
「大丈夫かね? 昨晩は酷くうなされていたようだけど」
「ああ、ちょっと夢見が悪くて、もう平気」
そう言うと、リチャードはよかった、と微笑んだ。
「マリオさんはもう仕事へ向った。昨日は晩御飯も食べずに眠ってしまっただろう? 朝ごはんなんだが、昨日私が町に出たとき買ってきたサンドウィッチがあるから、食べてしまいなさい」
「ありがとうございます」
テーブルに蓋がされた大皿があった。
リチャードはその蓋を取り、召し上がれ、と手で指した。
本のように分厚く大きなサンドウィッチがあった。レタス、焼いたベーコン、たまねぎ、トマト、卵とシンプルだが、一つ一つの具の量がとても多く、カラフルな地層のように重なり合って、焼き目のついたパンに挟まれていた。
「レニーベーカリーに行ったんですか?」
「うん。チケット一枚で、三つもくれた。あんまり大きいんで、私もマリオさんも一つでお腹がいっぱいになってしまって、その後すぐ眠気に襲われてしまった」
「何人ですか、って聞かれませんでした?」
「うん。三人と答えた……もしかして、だから三つくれたのかい?」
「チケット一枚で家族分。ここのサンドウィッチって潰して食べないと具がこぼれちゃうんですよね。特製ソースとマスタードとスパイスが効いてめちゃ美味いけど」
言いながら、ココロはじわりと口の中に溢れた涎を飲み込んだ。
「なるほど。では今度は大所帯だと言って、もっともらおうかな。旅の弁当にとてもいい」
リチャードの企みを聞きながら、ココロはキッチンから包丁を取って、サンドウィッチを四等分にカットした。具をパンでしっかりと押さえつけるように強く握り、大きく口を開けて頬張った。冷蔵庫から牛乳瓶を取り、片手で蓋を弾いて牛乳で流し込んだ。
「うっま」
「いい食べっぷりだ。こっちまで元気になるね」
「リチャードさん、家族は何人なんですか?」
リチャードは肩を竦めながら小さく笑み、引いた椅子に腰掛けた。
「もう、こんな老いぼれに待つ者はいないよ。いつか皆そうなるし、皆そうなるものなのだと実感してからは、不思議と悲しくはなくなった」
「寂しくない?」
「最初は寂しいよ。きっと、誰しもがそうだ。けど思い出せなくなるほど時が経つと、寂しさも忘れるものなんだよ。君ならわかるんじゃないかな?」
そう言われて、やはりリチャードが特別な事情を抱えていることにココロは気づいた。
「もしかして、リチャードさんの家族って」
「うん。この間はココロちゃんがトイレにこもってしまって話しそびれたが、皆感染者となったよ。妻や息子達、一緒に育った友人や顔見知り、コロニーに暮らしていた時すれ違った顔も、出会ったこともない誰かもね」
トン、とリチャードは杖で床を突いた。
「死化」
「そう。もう三十年以上も前の話になる」
「じゃあ、門で記載したコロニーって」
「もう存在しない。門番の彼等も、わざわざ調べることもないだろう。基本的に他所のコロニーの有無に人は無関心だ。消えていようといまいと、その存在を疑うことはない。死化したコロニーの生き残りにとって、故郷とは自分の魂にのみ残留する幻だ」
「だから旅を? 帰る場所が、もうないから?」
訊くと、リチャードはその言葉をじっくり考える仕草を見せて、胸に手を添えた。
「けっこうクルねその言葉、なんだか急に寂しくなってきた」
忘れていた感情を思い出し、自分でもそのことに戸惑っているような表情だった。
どこか間の抜けたというか、独特な感情表現をする人だ。
「ごめんなさい、変なこと訊いちゃって。あたし変だな、悪い夢見たせいかな」
「気にしなくていいよ。それに、そうして訊かれでもしないと、本当に忘れてしまいそうで、ありがたいくらいだよ」
リチャードの言葉の意味がわかるような、わからないような、ココロは考えながら頬張ったサンドウィッチを飲み込み、二つ目のサンドウィッチに手を伸ばした。
時計がコチコチと時間を刻む音を聞き、時折リチャードが杖で床を突いた。
そうしていると、ココロは空気に混じる振動を感じ取り、顔を上げた。
耳を澄ませて目線を上げ、振動の出所を探る。キッチンの窓がカタカタと音を立てた。
風や地震かと思ったが、すぐにココロの耳が音を捉えた。
「どうしたんだい?」
「聞こえません?」
「……いや」リチャードは耳をほじったが、音は聞こえなかった。
「エンジンの音だ」
ココロはサンドウィッチを咥えたまま外へ出た。
リチャードも後に続き、玄関を出て、音を探るように辺りを見回した。
ココロは青空と、それを覆う灰色の空を見上げ、空気を伝わってくる音を肌で感じ取った。
この空気を打つような音は、内燃機関を積んだ車両のもので間違いないが、コロニーではまず聞くことのない排気量だ。
「私にも聞こえた。向こうから来るね」リチャードが爪先立ちになって門の方を見た。
ココロは桜の木のそばに走り、目を凝らした。
日脚の光りを反射して、ものすごい勢いで道を進んでくる。
鼓動音は次第に大きくなり、時折破裂するような爆発を起こした。
「リチャードさん、見に行こう」
「ちょ、ちょっと待っておくれよ」
ココロはサンドウィッチを丸呑みにして、胸を叩きながら丘から駆け下りた。
リチャードも杖をコツコツ突いて、急いで坂を下った。
風が止むと、それは土煙を上げながら風のように迫ってきた。
見たこともない二輪車が迫ってくると胸が躍った。
そのバイクはギアを落とし、エンジンブレーキを効かせて減速を始めた。ちょうどリチャードが追いついてきたのと同時に、ココロの眼前で停車した。
ドルッドルッ、と間近で聞く音は空気を殴りつけ、ココロの腹の奥の内臓まで震わせた。
まるで間近で竜が唸っているような迫力がある。
水滴が振動で揺れ、ボディの表面を滑って落ちた。
見たこともないほど巨大な二輪車は、角ばった鋼鉄の鎧のようなボディで覆われ、頭には二つの大きなヘッドライトを備えていた。所々に可愛らしい動物のキャラクターステッカーが貼ってあって、その迫力からは少し浮いていた。
ただ、一番浮いていたのはライダーだった。
トラックのような太いタイヤを履いたそれに跨っていたのは、黒いコートを羽織り、サングラスをかけ、無骨なガスマスクで鼻から下を覆った女性だった。長い金髪が風にそよぐと、キメの細かい美しい肌にゾワッとした。
同じ女であるココロも息を呑むほど、美しい女性だ。
コートの開けた黒いレザーのチューブトップには、大きな乳房が息苦しそうに納まっている。レザーパンツは美しい曲線を描き、踵まで一直線に伸びるブーツの底も高く、そのファッションセンスに、なぜか似ていないエミリを思い出した。
しかしこの雰囲気、もしかして、とココロは神妙な面持ちになった。
女性はエンジンを止めると、「喧しくてすみません」と軽い調子で言った。
マスクに篭っていても、その声はよく通り、どこか母性を感じられて耳に心地よかった。
「こんな朝早くにごめんなさい。起こしてしまいましたか?」
訊かれて、ココロは小さく首を振った。観察するように見ていると、女性は自分がとても珍しい生き物であることを思い出したようにはっとして、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「自己紹介が遅れてすみません、私サニー・サンセットといいます。ちょっとお尋ねしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
名前より、そのガスマスクとサングラスは外さないのか、と気になった。
「なんですか」
「管理人さんのお屋敷はどちらに?」
やっぱりそうだ、とココロは顎を引いた。
この人は、アンティコパだ。
「それなら、居住区の北の一ブロックです。行けばわかると思いますけど」
「北一ですね、ありがとうございます。門番の方に聞きそびれてしまって、助かりました」
そう言うと、サニーと名乗った女性はエンジンをかけた。
バイクが目覚めると、途端に辺りの空気が震え、強い存在感を放った。サニーはアクセルを一度あおって回転を上げると、ギアを入れ、発進した。太いタイヤが力強く地面を蹴り、ロケットのように加速して走り去って行った。
「……少し抜けた女性だが、あれはアンティコパだね」
ココロの脇でじっと様子を覗っていたリチャードが言った。
彼女が走って行った方を見つめる白い瞳が、どこか鋭い光りを宿していた。
「あの人が、アンティコパ」
「おや、アンティコパを知っているのかい?」
「昨日知りました。残忍で冷酷な、感染者を狩るハンターだって」
「本当の意味で、感染者にとどめをさす死神だ。感染の拡大を防ぐ為に派遣され、その為ならあらゆる手を尽す、正義の味方。彼女も例外ではないだろう」
リチャードの声は静かだが、微かに怒りや憎しみを孕んでいるように感じた。
「あらゆる手を尽す、正義の味方」ココロは反芻した。
「私の家族も、彼等に消されたのだろうね」
リチャードにとってアンティコパとは、家族の仇、とも言えなくもないのかもしれない。
そう思うとココロは不安になった。
彼の垂れた瞼の奥にある瞳には、今までにない力を感じる。
そんなココロの観察するような視線に気づいてか、リチャードはいつもの優しい表情に戻ると、杖の先を空へ向けて突いた。
「ココロちゃん、雲行きが怪しい。そろそろ家に戻ろう」
「あの、リチャードさんに見てもらいたいものが、あるんですけど」
「……ビデオカメラで撮影した映像記録かな?」
「昨日、あたし達すごいもの見つけちゃって、それで、なんとかイヴを助けたくて」
言葉は足りなかったが、ココロの深刻そうな表情にリチャードは目を眇めた。
「……雲行きが怪しいのは、空だけではないということか。いったい、何を見たんだい?」
「じゃ、続きは部屋で」
ココロは言うと、リチャードの手を引いた。




