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ココロぞんび  作者: キタビ
第八話 追いかけてくる未来を人は予感というそうだ
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 水の底に沈んでいるような息苦しさを感じる夢のなかで、ココロは瞼を開けた。

 手をついた地面にはぬるい水溜りがあり、鉛のように重たい体を起こして辺りを見回しても、暗闇が続くばかりで何も見えない。濡れているはずの掌に目を凝らしても、その輪郭すら捉えることができないほどの深い闇。そもそも自分が目を開けているのか、閉じているのかもわからなかった。体があるのかさえ怪しく思えてくる。


 ココロは右手で左手に触れて、実体があることを確認しながら立ち上がり、暗闇の中を彷徨った。辺りは水浸しなのか、一歩進むたびにパシャパシャと水を蹴る音が聞こえる。

 障害物や、人の気配、生き物の気配も感じられない。

 ココロは強い孤独感と不安を胸に、何かに追い立てられるように、終わりの無い暗闇に出口を探して走りまわった。

 何も見えず、聞こえるのは自分の息遣いと、水溜りを踏む音と、今にも破裂しそうな心臓の鼓動だけだった。

 走る理由がわからなくても、立ち止まってはいけないことはわかっていた。

 ココロは苦しい胸を掴んで、走り続けた。

 息が苦しい、頭も、胸も痛い。体がどんどん重くなり、熱くなっていく。

 それでも、立ち止まってはいけない。

 そうわかっていても、体力は限界だった。

 立ち止まりそうになると、突然世界に一筋の光が差した。

 出口が見えた気がして、ココロは最後の力を振り絞って駆け出した。


 けれどそれは、決して距離が縮まることのない光だった。


 見れば、その光は自分を照らしてすらいなかった。

 出口でも、太陽でもないとすればなんなんだと、ココロは光を見つめた。

 すると、眩しく輝いた光のなかに、ぼんやりと景色が浮かび上がった。

 七面ダックの丸焼きと豪勢な料理が並べられた我が家のテーブルと、五つの椅子だった。

 そしてその景色のなかに、エルマーやテム、エミリやマリオが現れた。四人は椅子に腰掛け、テーブルを囲み、何かお祈りをして、楽しそうに話しながら食事を始めた。


 お爺ちゃん、エルマー、テム、エミリ――。


 そう呼びかけようとしても、喉に何かが詰め込まれたかのように声が出なかった。

 助けを求めても、誰も気づかず、応えてはくれなかった。

 それどころか、みんなの輪の中にもう一人の自分が現れ、食卓に加わった。

 七面ダックのモモ肉を美味しそうに頬張って、エルマー達と楽しそうに笑う姿があった。


 冗談よしてよ。


 誰よそいつ。


 違う。


 そこにいるのは私じゃない。


「あたしはここだよっ――!」


 やっと出た声も、食卓を囲うみんなの笑い声に掻き消された。

 悔しくて、悲しくて、誰も気づいてくれない絶望に、足から力が抜けていった。

 ココロは堪らず膝を突き、目に見えない冷たい地面にへたり込んだ。

 顔を上げれば、目に映る光景に胸が潰されそうになった。


 夢だ。こんな最悪なの、夢に決まってる。


 夢なら早く醒めて、とココロは瞼を固く閉じ、両手で頭をガンガン叩いた。

 誰が、何があたしにこんな夢を見せるんだと、怒りを覚えた。

 ココロは固く握りこんだ拳を、自分の横面めがけて振り上げた。

 その腕を、誰かが掴んだ。

 ようやく誰かが気づいてくれた。

 そう思って顔を上げると、そこには懐かしい両親の顔があった。

 二人は少し照れくさそうに笑って、言った。


「大丈夫だよ。ココロも、こっちにくればいい」


 声色のはっきりしないぼんやりとした声に、しかしココロは、そうだ、こっちがあたしの、私の居場所だと、安心して胸を撫で下ろした。

 途端に皆が囲む食卓が偽者に思えて、息苦しさもなくなった。

 光から目を背けて、両親の胸に抱かれようとすると、「ダメだよ」と声がした。

 振り向けば、そこには幼い頃の自分がいて、驚いた。

 小さくて、生意気そうで、腕にアリソンを抱えた六歳くらいの頃の自分だ。

 目を擦ってもう一度見ると、幼い頃の自分の姿はイヴに入れ替わり、途端に自分の目線はぐっと低くなっていた。ココロは向かい側にいる女の子が、自分の大切な人形を抱えている事に、強い憤りを覚えた。


「それ、私のだよ! お父さんとお母さんがくれたの! 返して!」


 口を突いて出た声は、幼い頃のものだった。

 もう一度瞬くと、イヴの抱えていたアリソンは、自分の手元へと移っていた。

 ココロは安心してアリソンをぎゅっと抱きしめ、誇らしい気持ちで顔を上げた。

 全部、私のだ。

 これは、私のなんだよ。

 いいでしょ。

 お父さんもお母さんもいるんだよ。

 そんな自慢に似た感情を抱きながら見れば、イヴはどこか寂しそうな表情で佇んだまま、ココロの背後を指差した。


「ココロ、行こう」


 顔の横に伸びた手を掴み、ココロは振り向いた。


「うん。お父さん、お母さん――」


 帰ろう。そう言いかけて、ココロは言葉を失った。

 そこに居たのは、感染者となった両親だった。

 その虚ろな瞳に自分の姿が映っていても、目が合っているとも、心が通っているとも思えなかった。怖くなって手を引っ込めようとしたが、掴れた力に抗うことが出来なかった。


「ココロ、帰ろう」


 それっきり言葉を話さなくなった両親に抱かれ、ココロは泣きながらイヤだと叫んだ。

 そうしてあっけなく、首を噛まれた。声を出そうとしても、出なかった。

 熱くなった血が逆流していく感覚に、息もできなくなっていく。

 それでもどこか、満たされていく高揚感があった。

 このまま瞼を閉じたら、深く、穏やかな眠りにつける。そんな気がした。


「ちがうよ」


 すべてを受け入れようとしたココロは、その声に閉じかけた瞼を上げた。

 自分を抱きしめて、首に噛み付いていた両親が、何か強い力で引き剥がされた。

 ココロは途端に呼吸が楽になって、アリソンを抱きしめたままその場に座り込んだ。

 顔を上げれば、感染者になった両親と自分の間に、イヴが立っている。


「お父さん、お母さん――」


 ココロは遠くへ離れた二人に手を伸ばしかけたが、ゆっくりと立ち上がるそれの恐ろしい姿に、静かに手を引いた。

 両親は、黒い虫に覆われたような異形となって、こっちへ向って歩き出した。

 浅い息をして、呻き声を上げ、両腕を前に伸ばしながらよたよたと歩いてくる。

 あんなの、お父さんとお母さんじゃない。

 ココロは恐ろしくなって、けどこんな場所で一人ぼっちでいる事もイヤで、どうしたらいいかもわからずに、ただアリソンを強く抱きしめた。瞼をぎゅっと瞑って怯えるココロの頭を、イヴが優しく撫でながら、「大丈夫」と繰り返し声をかけた。


 本当に怖かったけれど、イヴが大丈夫だと言う度に、一歩ずつ進む怪物は、まるで後ろ向きに歩いているように、遠くへ離れていった。

 やがて怪物は歩くことをやめ、霧のように、闇の中へ消えてしまった。

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