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水の底に沈んでいるような息苦しさを感じる夢のなかで、ココロは瞼を開けた。
手をついた地面にはぬるい水溜りがあり、鉛のように重たい体を起こして辺りを見回しても、暗闇が続くばかりで何も見えない。濡れているはずの掌に目を凝らしても、その輪郭すら捉えることができないほどの深い闇。そもそも自分が目を開けているのか、閉じているのかもわからなかった。体があるのかさえ怪しく思えてくる。
ココロは右手で左手に触れて、実体があることを確認しながら立ち上がり、暗闇の中を彷徨った。辺りは水浸しなのか、一歩進むたびにパシャパシャと水を蹴る音が聞こえる。
障害物や、人の気配、生き物の気配も感じられない。
ココロは強い孤独感と不安を胸に、何かに追い立てられるように、終わりの無い暗闇に出口を探して走りまわった。
何も見えず、聞こえるのは自分の息遣いと、水溜りを踏む音と、今にも破裂しそうな心臓の鼓動だけだった。
走る理由がわからなくても、立ち止まってはいけないことはわかっていた。
ココロは苦しい胸を掴んで、走り続けた。
息が苦しい、頭も、胸も痛い。体がどんどん重くなり、熱くなっていく。
それでも、立ち止まってはいけない。
そうわかっていても、体力は限界だった。
立ち止まりそうになると、突然世界に一筋の光が差した。
出口が見えた気がして、ココロは最後の力を振り絞って駆け出した。
けれどそれは、決して距離が縮まることのない光だった。
見れば、その光は自分を照らしてすらいなかった。
出口でも、太陽でもないとすればなんなんだと、ココロは光を見つめた。
すると、眩しく輝いた光のなかに、ぼんやりと景色が浮かび上がった。
七面ダックの丸焼きと豪勢な料理が並べられた我が家のテーブルと、五つの椅子だった。
そしてその景色のなかに、エルマーやテム、エミリやマリオが現れた。四人は椅子に腰掛け、テーブルを囲み、何かお祈りをして、楽しそうに話しながら食事を始めた。
お爺ちゃん、エルマー、テム、エミリ――。
そう呼びかけようとしても、喉に何かが詰め込まれたかのように声が出なかった。
助けを求めても、誰も気づかず、応えてはくれなかった。
それどころか、みんなの輪の中にもう一人の自分が現れ、食卓に加わった。
七面ダックのモモ肉を美味しそうに頬張って、エルマー達と楽しそうに笑う姿があった。
冗談よしてよ。
誰よそいつ。
違う。
そこにいるのは私じゃない。
「あたしはここだよっ――!」
やっと出た声も、食卓を囲うみんなの笑い声に掻き消された。
悔しくて、悲しくて、誰も気づいてくれない絶望に、足から力が抜けていった。
ココロは堪らず膝を突き、目に見えない冷たい地面にへたり込んだ。
顔を上げれば、目に映る光景に胸が潰されそうになった。
夢だ。こんな最悪なの、夢に決まってる。
夢なら早く醒めて、とココロは瞼を固く閉じ、両手で頭をガンガン叩いた。
誰が、何があたしにこんな夢を見せるんだと、怒りを覚えた。
ココロは固く握りこんだ拳を、自分の横面めがけて振り上げた。
その腕を、誰かが掴んだ。
ようやく誰かが気づいてくれた。
そう思って顔を上げると、そこには懐かしい両親の顔があった。
二人は少し照れくさそうに笑って、言った。
「大丈夫だよ。ココロも、こっちにくればいい」
声色のはっきりしないぼんやりとした声に、しかしココロは、そうだ、こっちがあたしの、私の居場所だと、安心して胸を撫で下ろした。
途端に皆が囲む食卓が偽者に思えて、息苦しさもなくなった。
光から目を背けて、両親の胸に抱かれようとすると、「ダメだよ」と声がした。
振り向けば、そこには幼い頃の自分がいて、驚いた。
小さくて、生意気そうで、腕にアリソンを抱えた六歳くらいの頃の自分だ。
目を擦ってもう一度見ると、幼い頃の自分の姿はイヴに入れ替わり、途端に自分の目線はぐっと低くなっていた。ココロは向かい側にいる女の子が、自分の大切な人形を抱えている事に、強い憤りを覚えた。
「それ、私のだよ! お父さんとお母さんがくれたの! 返して!」
口を突いて出た声は、幼い頃のものだった。
もう一度瞬くと、イヴの抱えていたアリソンは、自分の手元へと移っていた。
ココロは安心してアリソンをぎゅっと抱きしめ、誇らしい気持ちで顔を上げた。
全部、私のだ。
これは、私のなんだよ。
いいでしょ。
お父さんもお母さんもいるんだよ。
そんな自慢に似た感情を抱きながら見れば、イヴはどこか寂しそうな表情で佇んだまま、ココロの背後を指差した。
「ココロ、行こう」
顔の横に伸びた手を掴み、ココロは振り向いた。
「うん。お父さん、お母さん――」
帰ろう。そう言いかけて、ココロは言葉を失った。
そこに居たのは、感染者となった両親だった。
その虚ろな瞳に自分の姿が映っていても、目が合っているとも、心が通っているとも思えなかった。怖くなって手を引っ込めようとしたが、掴れた力に抗うことが出来なかった。
「ココロ、帰ろう」
それっきり言葉を話さなくなった両親に抱かれ、ココロは泣きながらイヤだと叫んだ。
そうしてあっけなく、首を噛まれた。声を出そうとしても、出なかった。
熱くなった血が逆流していく感覚に、息もできなくなっていく。
それでもどこか、満たされていく高揚感があった。
このまま瞼を閉じたら、深く、穏やかな眠りにつける。そんな気がした。
「ちがうよ」
すべてを受け入れようとしたココロは、その声に閉じかけた瞼を上げた。
自分を抱きしめて、首に噛み付いていた両親が、何か強い力で引き剥がされた。
ココロは途端に呼吸が楽になって、アリソンを抱きしめたままその場に座り込んだ。
顔を上げれば、感染者になった両親と自分の間に、イヴが立っている。
「お父さん、お母さん――」
ココロは遠くへ離れた二人に手を伸ばしかけたが、ゆっくりと立ち上がるそれの恐ろしい姿に、静かに手を引いた。
両親は、黒い虫に覆われたような異形となって、こっちへ向って歩き出した。
浅い息をして、呻き声を上げ、両腕を前に伸ばしながらよたよたと歩いてくる。
あんなの、お父さんとお母さんじゃない。
ココロは恐ろしくなって、けどこんな場所で一人ぼっちでいる事もイヤで、どうしたらいいかもわからずに、ただアリソンを強く抱きしめた。瞼をぎゅっと瞑って怯えるココロの頭を、イヴが優しく撫でながら、「大丈夫」と繰り返し声をかけた。
本当に怖かったけれど、イヴが大丈夫だと言う度に、一歩ずつ進む怪物は、まるで後ろ向きに歩いているように、遠くへ離れていった。
やがて怪物は歩くことをやめ、霧のように、闇の中へ消えてしまった。




